〈8〉天啓

 生徒会室を出た足で武道場へ向かった李桃は、とびっきりの明るい声で叫んだ。



「今日は素振りまでを目指して、いってみよー! もういっそ防具ありで!」



 姫芽香から拒絶されたことは悲しいが、気落ちしてもいられない。自分ができることは、めいっぱい剣道を楽しんで、いずれ彼女が来た時に、万全の態勢で迎えることだ。

 胴と垂の付け方を教え、その状態での足捌きを開始する。



「うへぇ、防具がついているだけでだっるーい」


「エスクリマの試合でも防具を付けることはありますが、こちらの方が重いですね……」



 はじめこそ重心の取り方に苦心しながらも、昨日の今日でコツを掴みつつある興梠姉妹には目を見張る。さすが、文武両道と姫芽香の耳にも入るくらいのことはあった。

 素振りに関しても同様で、雑巾を絞るように竹刀を持つだとか、右手は添えるだけだとか、そうしたセオリーを、教えたそばから吸収してくれるのは気持ちがいいものだ。



「『振り上げ』という言葉に惑わされないでね! 構えた位置から、振り上げた位置、振り下ろした位置をちゃんとイメージして、点移動で素早くいくよ!」



 李桃は瑠璃たちの背後を巡回しながら、頭の高さよりも落ちてきた剣先を弾き上げる。剣が寝過ぎているのは、左手が緩んでしまっている証拠だ。鋭い打突とは程遠くなってしまう。


 基本の振り方を一通りおさらいした後は、跳躍素振りという稽古メニューに突入した。

 これも跳躍とは名ばかりで、蹴り足を意識した前後の足捌きができていなければ実入りのないダンスになってしまう。初心者と熟練者のそれを比べてみれば一目瞭然で、修練を積んでいる剣士ほど、小さく早く足を動かしていることが見て取れるだろう。存外、ぴょこぴょこと頭が跳ねる未熟な剣士を揶揄しての『跳躍』素振りなのかもしれない。

 おそらく面を付けずに行う稽古の中では、摺り足の追い込み稽古と一、二を争うほど正確さが求められ、かつ体力的にも厳しい稽古だ。


 案の定、瑠璃と翡翠がへたりこんだ。



「きっつー! モモっち、剣道って毎日これやんのー?」


「あはは、『本当に正しい素振りができていれば、十本だけでいい』って言われるくらい、大事なことだからね。でも大丈夫、翡翠ちゃんたちならすぐに慣れるよっ!」


「はぁ……はぁ……咲先輩は、平気そうですね」



 息せき切っている瑠璃に促されて振り返ると、ケロッとした顔と目が合う。



「うぉぉ、ほんとだ。全然息が切れてないっ!」


「ん。バーストブリージング、最強」



 飛び上がった李桃に気を良くしたのか、咲は満足げに、胴に埋もれた胸を張った。



「ばあすと……?」


「ブリージング、ですか……?」


「なになに、奥義かなんかー?」



 ぱちくりと瞬かせながら迫る好奇の瞳に、彼女は短く頷く。



「システマの基本。『呼吸』『姿勢』『リラックス』『動き続ける』。四つの原則の、一番最初で、一番重要」


「なるほど、呼吸法なんですね」


「ん。鼻で吸う、口で吐く。高速で繰り返す。最強」



 バーストブリージングには、体力回復の他にも意義がある。短期決戦を主眼としたシステマにおいては、わずかでも体が緊張しているだけで、勝敗が左右されるといっても過言ではないからだ。敵に対して抱く恐れや、受けたダメージからもいち早く立ち直り、自然体に戻るために、基礎から呼吸法を徹底しているのが、システマの特徴だ。


 さすがに無尽蔵というわけではないだろうが、同じように試合時間が四分と短い高校剣道において、この呼吸法をマスターできれば、延長戦にも強くなるかもしれない。



「すは、すはすっはっはす! うぇぇ、難しいよぉ……」



 試しに李桃も挑戦してみたが、呼吸が早くなるにつれて順番が狂ってしまった。

 剣道でも呼吸の教えがないわけではないが、システマとは価値観が異なる。息継ぎの瞬間や攻撃の気配を突かれないようにするため、細く長く吐きつづけろと指導されるのが普通なのだ。



「『呼吸』の字の通り、先に吐くのが大事。手本を見せる」



 システマに関しては自分が先輩だと、咲は落ち込む李桃の頭を撫でながら得意げに言って、



「はすはすはすはすはすはすはすはすはすはすはすはすはすはすはすはす」


「きゃあああっ!?」



 突然、瑠璃に飛びかかった。膨らみによってつつましやかに押し上げられた胴胸の隙間へと顔を埋め、まるでじゃれつく犬の尻尾ようにお尻を振っている。



「ちょっ、瑠璃姉だいじょーぶ?」



 そう言って無防備に進み出たのが運の尽き。完全にトリップしている咲に目をつけられた翡翠は、「えっ、ちょっ、待って?」という制止も虚しく、毒牙にかかってしまった。



「きゃははっ、くすぐったいー! あっ、だめだめだめ、今、汗かいてるからぁっ!」



 瑠璃と比べて起伏がなかろうがお構いなし。狩人イェーガーと化した咲は胴胸をこじあげ、稽古のなかではだけた道着の懐から、上気した素肌に顔を沈めていく。



「い、今助けるからねっ! ……よーし、捕まえましたよ!」



 隙だらけの背中を捕らえた李桃は、安堵の息を吐きかけて――後悔した。

 腕の中でぐるんと体軸を逆転させた咲に、彼女がわざと隙を見せたのだと悟っても後の祭り。



「ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」



 一瞬にして喉元に潜り込まれた。臭いを嗅がれることに恥じらう暇もなく、即座に吹きかけられる、舐めるような吐息に背筋が震える。



「やっ……あっ……あふぅ」



 とうとう足に力が入らなくなって、李桃は押し倒されるようにもつれ込む。



「瑠璃はラベンダー、翡翠は檸檬、李桃は桜……ん、満足」



 糸の切れた人形のようにぐったりとした被害者たちの中央で、咲は鼻を膨らませていた。



「ふぇぇ、ひどい目にあったよぅ……」


「ウチ、もう人のおっぱい揉むのやめる……」


「翡翠ちゃんで慣れたつもりでしたが……不覚です」



 数分後、辛うじて立ち直ることができた李桃たちは、腰が半ば抜けてしまっていた。まるで生まれたばかりの動物であるかのように、ひどく緩慢な動きで上体を起こす。

 散らばった竹刀をやっとの思いで集めた李桃は、そのままぺたんとお尻をついた。


 休憩は十分程度のつもりだったが、気力がありあまるのは咲だけという状況では、今日の稽古がお開きになるのもやむなしだろう。



「それにしてもシステマは凄かったぁ」


「ん。最強」



 咲がつやつやとした顔で頬を緩ませる。

 そんな彼女の下まで這っていった李桃は、正面から手を取って、



「ほんっとうに凄いよ! 咲ちゃん先輩みたいに小柄で動きも早いと、団体戦では先鋒に置かれることが多いんですけど。システマの呼吸があれば、がんがんスピード勝負ができますし!」



 ぶんぶんと手を振りながら熱弁したところで、李桃ははたと動きを止めた。


 しばらく宙を眺めていた目を、ゆっくりと瑠璃や翡翠に向けて、再び呆然と天井を仰ぐ。

 木魚がテンポを刻むように、五回程の瞬きを経て、あっと手を打った。



「そうだ。みんなの得意技を、剣道に取り込んでみようよ!」


「得意技を、ですか?」


「なにそれ、おもしろそー!」



 ある程度体力が回復してきた瑠璃たちが、身を乗り出してくる。



「昨日柳沼先生が、エスクリマはスティックとナイフを使うやつって言ってたでしょ?」


「はい、『剣と小刀エスパダ・イ・ダガ』のことですね」



 柔らかく微笑んで返した瑠璃は、でも、と悪戯っ子のように舌を出してみせた。



「実はそれだけではないんです。エスパダ・イ・エスパダでもダガ・イ・ダガでも戦えますし、両手に武器を持ったまま、相手の武器だけをもぎ取ることディスアームだってできるんですよ」



 無手ながらも、実演付きで説明してくれる。ふわりと髪が揺れる度、柔軟な手首が織りなす華麗なスティック捌きが本当に見えるようだ。


 これも呼吸法と同じく、価値観の違いだろう。刀という明確な刃筋を持つ武器を扱う以上、剣道では縦の動きが中心になり、エスクリマの円運動のような得物捌きはない。しかし、相手の横面や胴を切ることを考えればどうだろうか。手首を返して刃筋正しく斜めに切り込む一撃を、円運動のなかから的確に放つことができれば、あるいは。


 そんな考えを巡らせるより先に、李桃は思わず拍手を送っていた。



「すごいすごい! 剣道でも大刀と小刀を使う二刀流の構えあるんだけど、一刀よりも難しいから、ほとんど誰もやらないんだよ。でも瑠璃ちゃんなら変幻自在に技が出せそうだね!」


「なんだってー、まさか瑠璃姉が宮本武蔵だったなんて!?」



 大袈裟に仰け反ってみせる翡翠に、演舞を終えたエスクリマドールはもじもじとはにかむ。



「じゃーさじゃーさ、ウチのムエタイはなんか使えそうなのあるー?」


「ええと、『肘でバチコーン、膝でズガァーン、拳でドグシャァッ』だっけ」


「そそ。全身が武器であり、盾なんだー」


「うーん、剣道の攻撃はあくまで竹刀だからなぁ……あ、そうだ。こんなのはどう?」



 そう言って李桃は、顔の前あたりから腕を下ろして見せる。しかし、それだけでは何のことかちんぷんかんぷんだったようで、「なんのこっちゃ?」と翡翠は首を真横にしていた。



「これは相手の胴打ちを躱し切れない時に、腕を下ろして防いでるところだよ。でも、その分竹刀が肘や腰に当たっちゃったりするから、怖くてなかなかできないんだけどね」



 実際の試合でも、一方が相手の竹刀を腕で抱え込むシーンは散見される。しかしそれは、すでに胴を打ちこまれているということであり、押さえこむより先に竹刀を抜かれていれば、有効打突と判断される可能性は十分あった。


 とはいえ、竹刀を防具以外で受けるということも難しいだろう。当然、本来は刀であると考えれば斬られているわけだが、確かにその通りで、相当痛いのだ。パワータイプの敵から腕や腋へと打突を外された日には、審判に待ったを申請してもんどり打つ光景も珍しくはない。



「そこで、翡翠ちゃんの肘がバチコーンってするんだよ。他にも、体当たりの時とか、鍔迫り合いから相手を崩す時とかにもバチコーン!」


「えー。それってなんか地味じゃない?」


「そんなことないよ! こっちの攻撃が効かなくて向こうの攻撃は痛いって、怖いんだから!」


「そ、そーかな……えへへ」



 がっしと手をとって訴えられ、翡翠はまんざらでもなさそうに目を逸らす。



「よーし、みんなの得意技を取り入れた剣道で、目指せ日本一! 頑張ろっ!」


「「「おー! !」」」



 快哉を叫んだ李桃に続いて、武術娘たちは各々の竹刀を突き上げた。

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