きれいな見もの

 さて、使用人室に戻ってまいりました。子犬は引き続き桃さんに見てもらっています。桃さんのまなざしはどこかぞっとするくらい真剣で空ろでございました。そりゃあ眺めているだけでよいのだからそれだけ聞けばまるでワリのいいバイトみたいだ。だが、違う。鮮血のごとく真っ赤な首輪からびよんとどこか滑稽に伸びるピンク色のリードを膝の上で控えめに握るという、これはまあ、高給に値する仕事でございますでしょ。桃さんにはあとでボーナスを支給しなければいけない、非公式の。受け取ってもらわねば釣り合いがとれぬ。……そういえばリードの紐のその柔らかいピンク色はまさしく桃色のごとしでああ桃さん、あなたはそういえばどうして桃という名をつけられたのでしょうね。甘ったるい果実よりはキンと冷えたかき氷に似た、あなたが。


 視線をずらせば、子犬が、います。監視役の桃さんから距離を取って。でもピンとリードが伸び切りはしない位置で。リードがたるむうちでは最大で遠いところにいる。膝を抱えて頭をうずめて、長い髪がざらりと幼子らしい小さな脚を覆いつくしている。泣き声は聞こえませんが泣いているのかもしれません。泣いてもここではなんのアピールにもならないということはこの子ならすでに学習しましたでしょうから。黒髪からは茶色の犬耳カチューシャが覗き、手足には大げさなデフォルメのデザインをされた肉球を模した手袋が取りつけられている。手袋、といっても手首足首に小さくともしっかりした鍵がつけられているから、この子にとってはそれらがこれから実際的な手足です。指は使えぬ。指を使わない生活をしなければ、ならないのです。



 しかし、まあ、ゆるしがたいわね。なにがって。――その傲慢な、立ちふるまい。



 まあ、桃さんがそこを注意できなかったのは仕方ない。それはむしろ指示不足のわたくしの責任ですね。……同族同種の先輩としてまあ教えてあげましょうかね。




「はいはい、桃さんお疲れさま。――ねえ犬?」


 わたくしはその小さな肩をぐらりと揺らしました。ひっ、と引きつった声を上げてわたくしをこわごわ、見上げます。


「なぜ、体育座りをしているの?」


 どうも意味がわからないようです。説明してあげましょう。


「犬が、体育座りを、する?」

「……ぁ、え、こ、こーこね、こーこ」

「その公子とかいうのもやめなさい! まったく、情けない。いつまで人間であることにこだわっているのですか」

「……こーこは……」




 ぶわっ、と、涙を。



「……こーこは、こーこは、こーこは……」



 壊れたように繰り返す。さて次はどの手を用いようと思っていたその刹那、

 未来さまが、ぎゅっぎゅっとわたくしの割烹着の裾を引っ張りました。



「ねえ、この子、なに?」

「未来さまのペットのワンちゃんでございますよ」

「……ちがうよ? この子は人間だよ」

「人間にすがたかたちがそっくりな種類の犬なんですよ。そういった犬もいるのです。あとで飯野が図鑑もつかってご説明差し上げましょう」

「人間じゃないの? この子」

「はい、犬です」

「――ちがうもん! こーこ、犬じゃないもん!」



 金切り声。この子は、未来さまを見上げます。サバイバルな期待を、込めて。



「犬じゃないって言ってるよ?」

「そうやって勘違いする犬猫は多いのですよ。ペットとしてかわいがられるから、自分が人間だと勘違いしちゃうのですよ。かわいそうだけど犬猫である以上それは仕方がないのですよ」

「ふうん……ねえ、ねーえ、犬なの、犬じゃないの?」



 未来さまはこんどはわたくしではなく、しゃがみ込んで、――公子に、話しかけた。……ふむ。なるほど。さすがは薫子さまが正統な跡継ぎ候補と認めるほどのことはある……ここでナチュラルに会話の対象を犬がわに移せるのは、まあ、これも天性の才能なのでございます。


 公子は目を見開いたままふるふると首を横に振る。


「……犬じゃ、ない……」

「犬じゃないの? じゃあ、なんで、首輪つけられちゃったの? 悪いことしたの?」



 ――おや。その発想が出てくるか、未来さま。首輪はつけるものではなく、つけられるもの。そんな首輪をつけられているということは、悪いことをしたのかもしれない、と。――ふむ。五歳の前でそこまで思考がはたらくか。



「悪いことは……した……」

「なにしちゃったの」

「……南の島に行っちゃえばいいんだって思ったの……」

「なにそれ、よくわかんないや」

「……助けて、こーこ、やだ、やなの、たすけて……!」

「ねえー、飯野おばさん。けっきょくこの子、犬なの犬じゃないのー?」

「……お坊ちゃまはどう思いますか」

「うーん」



 未来さまは大儀そうに考え込む、――ふりをしているのだと、見ていればすぐにわかる。

 その時点で答えはわかったようなものだったけれども。



 もったいぶって、未来さまは、言うのだ。



「人間っぽいんだけどー、それだと首輪はよくわかんない」

「犬だと思いますね?」

「うんっ。だってペットでうちに来た子だもんね?」



 無邪気に未来さまは宣言する。――ああ、ああ、それでこのひとりの幼子の運命がまたひとつ強固なものとなってしまったというのに!



 絶望に歪む公子の顔は、とても情けなく、きれいな見物でございました。



 未来さまが、犬と言ったら、犬。



 ……そのような道理は賢いこの子であれば直感をもってしてでも理解できることなのでございましょう。

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