犬にするのにもったいなく、犬にするのにふさわしい

 未来さまはその日の夜には、「コロ」と名づけました。お夕飯のあとのゆったりとした時間、わたくしが洗いものを済ませ、いつも未来さまをひとり遊びさせている居間の未来さま専用スペースにようすを見に行くと、まずわたくしに「コロにする」と元気よく報告なさいました。そしてもう泣く気力もなくただうつむいているその肩に優しくふれて、びくうっと子犬が恐怖をあらわをするのにもかかわらず、いえ、だからこそでしょうか、「おまえはきょうからコロだよ。僕がつけてやったんだよ」とまあいつのまにやらそうなったのか男の子らしく、優しく、声をかけました。


 少女のうつむきの角度は深くなりました。――いよいよ自分が大変なことにほんとうに巻き込まれたと理解してきたのでしょう。


「……こーこ、は……」

「ほらそれ! こーこ、こーこ、って言うじゃない。だからコロにしたの。ねっ? いいと思わない?」



 大変、誇らしげに。



「……よいお名前をつけましたねえ、坊ちゃん」



 嘘ではない、それはわたくしの本音でありました。……やはりさすがは薫子さまの正統な跡継ぎ候補です。天性のセンスが、ぎらりと鋭くおそろしく光る。

 コロ。――よい、わたくしなどが決めるよりずっと、よかった。本名と絶妙に関連性があるうえ、非常に犬らしいのです。……未来さまがまさかそこまでの理屈を解しているわけはない、けれどもだからこそわたくしはそれをセンスと呼びたくなるのです、……仰ぎ見るかのようにして。



「コロー。いやかー?」



 コロは――動かない。身じろぎひとつもしないでひたすらなにかに耐えているかのようだ。動くと首の鈴がリンリン鳴ることを、この子はたいそう嫌がる。賢いゆえにプライドの高い子どもだったのでございましょう。……そのあたりももしや薫子さまがこの子を犬にするときの決め手だったのやもしれません。そりゃ壊すのであれば高いほうが、なんであれ、崩れたときに気持ちよいものですから、……むろんプライドも。



「コロって名前、やだ?」



 未来さまはそのあたりを気づかない残酷な無邪気さでコロの肩を揺らしてリンリン、リンリンとその首輪の鈴を鳴らすのです。未来さまとコロは学年にすればおなじだが、コロは春生まれで五歳となってからすでに半年、いっぽうで未来さまは近日中に五歳になられます。そしてまだ幼いので女児のほうが発育が早い。つまりはコロのほうが若干体格がよかったのです。自分よりもわずかながらも大きなコロに、未来さまは、なんの警戒もなくふれます。ペットと思っているのでしょう。


 そもそもといえば、五歳の誕生日にペットをほしがったのは未来さまのほうなのであった。単なる子どもの気まぐれだろうともちろん察しはつきます、この歳ごろの子どもというのは動物に興味をもってともに生きたくなるものだ。お世話をしたくなる、いっしょに遊びたくなる、子分としてかわいがりたくなるものだ。……ヒト、をそこにもってくるのではなければごくごくふつうの教育なのでありましょう。


 未来さまにはこの子は犬なのだということで通す。すでに本日もわたくしを筆頭に使用人全員がそのように未来さまにふるまっております。あの子は犬なのだと笑顔で嘘を吐き続けます。それが薫子さまの教育方針でございます。教育方針というのはなにも哀れに犬となったあの子だけにかぎったことではない、――この数奇な幼子ふたりにとっての、教育方針なのでございます。



 ……一見すると、かわいそうなのはコロだ、もちろん。

 けども。



「ねーえ、返事してよー、コロー、コロー……」

「――や、だっ!」



 コロは大声を出しました。



「やだ! やだ! やだあ! やだもん! やだあ……!」



 コロはそのままうつぶせで倒れてしまい、カーペットの床をダンダン叩きはじめました。ダンダン。ダンダン。首輪についた鈴も鳴ります。リンリン。リリンリリン。まあなかなかに騒々しく。こんどはもう我慢することなく大声で泣き喚いております。……この子が昼にこの屋敷に来てはじめての、癇癪でございました。



 ……よく、まあ、耐えた。

 ほんとうに気丈な子だ……犬にするには、もったいないくらい。いや。だからこそかもしれないが。



 だからこそ、犬にするのにふさわしいのかも、しれないが。



 未来さまは困ったようにわたくしを見ました。


「ねえ、どうしよう飯野おばさん、僕のつけた名前やだって」

「……いえ。お名前はそれでよろしいですよ。よいお名前ですもの。まだ、その名前に慣れてないだけですよ。新しいお家に来たペットはみなそうなのですよ」

「そう? そうなの、コロ? ねーえ、コロ、泣かないで……泣かないでよー……」


 未来さまはじたばたと暴れまわる自分よりわずか大きな裸体の女児の上に、寝そべるようにして、慰めようとしました。コロのじたばたも鳴き声も大きくなるばかりでしたが、泣かないで、と未来さまはむしろ困ったように繰り返す。幼稚園でのお話など聞いてても、元来優しい性分ではあらせられるようだが……。



 ――ぞくっ、とした。わたくしは。



 未来さまは……ああ。これはほんとうに。薫子さまの、血を、受け継いでいるのかもしれぬ。



 ……この子どもを犬として育てる。

 じつは、必要とされる被害者は、コロだけではないのです。


 天王寺未来さま――ああ、このかた、幼少のみぎりよりかくも優しくあらせられては今後の人生どれだけこの少女とともに苦しんでいくのだろうか。



 ……薫子さまは、喜ばれるであろう。きっとひどく愉悦を感じられるのであろう。



 ご自身のたったひとりの孫が、コロ、という名前をこの少女につけたという事実を。

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