九、橋の上の僧侶

 マタヨシは、橋を渡って行く前に、

 河の水で身を清めようと思ったが、

 河の水は、愁いを帯びて、

 優しく澄んでいたので、

 これは優しい人たちが流した

 涙の河なのだと思うと、

 河の中には入って行けなかった。


 マタヨシは河原を後にして、

 三途の川にかかる橋を渡り始めた。


 橋の中ほどまで来たときのことである。


 マタヨシの行く手に、一人の僧が

 こちらを向いて立っているのが見えた。


 これまでも、僧侶たちの姿は、

 ちらほら見かけていたが、

 その橋の上の僧侶は、

 超然とした雰囲気があって、

 こちらを向いたまま、

 身じろぎひとつせず、

 目を細めているので、

 どこを見ているかわからない。


 マタヨシは、もしやあれは

 なにかの神だろうかと思ったが、

 触らぬ神に祟りなしとも言うし、

 声をかけず行き過ぎたほうが、

 身のためだと思った。


 そのとき、ふと、河原の方から、

 子供の泣き声が聞こえてきた。

 見ると、河岸で男児が、

 ひとりぼっちで、

 泣いているではないか――。


 マタヨシはひどく不憫に思った。


「世間では、子供が親を残して、

 先に逝ってしまうことを、

 親不孝で、罪なことだと言うが、

 子供のほうでも、何も好き好んで、

 親元を離れたわけではあるまい。


 人間は手前勝手に判断しがちだ。

 親は子供が逝ってしまったと嘆くが、

 途方に暮れているのは、

 親たちだけではない。

 あの子は、親元から引き離されて、

 どんなに心細かろう――。


 かわいそうだが、おれには、

 何もしてやることができん。


 親はもうおまえの傍にはいてくれない。

 おれもおまえも、ここに長くとどまって、

 いつまでも泣いているわけにはいかない。

 心を強くして、前を向いていくことが、

 せめてもの親孝行ではないか?


 とはいえ、あのような小さな子供に、

 そのようなことを望むのは、

 酷というものか。

 河原で一緒に泣いて、

 おまえの無念が晴れるのならば、

 おれは喜んでそうしよう。

 さりとてそれは、おまえのために

 なることだろうか――。

 おれは自分が一緒に泣きたいから、

 そうするだけかもしれん」


 マタヨシは自分の非力さを嘆いた。


「ああ、おれはもっと力が欲しい。 

 悪いが、いまのおれには

 どうすることもできない。

 できないことをやろうとしても、

 人は途方に暮れるしかないのだ。

 ああ、どうして人間とは、

 かくも非力な、弱い生き物なのか」


 彼が自分の非力さに胸を痛めたとき、

 彼の脇を一陣の風が吹いて、

 彼にこのように告げた。


『あんずるな。

 あの子なら大丈夫だよ? 

 わたしにまかせておけ。

 おまえは振り返らずに、

 自分の道を行きなさい』


 前方を見ると、

 先ほどまで橋の中央にいた

 僧侶の姿が見えなくなっていた。


 彼はすぐにわけをさとった。


「おれがさっき見た僧侶は、

 地蔵菩薩の化身にちがいない。

 おれの心を吹き抜けた、

 あの一瞬の風は、なんと暖かく、

 慈愛に満ちていたことか。

 かれを模範として、

 あわよくば力をもって、

 おれも強く生きたかった」


 彼はふたたび惨めな無力感に襲われた。


「おれは弱い。

 おれは負けた。

 おれは人生の敗北者だ。

 世間の荒波にもまれ、

 その中で生き抜く強さを

 おれは持たなかった」


 (彼は来し方を振り返って歌った。)


  まだ力があるときは、

  おれは強い獣になりたかった。

  しかし、いまはそうは思わん。

  力は力を求め、

  弱さは弱さを求める。

  おれは暗い地べたをはい回り、

  昆虫に無残に食い殺される、

  弱い芋虫になりたい。


  無残に食い殺される運命ならば、

  なんの未来など待っていよう。

  未来などないのだ。

  おれには未来など。

  おれは何を求めて行く?

  おれは安楽な死を望むか?

  おれが求める死に方とは何だ?


  楽な死に方などまっぴら御免だ!

  それはおれを侮辱することだ!


  断末魔の叫びと共に、

  おれは血の海に沈みたい。

  熱く溶けた銅を飲み、

  苦しみに身を委ねながら、


  深く深く沈み込むおれの体は、

  無の淵源えんげんに溶かし込まれてゆき、

  遂におれの精神ともども、

  完全な無に帰すのだ――。


   (第二章、終わり)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る