二十六、如 来

 如来はこのように来た。

 アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩)は言った。


「御仏は、人をさばく者にあらず。

 とる者にあらず。すくう者にあらず。

 人をみちびく者なり。正しき道を示す者なり。

 善を行う者は、その報いとして、

 幸いなるところに、自ずから現れるであろう」


 ――それが仏の正義なのですか?


「そうだ。そなたが見ているのは、

 うつろいゆくもの、はかなきもの。

 真実にはあらぬ。そこには無あるのみ。

 振り返ってみれば、そこに御仏がおられる」


 ――後ろをちらと見た。なにもいない。


「眼で見るのではない。心で見るのだ。

 そなたが心から振り向くとき、

 そのように来た方は、そこにおられる。

 御仏は死んでなどいない」


 ――そこに何が立っていようと、

 

 わたしは過去を振り返ったりはしません。

 わたしは立って行く。未来を見つめて行く。

 過ぎし方を振り返ったりはしない。


「過去と決別することは、

 自分を見捨てることではない」


 ――子供の無垢な心など、とうの昔に死にました。


 だれも純粋な心のままで、

 生きていくことなどできないのです!


「智慧をもって再びそこに還っていくことは、

 まことに、まことに難しいのである」


 ――わたしが仏を殺した。わたしも罪深い人間だ。


「御仏は死んでなどおらぬ。

 ただ、会い難いのだ。

 そなたはまだ、長い

 旅の途中にいることを知れ」


 ――赦してもらおうなんて思うのは、

 甘い考えではないですか?


「そなたはまず、自分を赦せるようになりなさい。

 離れていた自分と向き合って、

 よくよく話し合い、自分と仲直りしたら、

 立って行動しなさい。罪の償いをしなさい。

 でもあせることはないよ?

 急ごしらえの心構えでは、いつかは破綻するよ?

 ゆっくりと、地道にやっていけばいい」


 ――わたしの心は、拒絶されたのです!


「ひとりよがりな施しは、

 かれらを苦しめることになる。

 施しとは、見返りを求めない

 行いであると知りなさい。

 まずはあなたのからだを焼く、

 煩悩の火がおさまって、

 静かになるときをまちなさい。

 そのときは必ず来る。

 その時期を逃してはいけない。

 そのときが来たら、あなたは勇気を出して、

 立って、暗い場所にいる

 あなたの分身を見つけなさい。

 それは、路地裏の

 かわいそうな捨て猫かもしれないし、

 あなたの実家にいる、ろくに世話もされていない、

 あわれな老犬かもしれない。

 かわいそうな人、かわいそうな動物。

 かれらの身になって、かれらのためを思い、

 親身になって、かれらのために施しをしなさい。

 かれらに幸多かれと願って、

 あなたができることを考え、

 かれらのために行動しなさい。

 かれらがあなたを赦したら、

 あなたもかれらを赦せるようになる。

 あなたは自然とかれらを赦せるようになる。

 あなたを地獄の淵に追いやった

 人たちを赦せるようになる。

 よくよくかれらのことを思って、

 かれらと向き合いなさい。

 あなたがかれらのことを思いやり、

 かれらと和解すれば、

 あなたを縛っていた罪の鎖はひとりでにほどけ、

 あなたは自分の足で立って行けるようになる。

 愛を求めるために人を愛するのではなく、

 寛大な心で人間を愛しなさい。

 善良な人たちから愛される人間になりなさい。

 あなたは立って、立派な人間になりなさい。

 そうなれるよう心掛けて、精進しなさい。

 善に向けて努力できる人間になりなさい」


 ――わたしの信じた神は、死んでなどいなかったのか!


 異教の神プルートーは、暗闇から

 彼らのやり取りを見ていた。


 プルートーは言った。


「やれやれ、取り越し苦労か――。

 やつは見捨てられたのではなかった。

 ただ、試されていたのだ」

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