第三章
第55話 お隣さん、増える
1学期最後の大型イベント、球技大会が終わり、残すところは数日後に迫った終業式だけとなり、7月の下旬に片足をつっこんでいた。
すっかり夏らしく、あたりにはセミの鳴き声が響き渡り、学校が終わって部屋に帰ってきて、しばらく経っているのに、太陽がようやく沈み始める。
少しずつ夕暮れに切り替わる空に浮かんでいる巨大な入道雲を、俺こと橘理玖がベランダからぼんやりと眺めていると、背後から窓を開ける音が響いた。
「りっくん? なにしてるの?」
声で誰が分かっていたけど半身で振り返ると、そこには幼馴染兼同居人の高嶋陽菜がいた。
「別になにも。強いて言うなら、ちょっと夏を感じてた」
「ふうん。じゃあ、あたしも」
言うや否や、首筋まで隠れるふんわりとした明るめのセミロングの髪の毛を揺らしながら、小柄な体躯がとことこと隣に歩いてくる。
少しでも身体を動かせばどこかしらが接触してしまう距離感と、夏ということもあり薄着なので、下を向けば自然と目に入る豊かな双丘が作り出す谷間に、どぎまぎとしてしまう。
それをおくびに出さずに、俺は軽口で応じた。
「暑いんだからもうちょっと離れろよ。というか虫に刺されるぞ」
「えー、いいじゃん別にー。それに、それも夏らしさってものでしょ?」
さっき自分が言ったことを手玉に取られ、ぐ、と言葉に詰まってしまう。
陽菜はそんな俺を至近距離で見上げ、してやったりとにんまり笑った。
俺は諦めて降参の意を込め、ため息だけつき、距離を取ることはしなかった。
「あれだね、アイス食べたいね」
「俺はなんかサイダーが飲みたい気分だ」
2人して橙色が混ざり始めた空を眺め、そんな感想を零し合う。
「あとで買いに行くか」
陽菜に向けて言うわけでもなく、殆ど独り言のように呟くと、陽菜が「そだね」と小さく返してくる。
なんとなく、クーラーの効いた室内じゃなくて、今のこのむありとした空気感に触れていたかった。
すんっと空気を吸い込めば、少しでもこの夏を身体の一部に取り込めたような気がして、もう一度、漠然と、ああ、夏が始まるな、と思う。
去年とは違う。1人きりの夏ではなく、同じ部屋に誰かが住んでいる夏。
普通ならそれを何度も経験しているのだろうが、俺にはそっちの方が少なかった。
柄でも無いし、わざわざ誰かに話したりするわけでもない。
ただ、時折、こうして分かりやすく季節に触れることをすると、心の奥底に押し込んだ寂しさとかが顔を出す。
けど、今年はこうして誰かとの距離が明確に縮まったせいか、どんな季節になるのだろうとワクワクしている自分がいる。
そうして、陽菜と2人でなにを言うわけでもなく、ただただ無言で空を眺め続けていると、
——こんこん。
窓が軽くノックされる音が聞こえて、振り返った。
「2人とも、晩ごはん出来ましたよ」
からからと控えめに窓が開けたのはもう1人の同居人で、俺のクラスメイトでもある竜胆有彩だ。
陽菜に比べれば7、8センチは高いだろう160台のスレンダーな身体付きはエプロンに包まれ、さらりとした長い黒髪を揺らしながら、やや眠たげに見える眼差しをこっちに向けていた。
「あたしが外に出てからもうそんなに経ってたんだ」
「2人でなにをしていたんですか?」
「りっくん曰く、夏を感じてた?」
「なんですか、それ?」
首を傾げた陽菜に、有彩はくすくすと涼しげに笑う。
うーん、改めて聞くととんでもなく恥ずかしいことを言った気分になるから、飯食ってる間に陽菜が忘れてくれることを祈りたい。
「ごめんね、有彩。結局全部任せちゃって」
「別に大丈夫ですよ。……というか、いくら陽菜ちゃんが料理を練習して多少上手くなったからと言って、まだ手出しされない方が安心出来ますから」
「全くもってその通りだな」
「ちょっと2人とも!?」
大声を上げた陽菜に、俺と有彩が吹き出してけらけらと笑う。
「あたしからしたら全然笑えないから! というかそうめん茹でるくらいあたしにも出来るし!」
「ソースはめんつゆか?」
「普通のものと、すりおろしたゆずを混ぜたつゆも用意してみました」
「マジか。俄然楽しみ」
「無視!?」
なんだか戯言が聞こえた気がしたのでスルーした。
そう言うセリフはパスタを茹で過ぎてぐちゃぐちゃにしなくなってから言ってほしいもんだ。
言われてみればほんのりゆずの香りがするな、と思っていると、その香りに釣られるように来客を知らせるようにインターホンが鳴り響いたので、3人揃って顔を見合わせる。
恐らく、頭の中には同じ顔が浮かんでいるはずだ。
その為、俺はモニターを見ること無く、玄関まで赴き、扉を開ける。
目線を下げると、まずは癖っ毛なのかあちこちがぴょこんと跳ねた特徴的なセミロングヘアが視界に飛び込んできた。
更にその下には、俺の姿が見えると同時、パッと輝いた大きくてくりくりとした瞳と満面の笑みが花咲いている。
「こんばんは、理玖先輩っ」
「ああ」
俺が返事をすると、るな——峰月るなが満面の笑みのまま、俺にぎゅっと抱きついてきた。
陽菜と同じくらいのサイズ感なので、もし俺が抱擁をし返せば胸の中にすっぽりと身体が埋まるだろう。
しかし小柄に見えて出るところはしっかり出ているし、それでいてこんな風に事あるごとに抱きついたりなどのスキンシップが多く、男的には嬉しいけど、陽菜と有彩もいる中、特に毎回理性に厳しい戦いを強いてくるのがこの後輩だ。
そんなるなだけど、ほんの数週間前に一目惚れをされ、色々とあって俺の元カノとなり、今現在は隣の部屋につい先日引っ越してきたばかりのお隣さんだったりする。
ちなみに家は超がつくほどのお金持ちのお嬢様である。
「なあ、るな? 無駄だと思うけど、一応言っておくぞ? 頼むから抱きつかないでくれ」
「いやですっ。形式上は元カノになったというだけで、るなの先輩への想いはなにも変わっていませんし、むしろ燃え上がる一方! なので少しでもこの気持ちを理玖先輩に伝えたいんですっ」
言葉だけでも十分伝わってるんだよなぁ……。
このままじゃ埒が明かないので、まだ触れていたいと顔を出す男心を殺し、そっと両手で引き剥がす。
すると、むーっと頬を膨らませて不満気に睨んでくるが、俺は取り合わずに口を開く。
「で、なんの用だ? 飯でも食いに来たのか?」
るなは隣に引っ越してきてからちょくちょく俺たちに混じって食事を共にしていたりする。
なので今回もそうだと思ったんだけど、
「そうしたいのは山々なんですけど、今日は別件ですっ」
「別件? ……とりあえず上がるか?」
「はいっ。お邪魔しますっ」
跳ねるような声音に続いて跳ねるような足取りで部屋の中に上がっていくるなの背中を追うように、俺もリビングへと戻る。
「おー、やっぱりるなちゃんだった。いらっしゃい」
「お邪魔しますっ、陽菜先輩、有彩先輩」
るなの挨拶にキッチンにいた有彩が麦茶を持ってきて、るなに差し出す。
「こんばんは、るなちゃん。どうぞ」
「ありがとうございますっ。いただきますっ」
るなが受け取った麦茶をこくこくと飲み干したのを見計らい、俺は口を開く。
「んで、飯じゃないなら何用で?」
「それを話すのはもう少し待ってください。もう少ししたら来ると思うので」
来る? 誰が……? と尋ねようとしたタイミングで、インターホンが鳴り響いた。
るなを除いた3人で顔を見合わせる中、るなは「ちょっと迎えに行ってきます」と言い残し、リビングを出ていった。
それからすぐに、
『ちょうどよかった。ナイスタイミングですっ』
『……準備が済んでいないから待ってと言ったのに先に行っておいてなにがいいタイミングですか』
『お小言ならあとで聞きますから。皆さん待ってますよ』
『……はあ。お邪魔します』
玄関の方からなにか言い争うような声が聞こえてきた。……大丈夫か、るなの奴。
様子を見に行った方がいいのかと悩んでいると、るながリビングに戻ってきた。
「お待たせしましたっ。実は今日は紹介したい人がいるんですっ」
「紹介したい人?」
俺が首を傾げると、るなの後ろから人影が現れる。
まず目についたのは、枝毛1つ見当たらないよく手入れされた印象の有彩のものよりは短い濡羽色の髪。
それから、意志が強そうな真っ直ぐな瞳。
歩き方、というよりは一挙手一投足から凛とした佇まいを感じられ、思わず見惚れてしまうほどに綺麗な動作。
身長的には有彩より少し低いくらいだろう。
初対面の人間に見られている中、その子は緊張した様子などまるで見せずに、自然体で俺たちの前に躍り出た。
「初めまして。
そう言って教科書の見本みたいな綺麗なお辞儀をした桜庭栞と名乗った少女は、手に持っていた紙袋を「こちらは引越しの挨拶の品です」と手渡して……今大馬鹿あんぽんたんって言ったか?
あまりの衝撃に聞き間違いかと思っていると、
「ちょっと、誰が大馬鹿あんぽんたんですかっ! 雇い主に向かって!」
るながむきーっと食ってかかっているあたり、どうやら聞き間違いではなかったらしい。
「私の直接の雇い主はあなたのご両親です。それに、るなは過度に敬われるのがお嫌いなのでしょう」
「そうですけど不敬にも限度がありますよっ」
「……いきなり引っ越すとなどと言い出し急いで準備をすることになったのは誰のせいですか」
「うっ……そ、それは……」
「大至急と言われ、自分の荷造りをすべて後回しにして、優先的に主人の荷造りを終わらせることになり、今日になってようやく引越して来れて、挨拶に行く為に準備したいから待ってと言ったのに先に行ったのはどこの誰ですか」
「だ、だからわたし1人で住むって言ったじゃないですか!」
「そんなこと許されるわけがないでしょう。自分の立場を弁えてください。それに、あなた家事出来ないではないですか」
ぎゃいぎゃいと言い返するなに対し、桜庭さんはまるでさざなみのように静かに、淡々と言い返す。
俺たちがその様子を呆気に取られて見守っていると、桜庭さんがちらりとこっちを見た。
それから、少し気まずそうにしてから、仕切り直しと言わんばかりに軽く咳払いをする。
「……すみません。お見苦しいところをお見せしました」
「あ、あの。桜庭さん、でいいんだよね?」
陽菜が恐る恐る尋ねると、桜庭さんは口元をわずかに綻ばせた。
「私のことは、どうぞ栞とお呼びください。年齢も私の方が1つ下ですので」
え、マジ!? 年下!? 立ち振る舞いと言葉遣いのせいで大人びて見えるから全然分からなかった……。
傍にいるるなと比較してしまっていたせいもあるのかもしれない。
「じゃあ、栞ちゃん。よかったら一緒に晩ごはん食べない? 食べながら話そうよ」
「あ、そうですね。いかがですか?」
陽菜と有彩がそう提案すると、桜庭さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。申し出は大変嬉しいのですが、実はもう既に夕食の準備を始めているので……」
「ああ、それなら仕方ない。というか、急に誘ったのはこっちなんだから気にしないでくれ」
「そう言っていただけるとありがたいです。今度はぜひ、ご一緒させてください」
桜庭さんはどこまでも礼儀正しく、ぺこりとお辞儀をしてみせる。
「あまり長居をしてもお時間を取らせてしまうので、私とるなはこれで失礼します。今後ともよろしくお願い致します」
「えっ、わたしはまだ理玖先輩と話して……」
「いいから帰りますよ。このあとたっぷりお話がありますから」
「ひっ……! り、理玖先輩、た、助け……!」
桜庭さんは怯えるるなを引きずるようにして、リビングを出る直前にもう1度こっちに向かってお辞儀をしてから、るなと一緒にリビングから姿を消した。
見送る暇も無く、玄関から「お邪魔しました」という声と扉が開く音がして、最後に閉まる音がした。
なんと言うか、また個性の強い知り合いが出来そうな、夏休み前の一幕となった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます