4章 主治医ののぞみと幸運のバトン

第1節 月色の狼と迷子の鴉

 快晴を期待したのに、曇天だった。


 朝から水を刺された自分になるものの、天候ばかりは個人の気分でどうにかできるわけじゃないので、仕方ないなと思い直す。


 今ではだいぶ通い慣れきた職場への道を歩きながら、ライズは頭の中で一日の流れをシュミレートしてみる。


 午前中に処理しなければならない書類がふたつ、みっつ。

 所長のリトが来たら直してもらう予定の書類が、——いくつだったっけ。


 最近は、レイゼルとスティルの新人コンビがリトを上手くあしらってくれるおかげで、彼らには訂正が必要な書類を任せている。

 昨日もどうやらやり込められたみたいだし、少しは懲りて心を入れ替えてくれると、助かるのだけど。


 ——と、つらつら考えていたら、見慣れた姿が視界の端を横切っていった。

 思わず振り返ってみると、たった今脳内で噂中のリトだ。

 けれど、今日の彼はあからさまに動きがおかしい。


 リトは早朝の往来にぼんやりと佇んで、壁に貼ってある地図を眺めているようだった。

 服装は普段着であるものの、手ぶらだし帯剣だってしていない。


 そしてなにより、向いている方向が研究所とは逆方向だ。


「リト! おまえ、仕事は?」


 胸がざわめき始める。

 駆け寄って声を掛ければ、彼はゆっくりと振り返ってライズを見た。


 きょとんとしたその隙だらけの表情と反応の乏しさに、不安が迫り上がり、さあっと全身の血がひいていく。


「誰だ?」


 当たって欲しくない予感が、当たってしまった。


 人違いではと思わせるような反応に、何が起こったのかライズは瞬時に把握してしまった。

 途端に目の前の視界が歪み、ぼろぼろと涙があふれ出てくる。


「なんだよ、リト、忘れちゃったのかよっ」


 研究員が本職とはいえ、一応ライズも精霊魔法の使い手だ。実力はまだまだ初歩級ではあるが、彼が何をされてこうなっているのかは、嫌でも解る。

 記憶を失った友人は、そんなライズの反応に困ったように目を伏せた。


「おまえのこと、解らない」


 しかも、話す言葉が片言みたいで頼りない。

 こんな覚束ない状態で一人、さまよっているだなんて一体どうして——。


 その疑問が導き出す最悪の事態を想像し、ライズは意を決してぐいぐいと涙を拭った。


 泣いている場合じゃない。

 幸運とか祈りとか。カタチにならない何かが繋いでくれたバトンを受け取って、次につなげること。

 それが今自分に科された使命に違いない。


「いいよ、おまえが解らなくてもオレはおまえのこと知ってるから。それより、おまえ今逃げてるんだろ?」

「抜けだせって言われた」


 誰かが手を引かなければ、いや彼の背中を押さなければ、普通に考えて記憶のないまま外に出すなんて有り得ない。

 リトが今一人なのは、抜け出せと言った当人が逃げられない状況下にあるのだろう。


 ——ディア様。


 国の重責に耐えきれず逃げ出した、優しすぎる王兄の顔が、ふと頭をよぎる。


 きっと彼がリトを外に出したに違いない。


 どういう状況を経てこんなことになったのかは解らない。

 でもリトは一人でも彼の言葉を信じて、父親の屋敷を抜け出したのだろう。


 怖いだろうに、不安だろうに。

 自分にもっと力があれば、助けてやれるのに。


 でも、これ以上彼の不安を煽りたくない。


 ライズは努めて明るい口調で、笑顔を意識して、リトに答えることにした。

 せっかくだから、ついでに頭をなでてやる。

 自分より歳も背も上ではあるけれど、彼はそうされるのは嫌ではなかったはずだ。


「うん、えらい。じゃさ、抜け出せって言った人はどこ行けって?」

「ライヴァン」


 まるで、迷子の子どもと話しているような錯覚を覚える。


 返ってきた答えは予想外ではない。記憶を辿って、ライズは一人の人間を思い浮かべた。

 数年前にリトと旅をして、事件に巻き込まれたリトと自分を助けに来てくれた剣士は、たしかライヴァン国籍だったはずだ。


 やっぱりなー、と呟く。


「リト、ライヴァン行ったら、ロッシェって人捜せよ?」

「ロッシェ?」


 確認するように、名前をオウム返される。


 ライズの記憶が正しければ、そこそこ有名な人物だったはずだ。

 王宮にも出入りしていた覚えがあるし、名前さえ覚えておけば誰かが引き合わせてくれるに違いない。


「おまえを助けてくれるのは、ロッシェって名前の人だから。ロッシェ=メルヴェ=レジオーラ、ちゃんと覚えろよ? 解ったか?」


 もう一度、今度はフルネームを伝えたら、リトは物分かりの良い子どものようにこくりと頷いた。


「解った。ライヴァンにはどう行ったらいいんだ?」


 ——ああ、そうか。

 なるほど、ライヴァンへ行った記憶も消えているようだ。

 あのストーイング野郎、全部消しやがったのかよ、と思わず言いかけて、思いとどまる。


 今はそんな場合じゃなかった。

 

 うーん、と唸りながら、ライヴァン帝国の地図を頭に描いてみる。

 隣国であるものの、ライズ自身が直にそこを訪れたのは数えるほどしかない。


 王城と、帝都学院。


 行った回数と確実性で選ぶとすれば、王城の方が良いだろう。


「じゃ、オレが送ってやるよ。リト、オレの名前はライズっていって、おまえの友人で仕事の同僚なんだ。向こう着いたら、オレの名前出していいから」


 こんなふらふらなリトでは、側から見れば不審者にしか見えない。

 城の兵士に尋問されて、万が一連行されては堪らないので、自分の名前を伝えておく。

 それほど有名ではないが、調べるくらいはしてくれるだろうし。


「うん、解った。ライズ」

「よーし、いい子だっ」


 正直なところどこまで解っているのかは解らない。

 けれども、真面目な顔で頷くリトの頭を、ライズはもう一度撫でてやった。


 見てくれは同級生みたいだし、彼は自分より背が高いから、傍目にはきっと滑稽に違いない。

 だけど、これで彼が少しでも不安じゃなくなるのなら、別に構わない。


 それじゃ行け、と言おうとして、はたと言い忘れた大切なことを思い出す。


 危ないところだった。

 自主的には人に頼ろうとしない不器用な彼のことだ。

 事前に言い聞かせておかないと、ぜんぶ水の泡になってしまうかもしれない。


「リト、オレもライヴァンは余り詳しくないから、ヘンな所送っちゃうかも。その時はゴメン、近くにいる人に頼んで、ロッシェさんの所に連れてって貰ってくれよ。出来るか?」


 人間族フェルヴァーの帝政国家。リトは自分とは違い、何度も旅行に行っている。

 記憶を奪われた彼自身は覚えていないとしても、ライヴァンになら、彼を覚えていて助けてくれる人が絶対にいるはずだ。


「がんばる」

「うん、……頑張れっ」


 祈りにも似た願いを込めて、ライズは彼を激励する。

 そうして、頭に手を乗せたまま【瞬間転移テレポート】の魔法語ルーンを唱えた。


 どうか、リトにとって最善の結果が得られる場所へ——届きますように、と。

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