第3節 作戦成功の報せ

 必要なことはすべてやり尽くした今となっては特にしたいことも思い付かなくて、ラディアスはベッドの上掛けとシーツを畳んで重ねたり、自分の傷を手入れしたりして、時間が過ぎるのをただ待っていた。


 そろそろ朝食の時間だろうか。

 リトは無事に、この屋敷を抜け出せたのだろうか。


 ——と、思いにふけっていた時、ふと思い直して昨夜食べられなかったパンを摘み上げる。

 もう一度口元に持っていってみるものの、胃に蓋でもされてるみたいに受け付けなかった。

 仕方ないのでコップに水を少し注ぎ、砂糖と塩を少し溶かして口につける。

 吐き気に我慢して何とか飲み下した後、ベッドに仰向けに寝転がった。


 目を閉じて、記憶を巡らせる。


 ほんの半年ほど前まで、ラディアスはふらふらと当てもなく、各地を放浪する日々を送っていた。

 十二年ほど前に偶然の出会いで育てることになった翼族ザナリールの娘、ラァラと共に旅をしながら、行きずりの出会い別れを繰り返す毎日は、不安定だけれど不幸せではなくて。


 リトに出会ったのは、そんな頃だっただろうか。


 道の往来で突然胸の痛みを訴えて、昏倒した彼を見つけたのはラァラだった。

 彼女に呼ばれるままに駆けつけて診察したんだったか。


 あの時も彼は理不尽なことに巻き込まれていて、大切な友人を奪われ傷ついていた。

 ラァラが自ら手助けを申し出、事件が無事に解決した後に、彼は自分とラァラを屋敷に住まわせてくれたのだ。


 主治医、という名目の、実質居候みたいなものだけど。


 それでもラディアスは半年の間に、家の雑務や料理などを手伝えるようになってきた。

 ラァラが学校へ、リトは職場へ出かけていって。

 そして自分は家の掃除や手入れをしながら、時たま短期の仕事を探して街に出てみたりした。


 それなりに忙しくて、穏やかで、時々賑やかな——、しあわせな毎日だった。


 多くは望まない。

 欲しいのは、大好きなひとたちと一緒に過ごせる時間と空間、ただそれだけなのに。 


 国の守護者である白き賢者にどうしても迎合できず、家出同然に王家を出奔して。

 自分の身を痛めつけながら日々を浪費していた若い頃は、いつ死んでも構わないと思っていた。

 命を維持する術と安全を与えられたって、それと引き換えに自由を奪われるとしたら、それは死ぬより不幸なことだと。


 ずっと、そう考えて生きてきた。


 ——でも、今は違う。 


 今の自分は、逃げ出すことも家族に会うことも叶わない、孤独で悲しくて不幸な状況を強いられているけれど。

 きっと昔の自分なら、ベッドに潜り込んで世界に背を向けすべてを見ない振りして、自分を哀れむことしかできなかっただろうけど。

 

 もう、今はそんなことで時間を無駄遣いしたりなんかしない。

 万策尽きて何もできなくなるまでは、一つでも二つでもできることをして足掻こうと心に決めている。


 そんな折、部屋の扉がかちゃりと開けられた。

 反射的に跳ね起き、ラディアスはベッドの前に立ち上がり姿勢を正す。


 案にたがわず、入ってきたのはエルディスだった。


 分かりやすく彼の笑顔が不穏で、どうしようもなく身体が震える。

 すでに、好悪や感情を通り越して条件反射の域だ。


 彼はラディアスを観察するように眺め回すと、ゆっくり近づきながら口を開いた。


「君がリトアーユを逃がしたんだろう?」


 その言葉は、ラディアスにとって朗報だった。

 リトが無事に逃げおおせたという報せだ。


 強張っていた身体から少しだけ力が抜け、少しだけ安堵して口元を緩める。


「そうですよ」


 口にしてから、向こうの神経を逆撫でしたかもしれない、と少しだけ後悔した。

 けれど、嘘が言えないこの状況で、笑って誤魔化せないのに笑ったりしたら、馬鹿にしていると思われそうだし。


 今自分がどんな顔なのか、正直もうよく解らない。


 エルディスの自分を見る橙色の双眸が、わずかに細くなる。


「どこにやったんだい?」

「知りません。俺は出て行くように言ったけど、あいつが実際にどこへ向かったかまでは解りませんので」

「本当だろうね」


 間髪入れずに問い質される。

 嘘も黙秘も許されないこの状況でも、この言い方なら嘘にならないはずだ。

 たとえ促した先を吐かせられても、広大な帝国を探査魔法もなしで捜索するのは簡単なことじゃない。


 稼げる時間は幾らだって、稼いでやりたい。


「疑うなら、【嘘探知センス・ライ】でも【読心リード・マインド】でも使ったらいいでしょ?」


 できるだけ笑みを消し、まっすぐ見上げて静かに言い返せば、彼は案外あっさり引き下がってくれた。

 きびすを返し部屋を出ようとして、不意に振り返ったエルディスの瞳は、いつもの彼とは違う冷たさを湛えている。


「……本当に君は、つくづく私の邪魔をしてくれる」


 不穏な台詞を残し、扉が閉まる。

 途端に膝が崩れベッドに座り込んだラディアスは、次に彼が取るであろう行動を予測し、息を詰めて目を閉じた。


 ここを出たリトがライヴァンに行こうとして向かう先は、どこだろうか。


 願わくば親切な誰かに拾われて、馬車なり船なり世話して貰えていたらいいのだけれど。

 そして、リトがどこへ向かったか関わりなく、エルディスは次にリトの職場へ向かうだろう。

 彼の同僚であり親友でもあるライズが、そこにいるからだ。


 リトにとっての最善は、どの方法なのだろうか。


 今の自分には祈ることしかできない。

 聡くて機転の利くライズなら、不利な状況をひっくり返して良い方へ転がしてくれる。そう信じたい。


 いずれにしても、彼はまたここへ足を向けるだろう。

 朗報か悲報、いずれかを携えて。


 まるで刑執行を待つ死刑囚のようだ。


 それでもできることを考えなければ、とラディアスは視界を遮断したまま思考を巡らせた。

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