第二章 王者の剣

〈1〉初陣

「あれっ、姫芽香じゃない!」



 車が東沢高校に到着した時、ちょうどランニングから帰ってきたらしい道着姿の一団から、快活そうな少女が顔を覗かせた。向日葵のように振った手から、弾けた汗が輝いている。


 さっそく週末に取りつけた練習試合。学校の車庫の肥やしとなっていた青のハイエースを紅葉が運転し、李桃たちは天童から北、隣接する東根市を越えて村山市までやってきていた。



「久しぶりね、りん。ランニングお疲れ様」


「サンキュ。けど、楽しいもんだよ。そこから曲がれば堂ノ前公園方面、真っ直ぐ行けばバラ公園からの徳内神社登り。コースには事欠かないんだ」



 学校の入り口から東の方角をあっちこっち指さして説明する彼女は、とても嬉しそうだ。



「ヒメちゃんのお知り合い?」


「ええ、彼女は林崎はやしざき凛。さっき通ってきたバイパスをもう少し行くと居合神社があるのだけれど。私はその近くにある道場で、彼女のお母様に居合道を師事しているのよ」


「そそ、姉妹弟子ってわけ。……てかさ、去年は寂しかったよ。誰かさんが伊氏波の剣道部を潰したらしくてさ、どの大会に行ってもいないんだもの」



 ぷう、と凛が頬を膨らませる。李桃にまで「やっぱりみんなヒメちゃんが好きなんだね」と二の腕を突かれた姫芽香は、ほのかに鼻の頭を赤くしてそっぽを向いた。

 彼女は朝八時の涼しい風を手のひらで仰ぎ、火照りを落ち着かせている。



「そ、そもそも。私たちは地区が違うのだから、会う機会もほとんどないでしょう?」



 照れ隠しの小言に、それもそっか、と凛はけらけら笑った。


 高校剣道の学校区分において、李桃たちの伊氏波高校は村山地区に含まれる。一方で東沢高校は、村山市という立地でありながら最北地区の扱いなのだ。年に数度開かれる、県内全域の高校を対象にした大きな大会でもない限り、公式試合で剣を交える機会は少ない。



「でもその様子だと、今年は期待していいんだね。改めてよろしく、姫芽香。村山さんも」


「ふぇっ? あたしのこと、知ってるんですか」


「そりゃもちろん。中学一年生にして、あの千葉ちば直刃すぐはから一本を先取した剣士を忘れるわけないじゃない。てか一昨年、県中総体で戦ったの覚えてない? わたしの惨敗だったけど」


「すすすすみません……面を着けたところしか見てなかったので!」



 結局思い出すことができずに、李桃は素直に頭を下げた。しかしまあ、そんなものである。

 いいっていいって、と気さくに許してくれた凛の案内で校内に入ると、体育館の前を過り、階段を二階へ上ったところに武道場があった。床はフローリングであるものの、その広さは伊氏波高校のそれより、倍近くもある。



「うおお、ひろーい! すっごーい! 汗くっさーい!」


「失礼ですよ翡翠ちゃん。わたしたちも、じきにこうなります」


「瑠璃も、大概失礼」



 剣道部特有の、独特な臭気にはしゃぐ翡翠たちへ、姫芽香の手刀が振り下ろされた。彼女は眉間を揉みながら、李桃に目配せする。



「ほら部長。彼女たちをしっかり率いてあげないと」


「えっ、あたし? 学年的にヒメちゃんじゃないの?」


「何を言ってるのよ。私たちを集めたのはモモちゃんだし、設立申請書の部長欄にも名前を書いていたでしょう?」



 呆れたような視線に、李桃はあっと声を上げた。



「えへへ、集まった順番に名前書いちゃってたよ……」


「そんなことだろうと思ったわ。でも、中学でも部長をしていたあなたなら問題ないでしょう」



 嘆息しながらも、柔らかく背中を押してくれる。なんだかんだ渋りながらも世話焼きな彼女にニヤけていると、つんと顔を背けられてしまった。

 そうこうしてるうちに、駐車を終えてやってきた紅葉から尻を叩かれる。



「いつまでぼさっとしてるんだ、さっさと準備しろ」



 彼女はそのまま武道場の奥に置かれた椅子に向かい、どっかと腰かけた。もう一つの椅子に座っている、眼鏡をかけた理知的な雰囲気の女性は、東沢高校の顧問だろうか。



「よう、美由紀みゆき。急に押しかけて悪いな、恩に着る」


「やめてよ柄でもない。他ならぬ『悪鬼あきの紅葉』の頼みよ、断れるはずないじゃない」


「うげ、まだそんな厨二臭い名前で呼ぶのかよ。お前は『慧眼の鷹見たかみ』だっけ? いいよなお前は。オレなんか、何が悲しくて秋と悪鬼の言葉遊びをされなきゃいけねぇんだって」



 美由紀の言葉に、苦い顔の紅葉が背もたれに身を投げ出す。どうやら過去に付けられた二つ名のようだが、彼女の名前がからかわれるのは今に始まったことではないらしい。



「とりあえず今日はよろしく頼む。電話で伝えた通り、うちはほぼ初心者だ。互角稽古だってここ数日しかしてない。地区大会優勝校の胸を借りさせてもらうぞ」


「鍋山さんと村山さんを抱えてよく言うわね。最北地区のトップ程度じゃ、村山地区の中の下とタイを張るのが精いっぱいなの、知ってるでしょ?」


「けっ、去年は県ベスト8に食い込んだだろうが。それに、そっちの部長が『妙音』の妹だってのも知ってんぞ。本当に、今日はボロ負け覚悟で来てるんだよ」


「タダで負けるつもりもないくせに。あの日から剣道を捨ててしまったあなたを引き戻した子たちでしょう? 勉強させてもらうのはこっちの方かもしれないわよ」



 互いにふてぶてしく座ったままで言葉だけは謙遜し合う謎の雰囲気に、胴の肩紐を結んでいる途中の翡翠と咲が手を止める。



「……なにあれ?」


「大人の、駆け引き」






 * * * * * *






「始めっ!」



 号令とともに、咲が飛びかかった。小柄な体躯を十二分に利用して、滑るように懐へ潜り込んでくる彼女に、対する相手も慌てて迎撃する。


 立ち上がりを制する役目を要求される先鋒には、スピードと手数に定評のあるの選手が置かれることが多いため、スピードでもスタミナでもそれを上回ることができるシステマが選ばれた。


 しかし、と言うべきかやはりと言うべきか。はじめこそ戸惑いを見せた相手も、剣道の年季という意地で盛り返してきた。防具という要塞から繰り出された我武者羅な体当たりに、咲の小さな体がバランスを崩す。



「取った――!」


「ん、させない」



 咲の瞳に烈火が灯った。システマの実力は、呼吸法によるスタミナだけではない。なぜここまで呼吸に拘るのか。それは、脱力から振り抜く尋常ならざるインパクトを放つためだ。

 当たり崩されたことで上がっていた手元を、呼吸とともに腰へ引きつける。スパァンッと痛快な打突音が、相手の追い打ちよりもわずかに早く響き渡った。



「面――ど、胴ありっ!」



 審判の二軍選手たちも、面が決まると思ったのだろう。目にもとまらぬ一撃に旗が乱れる。


 続いての次鋒には、強靭な肉体で攻防のバランスに優れる翡翠ムエタイが抜擢された。


 次鋒は、人数不足の際に歯抜けとなるポジションであるため、基本的にチームの中でも力のない選手が置かれることが多いが、近年では、捨ての選手を狩るために実力のある選手を配置し、確実に勝ち点を稼ぐ学校も増えている。そのどちらが来ても対応できると紅葉が見込んだのが、メンタル面でも強く安定している翡翠なのだ。


 東沢高校の次鋒は、大柄な女子だった。おそらく前者の意味での据えられた選手だろうが、単純な膂力による打突の重さは厄介である。多くの剣士から苦手とされるタイプかもしれない。



「よーし、いっくよー!」



 しかし翡翠は、圧倒的体格差にも臆することなく笑顔全開で踊りかかった。持ち前の明るさもあるだろうが、何より、他人が嫌がるポイントを気にしなくていいことは、強い。


 案の定振り下ろされたパワー溢れる面打ちを、首を傾け、肩にかかる面垂めんだれで受け止める。体当たりから即座に放たれる引き胴も、引きつけた肘を固めて防いだ。



「えっ……どうして?」



 相手の顔が曇る。無理もない。彼女に技を外すつもりは毛頭ないだろうが、結果的に肩や肘へと攻撃が当たった以上、勢いが全く衰える様子のない翡翠は恐怖でしかないだろう。



「へへっ、まだまだー!」



 さらに鍔迫り合いへ持ち込んだ翡翠は、ムエタイが得意としている膝蹴りの要領――もちろん、実際には蹴らないが――で突き上げるように重心を持ち上げ、首相撲で鍛えた首と、羽ばたくような肘打ちで引きしまった肩甲骨周りの筋肉、そして強く固い肘で相手を吹き飛ばした。


 予想だにしていなかった体当たりに、東沢の陣地があっとどよめく。

 当然、崩して終わりではない。翡翠はぶれない体軸のまま、竹刀を振り上げた。



「面あり!」



 姿勢が崩れたところへの真っ直ぐな打突。誰も文句を言わない、有効打突だ。

 中堅戦は最も重要なポイントである。例えば先鋒次鋒が負けてきた場合、ここで食い止めなければ団体としても負けが確定してしまう。これも負けられない。ここで落としてしまうと、相手チームを逆転の勢いに乗せてしまうからだ。

 つまるところ、絶対に敗北が赦されない役割。ここには、熟練の姫芽香居合が任された。



「無想宿神流・鍋山姫香。参ります――」



 背筋が通り、足さばきにも無駄がない。居合に磨かれた美しい構えは、一年のブランクを全く匂わせないものだった。

 近年では『スポーツ剣道』などと揶揄されてしまうほど、剣道はあくまで打突が主。対して居合は刀を真に正しく使っての斬撃。一見同じ剣の道にいながら、攻撃の技術は大きく異なる。


 竹刀よりも圧倒的に身幅の細い刀で、確実に相手の体を捉える稽古を重ねてきた居合由来の構えに、正中線を制された相手は攻めあぐねていた。

 ついに耐え切れず遮二無二打ち込んできた相手の出鼻を、正確無比な一閃が捉える。



「小手あり!」



 危なげない、理想の試合運び。余談だが、面を外した大和撫子の汗で上気した御顔に、敵味方問わず熱っぽい吐息を漏らしたことを追記しておく。


 副将戦では、敢えてのトリックスターとして瑠璃エスクリマが投入された。次鋒と同じく、人数不足の歯抜けに該当するポジションではあるものの、副将に充てられる力は次鋒と比べて想定しやすい。中堅が組み立ててくれた流れを大将へと繋げるため、安定した力量が求められるからだ。


 だからこそ紅葉は彼女を任命した。ここまでの勝敗の流れはどうあれ、相手は死に物狂いで勝ちを狙ってくる。その鼻っ柱を二刀流という特異な構えでへし折るためだ。

 そして竹刀と同様、相手の心を揺さぶる秘策もまた、二段構えである。


 コートに入る段階から彼女の抱える二振りの竹刀に、相手の動揺は隠せていなかった。それでも、二刀流の試合運びに速攻はないという安心感があったのだろう。そこがミソである。



「め、面あり!」



 試合開始から三秒で、瑠璃の有効打突が認められた。

 海外の二刀と戦った紅葉の指導の賜物と、エスクリマ特有の円運動で速攻を仕掛けた瑠璃は、油断している相手の竹刀を巻き落とディスアームし、円を描く流れから振り上げた竹刀で面を決めたのだ。

 竹刀を落とせば反則判定に入るが、止めの号令がかかる前なら一本を認められるのである。



「今度は負けないわよ、村山さん」


「おっ、お願いしましゅ! ……うぇぇ、舌噛んだぁ」



 なんとも気の抜けた我らが御大将は、剣道一本筋オリジナルの李桃。

 一進一退の攻防を展開する東沢高校の大将は、部長でもある凛。姫芽香の姉妹弟子というだけあって、剣先の威圧感だけで斬られるようだ。


 しかし、驕るわけではないが、李桃には余裕があった。



――中学一年生にして、あの千葉直刃から一本を先取した剣士を忘れるわけないじゃない。



 凛の言葉が頭を過る。千葉直刃。必ず再戦を果たすと誓った宿敵。あの人が発する濃厚な死の臭いに比べれば、恐るるには足らない。


 居合をルーツとした太刀筋も、中学時代に嫌というほど姫芽香と立ち会ってきたのだ。見事すぎるほどにピンポイントの攻撃をされる反面、狙いさえ読めれば避けやすい。



「面ェェェェェェ――えっ……?」


「やあああああああああっ!」



 李桃は凛の竹刀をすり上げ、居付いた彼女へと、逆に面を打ち返した。

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