三十二、裁 判(3)(続き)

 そのとき、マタヨシが言った。


「閣下、一言申し上げてよろしいでしょうか」


 閻魔王はいくぶん眉を吊り上げて、


「なんじゃ、おまえは。

 喜びもせず、なぜ

 そんな不機嫌な顔で、

 このわしに何を申すというか」


「閣下はたぶんわたしのことを

 誤解しておいでです」


「誤解じゃと? わしがおまえの

 なにを誤解したというのだ」


「閣下、正直に申し上げて、

 わたしは閣下が考えるような

 善人ではございません。

 わたしは謙遜でこのように

 申しているのではございません。

 それはわたしの正直な気持ちで、

 閣下にもそのことを

 ご理解いただきたいのです」


「おまえはなにを言っているのだ? 

 おまえの価値は他人が決めることじゃ。

 わしがおまえを善い人間だと思えば、

 おまえは善い人間なのじゃ。

 いったいなんの不満がある」


 マタヨシは言った。


「閣下はおそらく、

 神が見ていると思ったからこそ、

 わたしが善い行いを

 したのだとお思いでしょう。

 しかし、僭越ながら申し上げれば、

 わたしはそのようなことを思って、

 善い行いをしたことは

 ただの一度もございません。

 先ほどわたしを弁護して下さった神は、

 わたしがまるで悪事でも働くかのように、

 こそこそやるとおっしゃいましたが、

 わたしにはそれ以外、

 しようがなかったのです。

 わたしは他人の目を逃れて、

 こそこそやらざるをえなかったのです。

 よもや、神がわたしの肩から見ているとは、

 夢にも思いませんでしたから。

 わたしがそれを知っていたのなら、

 わたしは善い行いなど、

 一度もしなかったことでしょう。

 できなかったことでしょう」


「マタヨシよ、

 普通なら悪の妨げになるはずの、

 恥や外聞というものが、

 おまえには、かえって

 善の妨げになると申すか?」


 閻魔王の問いかけに、

 マタヨシは沈黙を守った。


 閻魔王はまだ、マタヨシという男を

 理解し損ねていたのである。


 そのとき、プルートーが言った。


「こいつはね、馬鹿なんですよ」


 閻魔王は右手を挙げて、

 発言を慎むようたしなめたが、

 プルートーは言うことを聞かなかった。


「この男はね、

 自分のためにならないことばかりして、

 自分に不利になる決断ばかりして、

 行き倒れるのを目的としている

 ようなやつなんだ。

 わたしはこの男のそばにいて、

 この男がそうするのを見てきた。

 挙句、神に助けを求めたかと思えば、

 元気を取り戻すと、

 また強情なことばかり言って、

 神を悩ませる。その繰り返しだ」


「おまえはその男を突き放しているのか? 

 それとも、擁護しているのか?」


「さあ――、

 たぶん両方ですかね?

 こいつが善いことをするときに、

 他人の眼を避けようとするのは、

 見られるのが恥ずかしいとか、

 善人ぶってると思われるのが嫌だとか、

 そういう理由からじゃない。

 善行とは、何の見返りも求めない

 行いだと、この男がかたくなに

 信じ込んでいるからなんです。

 善行の見返りを求めてはならぬ

 という信念が、この男のあたまに

 こびりついているばかりに、

 他人の褒賞だとか、神の報いだとか、

 何かしらの見返りが

 期待できるような状況になると、

 二の足を踏んじまうんですよ。

 こいつは、そんなのは

 善行じゃないと言ってね――。

 わたしには、

 まるで理解できないことだが」


 プルートーは冷笑すると、

 こう続けた。


「しかしね、ひとつだけ確かなのは、

 こいつほど人間を愛し、

 また憎んでいる人間はいないってことです。

 こいつほど善人でありたいと思っている

 人間をわたしは知らない。

 こいつは心底、

 人間を尊敬したいと思っている――。

 でもそれを周囲が、

 世の中が許さないんですね。

 いや、われわれ神だってそうです。

 われわれはつねに、

 善いことをすれば神の報いがあると、

 甘い餌で釣って、

 人間に善い行いをさせようと

 試みてきたのですから。


 われわれは人間を心のどこかで軽蔑し、

 事実、おまえたちは愚かだと、

 口を酸っぱくして言って、

 人間から自尊心を取り上げ、

 人間を本当に無力な、

 怠惰な生き物に仕立てあげてしまった。

 ただ救われるのを待つだけの、

 念仏を唱えるしか能のない、

 憐れな生き物にしてしまったのです」


 閻魔王はしばらく、

 口をぽかんと開けて宙を見ていた。

 

 そして、

 ふと我に返り、威厳を整えると、


「なるほどそういうこともあるのかな。

 いや、いまおまえが言ったことが、

 ぜんぶ正しいのかもしれんよ。

 じゃが、それでもわしは、

 これまでも、これからもずっと、

 神が見ていると思って、

 善い行いをする人間を

 切り捨てたりはしないじゃろう。


 マタヨシよ、おまえは

 わしのことを軽蔑するか?」


「いいえ――。

 わたしが信じる神に誓って、

 わたしが閣下を軽蔑するような

 ことはございません」


「そうか。いや、すまぬ。

 わしとしたことが、

 余計なことを

 聞いたようじゃな。許せ」

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