第二章 賽の河原

五、観音堂

 僧侶の読経の声が聞こえる。

 その声はなぜか、ひどくおどろおどろしい。

 大きな蝋燭が燃えており、

 その火がゆらゆらと揺れるにしたがって、

 視界は歪んだり、明滅したりする。


 田舎にある寂れた観音堂に、彼は入っていった。

 堂の内部で、彼は恐るべき般若の像を見た。

 燭台の向こうに、一人の僧が座して、

 彼に何かを言った。


  gate gate

  pāragate

  pārasaṃgate

  bodhi svāhā


 (立てよ 立てよ

  彼岸に行ける者よ

  彼岸に全く行ける者よ

  めざめよ スヴァーハー)


 燭台を挟んで、彼は僧侶の前に座った。

 僧侶はマタヨシに言った。


「このことは、はっきり言っておく。

 精霊の導きを拒絶した者は、

 自分の足で、立って行かなければならない。

 その道は、遠く険しいものであり、

 いくつもの障害が、おまえを待ち受けている。

 このことは、覚えておかなければならない。


 わしは、おまえのことを不憫に思って、

 おまえの旅路が少しでも明るくなればよいと願って、

 おまえの夢に立った。

 おまえはいま、暗闇を彷徨さまよって、

 木に頭をぶつけて泣いている、子供みたいなものだ。

 どうしてこういうことになったか?


 それは、おまえが世の道理をわきまえぬからであり、

 自分の身から出たことは、

 自分の手で、処理しなければならぬ。

 だが、わしは、おまえのことを不憫に思って、

 おまえの旅路が少しでも明るくなればよいと願って、

 おまえの夢に立った」


 続けて、僧侶はマタヨシに言った。


「見ているものは、各人各様である。

 だが、実体はひとつである。


 おまえは、ひどく危ない橋を渡ることになろう。

 よく用心して、行かなければならない。

 背中を押す者があるわけではない。

 迷いや不安が、おまえの足元を覚束なくさせる。

 そのとき、おまえは選択を迫られるだろう。


 はっきり言っておく。道はひとつである。

 それは、誰しもが通らなければならない道である。 

 後ろを振り返ってはならぬ。道草を食ってはならぬ。

 人を殺めてはならぬ。盗みを働いてはならぬ。

 女を抱いてはならぬ。……。


 真実を見て、自分の足で立って行くことをよしとする、

 不屈の男は、真実を見て、自分の足で立って行け。

 険しい山道を行き、暗い森を抜けると、

 急に視界が開けてくる。

 そこからは、道はひとつである。


 おまえはよく注意して、わしの言ったことを

 覚えておかなければならない」

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