大きなご遊戯

 いい子にできますね、とはよくよく言い聞かせてはおきました。だが泣きべその跡を顔じゅうにパリパリと乾かしてヤケのように乱暴にうなずき首輪の鈴をチリンとかわいらしくも鳴らした公子が、どれだけ、いい子、でいられるかは、これからの話だ、未知数だ。公子のその才能をまたもたしかめるときでも、ある。犬としての、才能。だいじな、ときだ。……あるいは歴史的瞬間になるやもしれないのだから。



 わたくしは未来さまをお連れしに来たのです。未来さまの先を行きすぎぬよう配慮しながら日本家屋の廊下を進みます。あくまでも、未来さまがこの道の中心を往くように。あくまでも、このもうひとりの運命的な幼子を目上の者としてわたくしは扱う。


 未来さまは利発で愛らしく健やかな、優れた男児であるが、それだけではありふれていただろう。薫子さまのたったひとりのお孫さま。なおかつ、――薫子さまのそのほんとうのどす黒い血を真に受け継いでいるかもしれない世界でたったひとりの、人間。薫子さまは未来さまが三歳になられた日の夜わたくしを部屋に呼びつけて赤ワインを飲みながら御機嫌で話した。未来は帝王の器です、と、はっきりと宣言なさった。

 わたくしには、まだ、そのまことの意味はわからない。未来さまは良子さまの幼少のときよりもずっと賢く、それは同年代の子どもたちと比較しても相対的にそうとう優れた素質をおもちだということは、わかる。――だがそのことと帝王としての素質はまた、異なるから。



 薫子さまは未来さまを帝王教育することにいたしたのだ、天王寺家のための最後の仕事だなどと耳ざわりよく言うけれど、ほんとうのところは、――薫子さまの人生の後半期をかけた大きなご遊戯であるのだ。


 ただそれだけのために、なんの罪もない幼子を畜生道に堕とすことも、実のお孫さまを罪人と成すことも、まったくみじんも、厭わない。



「……飯野おばさん?」



 気づけば未来さまが不安そうにわたくしを見上げておりました。――帝王。――罪人。



「いえいえ、なんでもございませぬよ」



 わたくしはそう言って、歩幅の小さな歩みを引き続き繰り返しました。たどり着く。その部屋の扉を、――開けます。

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