〈9〉打って反省

「そう。他武術と剣道の融合を……」



 朝の静かな教室で、姫芽香は何となしに相槌を打っていた。机を挟んで、咲が髪を揺らす。



「ん。李桃の提案」



 四月に入って二週間を経ても、山形内陸部の朝は冷え込んでいた。窓の外からは朝練習に励む声が聞こえてくるが、その熱気の様子では、まだまだ桜は蕾のままらしい。



「楽しそうね」


「ん」



 短いやり取りをしたかと思えば、また静寂が戻る。さっきからこれの繰り返しだった。

 元々咲は口数が多い方ではないため、基本的に『会話が盛り上がる』状態にはならない。しかし今朝は、嫌に沈黙が身に染みる。寒さが増すような錯覚に、姫芽香はシャープペンシルを机に置くと、小さく肩を抱いて一度だけ身震いをした。


 ……いや、内心では分かっていた。今朝でも昨夜でもなく、昨日の放課後からであると。



「姫芽香はもう、剣道をしないの?」



 やはり切り出された話題に、はっと顔を上げる。



「言ったでしょう。私は――」



 しかし、予想をしていながら何の対策も講じておらず、やるせなさに目を伏せた。


 今日も訪ねてくるだろうあの子に、何と言えばいいのだろう。そんなことを考えていると、不意に机を回り込んできた咲が、こちらのブレザーを押し開き、勢いよく顔を埋めてきた。



「あひんっ!? ちょっと、咲! どこに触って……んっ!」



 はすはすと素早い呼吸がブラウス越しにも感じられ、思わず声が漏れる。



「分かったわ、分ったから。やめて、お願い……っ」



 何が分かったというのだろう。自分でも意味の分からない懇願をしながらもがくと、意外にもあっさり、咲は顔を離してくれた。



「姫芽香はムスク。大人っぽい」



 満足そうに頷いて自分の席へと戻っていく彼女に、姫芽香は胸が痛むのを感じていた。






 * * * * * *






 数日もすると、李桃たちの稽古は面を着けてのメニューに突入していた。まだ地稽古じげいこの一つである試合形式の稽古法までには踏み込めず、基本である四種の打突を繰り返し習得するところまでだが。


 本来であれば素振りの段階で数年の修練を積むことが望ましいが、最後の夏に控えたインターハイまで実質二年弱という期間では、贅沢を言ってはいられないだろう。


 稽古に一区切りがつき、面を外すと、壁際から稽古を見取っていた柳沼が唸った。



「二刀流と聞いて冷やかしにきたつもりだったが。なかなかどうして、悪くないじゃないか」



 そう言って歩み寄ってきた彼女は、おもむろに瑠璃の竹刀を拾い上げる。


 武術の特性を剣道に活かすと決めてから、防具をつけての瑠璃の稽古は、全て二刀で行うようにしていた。天童市内にある武道具店で二刀流用の小刀を買うまでは容易かったが、いくら李桃でも、その指導まではできない。そこで柳沼に指導の前借を頼み込み、見るだけだという条件で引き受けてもらったのだ。



「知っているか? 宮本武蔵が好きだというきっかけで、海外では二刀流の剣士が多いんだ」



 柳沼は小刀を左手で正眼に、大刀を右手で上段に掲げた『正二刀』の構えを取ってみせる。



「日本で二刀流といえば小刀が牽制、大刀が必殺の一撃と役割が決められているものだが、海外の連中は両の剣とも攻撃に用いる選手が多くてな。これがまた速いのなんの。戦っていて面白かったよ」


「へー。つかどーでもいーけどさ、なんで紅葉くれはセンセーがここにいるの?」



 不意に放たれた翡翠からの口撃に、柳沼の構えがずっこける。



「……いちゃ悪いか?」


「ううん、ぜんぜん? でもウチらが初めて道場に来た時、センセー言ってたじゃん。『五人に足りない以上、顧問としての指導はしないからな』って、ちょードヤ顔でさ」



 声色の真似どころか、セリフの最後に『フッ……』と格好つけて髪をかき上げるような仕草まで脚色され、赤いジャージの内側で、柳沼は羞恥と怒りに肩を震わせた。



「こっ、ここがオレのサボり場所だからだ。お前らが騒がしいせいで正直迷惑してるんだよ!」


「じゃーさっきのは何? 『二刀流と聞いて冷やかしにきたつもりだったが。なかなか――』」


「だああ分かった、やめろっ! 李桃の指導だけじゃ不安だから来たんだよ、悪いか!」


「ええっ、紅葉先生、そんなこと思ってたんですかっ!?」


「ったり前だ、三倍段だって間違えてたろうが。あと紅葉言うな、柳沼先生と呼べ!」



 くわと歯を剥き出しにした威嚇と、茶化しの視線が交錯する。

 日本史担当として頻繁に顔を合わせることと、興梠姉妹の区別として名前呼びにしていることもあって、李桃たちは柳沼のことも名前で呼ぶようになっていた。きっかけは確か、初めての日本史の授業で彼女が名乗った際、柳沼紅葉という字面に翡翠が興味を持ったからだったか。



「もみじ……紅葉」


「おいコラ今わざと言いやがったろ! お前だって『ひすい』と書いて『みどり』だろうが!」


「……もみもみ、紅葉?」


「それを言っちゃーお仕舞いですよ咲先輩。センセーに揉むところないし」


「お前ら――っ! !」



 両手に携えたままの竹刀をそれぞれ目がけて振り上げた紅葉に、咲と翡翠が脱兎の如く散開する。それを半ば呆れながら李桃と瑠璃が見送る。ここまでがワンセットである。


 ごほんと大仰な咳払いをして、紅葉は二刀を持ち主へと返しながらぼやいた。



「ったく……あんまりふざけてると、五人集めても顧問についてやらないからな」



 拗ねたように乱暴に髪をかく彼女に、竹刀を受け取った瑠璃は小さく噴き出す。



「ですが確かに、五人集まらないと正式な部活として申請できないんですよね」


「そうだ。県の剣道連盟やどっかの団体が主催する大会なら可能だろうが、未認可であるうちは、高体連主催の新人戦や高校総体には出場できないと思っていい」


「けどさー、承認すんのもヒメっちっしょ? してくれんのかなー」


「それは大丈夫。ヒメちゃん先輩が入ってくれれば承認されたも同然だよ」



 改めて突きつけられた現実を、李桃は空元気でいなす。しかし、胸の中の黒いわだかまりまでは取り払うことができず、膝の上の拳をきゅっと握りしめた。

 それを見かねた瑠璃と咲が、両隣から手を開きほぐしてくれた。



「姫芽香じゃなきゃ、ダメ?」



 静かながらもよく通る咲の声。上目遣いの彼女に、李桃は気恥ずかしそうに頷く。



「うん、ダメ。あたしね、中学一年生の時に、ものっすごく強い人にコテンパンにされちゃったことがあるんだ。ほとんど手を出せずに負けたのは初めてで、悔しいどころじゃなくて……。チームのみんなに八つ当たりしたり、剣道を辞めようとしたり。バカみたいだったなぁ」



 遠くを見つめながら、自分の過去を噛みしめるように告白する。



「あたし、天狗だったんだよ。一年生のくせに三年生を差し置いて試合に出て、ちょっとばかり結果も残せちゃったから。負けるのが怖かったんだと思う。

 そんなあたしを、ヒメちゃんが励ましてくれたんだ。『打って反省、打たれて感謝』っていう、剣道の教訓を教えてくれて。

 それで、すうーっと、気持ちが楽になったの。負けたことは終わりじゃないんだって。次に繋がる一歩なんだって」



 当時の姫芽香が『私なんて、あなたに負けっぱなしなのよ?』なんて、冗談めかして言ってくれたことを思い出す。李桃は、自分の目尻が熱くなるのを、俯いて誤魔化した。



「剣道は楽しいって、教えてくれたの、ヒメちゃんなんだよ。だからあたし……やっぱりヒメちゃんと稽古がしたい……ひっく……したいよぉ……」



 決壊して押し寄せる涙。気がつけば、あの頃と同じように『先輩』という敬称を略した、親友としての呼び方で姫芽香を求めていた。

 李桃が幼い子供のように泣きじゃくる間、瑠璃たちは何も言わずに寄り添ってくれていた。

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