六、暗黒の森

 緑の河原に美しい花々が咲き乱れている。

 マタヨシは黄色い花に顔を近づけて、

 その匂いを嗅いだ。

 花弁のひとつひとつが、

 彼の頭ほどの大きさもあった。


 マタヨシは、一匹の芋虫であった。


 ふと、彼は、背後にいやな気配を感じた。

 見ると、大きなカマキリが、

 彼めがけて、鎌を振り上げていた。

 彼は恐怖を感じて、這って逃げようとした。


 そこに、一匹のコガネムシが飛んできて、

 マタヨシに言った。


「地面に降りろ! 地を這って逃げろ!」


 マタヨシは、あわてて葉の上から降りて、

 地面をのろのろと這って行った。


 彼は、長い時間をかけて、

 泥の中を這って行った。

 糞尿の中を這って行った。

 幾千もの死体の上を這って行った。


 不屈の男、マタヨシは涙を流して言った。


「おれは弱い……。だが、おれは自分の弱さに、

 気がついていない!」


 そのとき、木の上でカッコウが美しい声で鳴いた。


『(これはゆめ。これはゆめ。)』


 そして、彼は正気に戻った――。


 気づくと、マタヨシは、

 暗い森の中に、一人で立っていた。

 彼の体は、元の人間の姿に戻っていた。


 マタヨシは自問して言った。


「いままでのことは、ぜんぶ幻だったのか? 

 他人を蹴落とし、汚泥の中を這ってまで

 生き永らえてきた、これまでのおれの苦労は、

 ぜんぶ水の泡だというのか――」


 マタヨシがその場に立ち尽くしていると、

 木陰から、一匹のジャコウネコが躍り出てきた。


「なにをやっとる、ばかもんが! 

 わしの言ったことがまだわからんのか!」


 ジャコウネコは続けて言った。


「目を覚ませ! これは夢じゃないんだぞ?」


 そのとき、背後から、一匹の大蛇が、

 渦巻き、猛り狂いながら、襲い掛かってきた!


 ジャコウネコはマタヨシに言った。


「そらそら、走れ! わっはっは」


 マタヨシは全力で暗い森を駆け抜けた。


 走るうちに、彼は自分の影に置いていかれた。

 彼は必死に影に追いつこうとするが、

 影の背中が徐々に遠くなっていき、

 しまいには豆粒くらいの大きさになった。


 木の上でカッコウが鳴いた。


『(あと少し。あと少し。)』


 そのとき、突然、彼の前にあった暗闇が、

 左右に大きく割れた!


 気づくと、マタヨシは、

 ひどく寂しい場所に立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る