第3話 あの日の想いは、墓場まで持っていく。

「はあーーー! やっぱり、何度読んでも最高だなあ!」

 本田公香は、自宅のマンションのベッドの上で、仰向けになった。胸にハードカバーの小説を抱きしめている。小説を顔の前に掲げ、表紙に記された文字を指でなぞる。

「終電間際の小夜曲セレナーデ

 公香は、宝物を愛でるように、愛おしそうに本を見つめる。

「ね? 良いお話でしょ? お姉ちゃんが、そこまではまってくれるとは、正直驚いたよ」

 公香の妹である優が、ソファから身を乗り出した。一人暮らしをしている公香のマンションに、優は度々遊びに来ている。狭いワンルームの部屋には、床のフローリングがほとんど露出していない。

「冒頭の二人の出会いの場面も最高なんだけどさ、その後の美幸が純平の全国弾き語り旅に同行するのも良いよね? そこで色んな場所へ二人で行って、色んな人に出会ってさ。楽しそうだよねえ!」

「そうそう! それで、お金がないから、二人で安いホテルに泊まってさー美幸は色々OKサイン出すんだけど、付き合ってないからって、手を出せないとことかって、純平が可愛いんだよね!」

「気を紛らわせる為に、ギター弾いて苦情くるシーン超笑った!」

 公香と優は、ベッドとソファで、それぞれ暴れていた。狭い部屋に、二人分の笑い声が、ぎゅうぎゅう詰めになっている。優は、チラリとテレビ台へと視線を向けた。

「それにしても、五冊は買いすぎでしょ?」

 テレビ台の隅っこに、同じ小説が四冊積まれている。

「何言ってるのよ!? これくらい普通だよ! まずは読む用でしょ? それの予備。観賞用でしょ? それの予備。後は、人に貸す用。これで、五冊じゃない?」

 指を折り曲げながら、公香は嬉しそうに体を揺らしている。優は呆れた表情で、息を漏らした。

「そんなに、いらないと思う」

「別に私の勝手でしょ? それに、沢山買えば、その分伊月先生に印税が入るんだから! もっと沢山、面白い小説を書いてもらわないと! ファンなら当然だよ!」

 公香は、顔を紅潮させ、熱を発している。

 伊月康介は、今話題のイケメン作家だ。三十二歳という年齢にも関わらず、今年でデビュー十周年を迎えた。デビュー当時は、若さとタレント並みの容姿で話題になったが、作品が評価をされ始めたのは、デビューから五年が経過した頃であった。精鍛なルックスに対して、伸び悩むセールスは、陰鬱なネット住人の格好の餌食となっていた。

 そんな不遇の時代を乗り越え、作家伊月康介は、ヒット作を連発する人気作家の仲間入りを果たした。

「お姉ちゃん? ニートなんだから、節約しないとダメだよ」

「煩いなあ! 別に良いの! お金ならそこそこ貯めてあるんだから」

 あっけらかんと答えて、公香は愛読書と向き合った。ペラペラとページをめくっているけれど、内容は頭に入ってこない。公香は、この伊月康介の作品に出会い、嘘のようにスッキリした気持ちになっている。まるで、この作品が、公香の不幸を全て吸い取ってくれたように感じていた。しかし、妹の優は、そう簡単には割り切れていない。近い将来、義理の兄になるはずだった存在も、勿論知っている。何度か会って会話もしているし、優しい男性という印象があった。それなのに、突然『別れた』と報告され、戸惑いが隠せずにいた。

 公香の貯金は、結婚資金として、用意されていたものだ。

 優の無理しているのが、見え見えの作り笑いを見るのが居た堪れなく、公香は本に逃げる。両親や優には、別れた理由は、説明していない。元カレを紹介していた手前、結果だけは報告せざるを得なかった。だけど家族は、理由を追求してくる事も、腫物に触るような態度も見せなかったのが、公香の救いだった。公香の事を心配しているのは、容易に想像できた。優はこうして、前以上に頻繁に遊びに来るし、母親からの電話の回数も増えた。『私は大丈夫だから、心配しないで』というと、逆に気を使わせてしまいそうだから、あえて何も言わない。

 今回の一件で、家族のありがたみが身に染みた。大切に想われている事が伝わって、『ココに居ても良いんだよ』と、見えない力で後押しされたような気持になった。元婚約者に拒絶された時は、世界中の人間から存在を否定された気分になって、世界中の人間が敵に見えた。

 お前は、この世界に存在してはいけない人間だ。

 周囲の人間から、寄ってたかって、そう攻め立てられていた気がしていた。その結果、公香は、逃げ出そうとしていた。

誰も追いかけては、来られない場所へ。

 その事実は、墓場まで持っていく事を、公香は心に誓った。

「え? 何々? そんなに面白い? 確かに、ホテルで苦情が来るシーンは、面白かったけど、そう何度も笑える程かね?」

 優がベッドでうつ伏せになっている公香に、覆いかぶさるようにして、本を覗き込んできた。

「面白いよ! 何度読んでも面白いの!」

 そう言って、公香は誤魔化した。公香は小説を読んでいて、笑ったのではない。

墓場に行こうとしていた事を、墓場まで持っていく。

 公香の決意を、文字にして頭に浮かべると、訳が分からないけど、笑えてきた。くだらない事で笑える程に、回復している。

 それもこれも、この本のおかげだ。作者の伊月康介のおかげだ。そして、この本に、作者に、引き合わせてくれた優のおかげだ。

「優の押し売りも、たまには役に立つね」

「え? お金取ってませんけど!?」

 心底心外だと、優は頬を膨らませた。

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