第22話 寄らず離れずの距離。
「こ、こ、こんなにもらって良いんですか?」
公香は、銀行の通帳を見ながら、叫び声を上げた。周囲の人々に怪訝そうな目で見られ、公香は逃げるように銀行から飛び出した。久し振りにお金を引き下ろしにいくと、知らない内にケタが増していた。通帳記入をすると、定期的にお金が振り込まれている。詐欺にでもあったのだろうかと、見当はずれな事を考えた公香であったが、以前に伊月から銀行口座を教えて欲しいと言われた事を思い出した。
単行本が出版され、印税というものが入ったと伊月は説明した。しかし、それにしても額が多いと、公香は不安になる。発行部数も知っているし、印税も伊月から教えてもらった。ざっと計算しても、かなりの額であったが、それよりもあきらかに多い。
『ああ、収益の取り分は、七対三で計算しています。本田さんが七で、俺が三。不満ですか?』
「不満です!」
公香は、即答した。どうして、七対三なのか。確かに元ネタは、公香が執筆しているが、伊月が手を加え作品が生まれ変わっている。まるで、一から作品を執筆している程にだ。それなのに、七はもらい過ぎだ。それではまるで―――口止め料が含まれているようだ。
対等な関係になりたいのに、祀り上げられているようではないか。腫物に触るようで、納得がいかない。それに伊月は、印税ではなく収益という言い方をした。それは、どういう意味なのだろうか? 公香が伊月に尋ねたところ。
『ああ、それは、印税だけではなく、原稿料やその他の収入。例えば、雑誌の取材やテレビやラジオ出演。俺が作家として得た収入の全てを、本田さんに支払っています』
伊月は、淡々と言葉を綴った。公香は、茫然としてしまい、返す言葉が見当たらなかった。
『これは、俺の気持ちです。『作家、伊月康介』として得た収入は、本田さんにも渡すべきだと判断しました。今の俺があるのは、本田さんのお陰ですからね。それにも関わらず、しゃあしゃあとお金を受け取る事が、俺にはできません』
伊月の強い意志を感じ、公香は複雑な心境だ。嬉しいのやら、悲しいのやら。条件を飲まなければ、関係を絶つとまで言い出しかねない。
「それならせめて、折半にして下さい。二人で稼いだお金という事にしてもらえたら、私はとても嬉しいです。なので・・・」
『分かりました。では、次回からそうさせてもらいます。ありがとうございます』
「いえいえ、こちらこそです。そ、それと・・・あの・・・な、名前・・・」
『え? 名前がなんですか?』
公香は、行きかう人の波を避けながら、歩道を早歩きで抜けていく。辺りをキョロキョロ見回して、人気の少ない場所を目指した。指名手配犯のように電柱の陰に隠れた。
「名前・・・あ、あの、伊月先生は、本名なんですか? 今更なんですけど、なんだか気になっちゃって」
公香は、誤魔化すように笑った。すると、スマホからも小さな笑い声が聞こえる。
『伊月康介は、ペンネームですよ。本名は、田嶋康介といいます』
「へーそうなんですか? じゃあ、『伊月』は、どこから取ったんですか?」
『
「す! すいません!」
『ハハハ! 全然いいですよ。多くの人がそう呼びますからね。俺も、最初の内は訂正していたんですけど、もう面倒になってどっちでもいいやってなりましたから』
恐縮しっぱなしの公香に、伊月は笑って宥めていた。それからしばらく、伊月は尊敬する作家の話を語り、公香は胸を躍らせながら、帰路についた。伊月と世間話をするのは初めての経験で、また二人の距離が近づいたように感じていた。
自宅に到着して、通話を切った公香は、ソファに座り込んだ。途端に胸のつかえが取れたようで、晴れやかな気分だ。通帳を取り出し、記された金額を眺める。伊月との初の共作である単行本の売れ行きは好調のようだ。その結果が、金額として記されている。見た事もない額だ。この事実に、今更ながら、若干の恐怖心が芽生えた。そして、通帳をテーブルへと投げ捨て、天井を眺めた。ソファのスプリングが軋む。
「・・・本田さんか」
微かに漏れた弱々しい声が、天井に触れ霧散する。咄嗟に、伊月の本名を知れたのは、我ながらファインプレーであった。しかし、公香が本当に言いたかったことではない。
伊月はいつまで経っても、公香の事を『本田さん』と呼ぶ。出来る事なら、名前で呼んで欲しいと、公香は常々思っていた。
少しだけ近づいたように感じた距離は、呼び名で現実を突きつけられた。伊月と公香は、あくまでも仕事仲間に過ぎないのだと。
二人の微妙な距離感がもどかしい。
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