二十三、焦熱地獄

 雲は、焦熱地獄の上空を飛行していた。

 ここは、第六の地獄である。


 彼らは、第四、第五の地獄

 ――叫喚地獄と大叫喚地獄――

 を通り抜けて、一気に地獄の

 下層にまでやって来たのである。


「もうお顔を上げて結構ですよ」


 プルートーが声をかけたが、

 マタヨシは顔を上げられなかった。


「むう……。ここはなんという熱さだ」


「これまでの地獄の火が、

 かわいく見えるほどの猛火でしょう? 

 まあ、じきに慣れますよ。

 ところで――、

 あれから話ができずじまいでしたが、

 あの羅刹女はどうでした? 

 あれほどの美女は、娑婆では

 ちょっとお目にかかれますまい」


 マタヨシは熱風に顔をしかめて、


「どうもこうも、もう少しで死ぬところだったぞ? 

 ホトケのおかげで命拾いした。

 あそこであんたが正気に戻してくれなかったら、

 おれは木の葉の剣に心臓を貫かれていただろう」


 ホトケが答えて言った。


「礼には及ばねえ。

 おれは、なんも考えなしに、

 あんたを突き飛ばしちまっただけさ」


 二人のやりとりを聞いて、


「お二人に友情が芽生えてなによりです」


 プルートーは、愛想を言うと、

 こう切り出した。


「さて――、

 わざわざやってきたはいいが、

 あっちこっちで高い火柱が上がって、

 上空からでは、なにがなんだかわかりゃしない。

 とはいえ、この猛火では、

 これ以上近づくと、牛頭はともかく、

 あなたたちは確実に焼け死んでしまうでしょう。

 すまないが、ここはひとつ、

 わたしの我が儘につきあってもらって、

 上空から炎でも眺めていてください。

 退屈なら、昼寝をしていられてもかまいません」


 マタヨシは訝しく思って聞いた。


「こんなところに、あんたの友人がいるのか? 

 その友人は、火の神か何かなのか?」


「いえ、そういうのとはちがうんだが。

 あれでもまあ、あなたと同じ人間ですよ」


「人間だと?」


「悪いが、もう少しお待ちください。

 

 見つけた――。

 牛頭よ、あのひときわ大きな

 火柱が立っているところに向かって飛べ。

 ただし、あまり近づいてはならぬ」


 火柱の近くまで来ると、プルートーは言った。


「あのでかいは、ばかな男が、

 五千万の人間の煩悩の火を集めて、

 おのれのからだを焼いている火です」


「なんだって!?」


 マタヨシは驚いて聞いた。


「そのひとは、なぜそんな

 むちゃな真似をするのか!

 早く助けないと、死んでしまう」


 プルートーはマタヨシをなだめて言った。


「まあ待って。あなたが行っても、

 飛んで火にいる夏の虫でしょう。

 わたしがいまから行って、

 ばかなことはやめるよう叱ってきますから、

 ちょっとそこで待っていてください」


 そう言って、プルートーは

 雲から飛び立って、火柱の中に消えた。


 火柱の内部は、燃え盛る炉のようである。

 普通の人間なら、千分の一秒で灰となり、

 ばらばらとなるが、『彼』は心身ともに、

 強き者であるがゆえに、

 猛火に耐え忍ぶことができるのである。


 炉の中の『人間』は、何をしているのか? 

 彼は、罪深き人間をただ救わんとして、

 地獄の責苦に耐えているのである。


 彼は、本来なら罪人が受けるべき責苦を

 自分の身に引き受けて、刑罰から解放し、

 一時の安らぎをもたらさんとするのである。


 プルートーはマイトレーヤ(弥勒みろく菩薩)に言った。


「マイトレーヤよ、

 そんなことはもうおやめなさいな。

 あんたはとっくに成仏できるのに、

 まだ人間の境涯にとどまっている。

 迷っている人々を救うために――。


 やつらは虫けら以下の存在さ。

 自分たちがしたことの報いではなく、

 ただ天からの救いを求めている。

 人間が犯した罪をあがなうために、

 あんたががんばればがんばるほど、

 人間は怠惰になっていっちまうんだ。


 やせ我慢もたいがいにしないか。

 おまえはもう十分がんばった。

 おまえはすでに人間を超えた存在だ」


 マイトレーヤは苦痛に顔を歪めて、

 猛火に耐え続けている。


 プルートーは言った。


「あんたが信じているそのお方は、

 自分の足で立って行こうとしない者に、

 道を示してやることをよしとするか? 


 他の者の罰を代わりに受けてやったり、

 その者が本来受けるべくもない富を

 くれてやったりすることをよしとするか? 


 自立した者たちの眼から見れば、

 それらはすべて不正なことなのである。


 ああ、おまえたちは、

 惨めな人間にとって、

 なんとありがたい存在だろう。

 怠惰な人間にとって、

 なんと都合のよい存在だろう」


 (プルートーはこのように歌った。)


  偉大な人、マイトレーヤよ、

  もうそんなことはおやめなさい。

  おまえはよくがんばった。

  おまえは文句なしに立派な人だ。

  もう成仏してもいい頃だろう?


  おまえがそこにいるかぎり、

  人間たちは自立しようとはしない。

  おまえがそこにいるかぎり、

  人間たちは立って行くことはできぬ。

  おまえが偉大すぎるせいで、

  人間たちは卑屈になってしまう。

  何もできないと錯覚してしまう。


  立派すぎるお手本は人に向上心ではなく、

  無力感を植え付けてしまうものなのだ。


  救世主、マイトレーヤよ、

  試練の時は終わった。

  偉大な人、マイトレーヤよ、

  いまこそ成仏せよ。


 マイトレーヤはプルートーに言った。


「神よ、わたしは懇願する――。

 どうか人間たちを責めないでやってください。

 彼らはただ、この世界が、

 生きるには過酷すぎたのです。


 神よ、どうかもう少しだけお時間をください。

 彼らが自分たちを尊敬できるようになるまで、

 わたしがここにとどまることをお許しください。

 彼らもいつかわかってくれるときがきます。

 彼らもいつか立派になって、

 自分の足で立って行く日がきます。


 どうかそのときまで、神よ、

 わたしのことはそっとしておいてください」


 (マイトレーヤは念じた。)


  熾烈なる煩悩の火よ、集まれ。

  迷い多き人間たちよ、幸あれ。


 プルートーはマイトレーヤに言った。


「その甘さが命取りだというのだ。

 まったく――、

 相変わらずのお人好しだな。

 頑固というか、意地っ張りというか。

 ええい、鬱陶しい!

 炎よ、静まれ」


 プルートーは周囲に氷の結界を張った。

 それにより、マイトレーヤは

 しばしの休息を得た。


 プルートーは言った。


「もう知らん――。

 きさまの気の済むようにしろ。

 きさまは生きて、見届けるがよい。

 きさまの信じたことが、

 真実だったのかどうかをな」

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