第2節 ライヴァン王城へ

 数年前まで、朝の執務は戦争のようだった。


 ようやく国内外の情勢が安定してきた最近は、一日中執務に追いかけ回されることはなくなったので、朝の時間は大抵執務室にこもっている。

 書類の目通しをするのに頭がすっきりしていて効率が時間だし、一人だとやっぱり集中しやすい。


 周りからは、不用心だから護衛をつけるようにと再三言われている。

 そんな苦言を聞き流しつつフェトゥースは、今日も執務室で書類を読みふけっていた。


 ——と、不意に空間が揺らぎ、魔力が辺りに張り詰める。


 反射的に立ち上がり、机の横から愛用のエストックを引き抜いて、フェトゥースは身構えた。

 ゆらり、と陽炎のように空気が揺らめき、目の前で突然に人が現れる。

 驚きに目を瞠る彼の前で、現れた人物——黒髪黒目の若い魔族ジェマは、不思議そうに瞳を瞬かせた。


「ここはどこだ?」


 どこかで見たことのある顔だった。

 けれど、記憶にある姿とずいぶん違うような気がする。


「ここはライヴァン王城の国王執務室だけど、君は、前に会ったこと……あったよね?」


 ひとまず、暗殺者アサシンとか強盗とか怪盗ではなさそうだ。

 こんな茫洋とした隙だらけの侵入者にやられるほど、自分は弱くはない、と思いたい。


 フェトゥースの問い掛けに、魔族青年は戸惑うように瞳を揺らす。


「……俺は覚えてない」


 自分の記憶違いだっただろうか、と思いつつ、フェトゥースは改めて彼の姿を観察してみる。


 つり気味の黒い両眼に、肩より下まで伸びたまっすぐな黒い髪。

 身長はそこそこあるが、全体的に華奢で自分から見ても隙が多い。

 特にこれといった特徴は見当たらない。

 

 本当に見覚えがあるのか記憶違いなのか、解らなくなっていた。


 どのみち互いに覚えていないのなら、初対面として応じた方が良いだろう。


「と、言うことは、君はライヴァン国民ではないんだね。ここに来たと言うことは、国王に用事があるのかい? それとも、他の誰かに?」


 本来なら、いきなり執務室に乗り込むなんて所業は即座に拘束すべき不作法だ。

 けれど、今は口うるさい臣下たちもいないし、取り押さえる必要性をフェトゥースは感じなかった。


 なによりこの青年、不安そうな瞳が迷子の獣みたいでひどく頼りないように見える。


 おそらくは、なにか事情があってここへ逃げ込んできたのだろう。


 ——と、考えていた時。

 ふと、彼が自分の提げている抜き身の剣を気にしていることに気づく。


 フェトゥースはエストックを鞘におさめ、両手を執務机に乗せた。

 それだけの動作で、彼の全身に張り詰めていた緊張が解けていく。


「よく解らないが、ライズとかいう人がロッシェという人の所に連れて行ってもらえ、と言っていた」


 口を開いた彼の言葉に含まれていた名前は、どちらとも覚えがあった。


 ロッシェというのは親しい臣下で、公にはされていないものの腹違いの兄でもある。

 彼がティスティルで知り合った友人の中にたしか、ライズという名があったはずだ。


 ティスティルの魔族ジェマが人間の国家であるライヴァンの城に駆け込んでくる事態——を想像し、胸の中にぽつんと嫌な予感が生じる。


 もしかして、事は危急を要するのだろうか。


「ロッシェかぁ。今日は来てないけど、呼ぼうか。……ところで君は追っ手をかけられている、ってことはあったりするのかい?」


 仮にもここは、ライヴァン国王の居城だ。

 ここに彼を送り込んだのがロッシェの友人なのであれば、十中八九彼に依る庇護を期待してのことだろう、と結論づける。


 それなら一刻も早く、安全な場所に連れて行った方がいい。


「よく解らない」

「そうか」


 困惑したように眉を寄せて、魔族青年は瞳を伏せる。

 その様は、自分の置かれている状況を理解していない証拠に思えた。


 フェトゥースはひとつ頷き、机を離れて扉の方へ行くと、招くように彼に手を差し伸べる。


「何にせよ、一人にならない方が賢明のようだね。君を手助けしてくれそうな人物を紹介するから、一緒にきたまえ」

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