第2話 終電間際の小夜曲(セレナーデ)

 橋の欄干に両手を置いて、美幸が力を込めようとしたまさにその時だった。背後から声をかけられ、美幸は咄嗟に振り返った。広めの歩道には、花壇が点在しており、その内の一つの花壇、美幸の真後ろで青年が腰を下ろしていた。

「はい? え? なんですか?」

「いや、だから、そんなとこから、川に飛び込まれたら、迷惑なんだって! ここは俺のお気に入りの場所なの! 俺の特等席なの! 見てごらんよ。良い眺めでしょ?」

 青年は、スッと美幸の背後を指さした。美幸は、青年につられるように、後ろを向いた。そして、青年に向き直る。

「真っ暗で、何も見えないんですけど」

「そりゃそうだよ。何時だと思ってんの? もう終電間際」

 青年は右の手首に着けた腕時計を見せ、左手で指さした。

「朝とか夕方とかに、来てごらんよ。太陽に照らされたこの大きな川が、キラキラ光って、それはそれは綺麗なんだよ。悩みなんか、綺麗さっぱり洗い流してくれるよ。川の流れに乗ってさ」

 歯をニカリと見せる青年に、美幸は不信感を露わに、顔を歪めて会釈をした。足早に、この場を去ろうとする。

「ねえ! ちょっと、お姉さん! どこ行くの?」

「あなたには、関係ありません! どこだって良いでしょ?」

 苛立ちを隠そうともせず、美幸は眉を吊り上げる。

「死に場所を探しに行くの? 死相が出てるよ」

「そうよ! あなたが、邪魔をするから、ここじゃないどこかに行くのよ!」

「どうして、死ぬの? まだ若いのに」

「だから、あなたには、関係ないでしょ!? ほっといて!」

 人通りが少ない大きな橋の中央で、美幸の叫び声が響いている。すると、青年は何食わぬ顔で、足元に置いてあるハードケースの中から、アコースティックギターを取り出した。カンと音叉をケースにぶつけ、口に咥える。

「まあ、関係ないね」

 六弦を弾き、チューニングを始めた。青年は、音叉をケース内に放り込み、順番に弦を弾いていく。

「どうせ、くだらない理由でしょ?」

―――は? なにこいつ? 超ムカつく。

「何も知らないくせに勝手なこと言わないでよ!」

 瞬間的に頭に血が上った美幸は、青年の元へと駆け寄った。眉間に皺を寄せて、青年を睨みつける。

 私がどんな想いで、ここにきたのか。

名前も知らない軽薄そうな男に、必死で生きてきた人生を侮辱された気がした。美幸は、怒りで握った拳を震わせている。青年は、眉を上げ、美幸を見上げると、フッと息を漏らし笑った。

「なんだ、元気じゃん? 俺の気のせいだったかな? 死にに行くとは、思えないな」

「べ! 別に、元気じゃ・・・あなたが、失礼なことを言うからでしょ」

 青年に見つめられた美幸は、咄嗟に顔を背け俯いた。

「まあ、イイや。じゃあ、教えてよ。くだらない理由を」

「くだらないくだらないって言わないで! そんなこと私だって、分かってるのよ! 職場の先輩だった婚約者を可愛がっていた後輩に取られたのよ! 式の日取りだって決まってたのに! 会社の人達は、哀れんだ目で、私を腫物に触るように扱って! それでも、私は必死で耐えたわよ! なぜ、私が逃げなきゃいけないんだって! 悪いのは、彼と後輩でしょ!? そうしたら、日に日に、私を邪魔者扱いしてきたの! あからさまにあの二人を祝福するモードになって! 食事が喉を通らなくなって、ドンドン痩せていった! 眠れなくて、クマが濃くなっていった! 肌が荒れるし、身だしなみに気を遣う気力がなくなっていったの! そしたら、『幽霊』だとか、『お化け』だとか、陰口を言われるようになって・・・いったのよ・・・私は、悪くないのに・・・どうして私が・・・どうしたら、良いのよ・・・」

 美幸は、嗚咽が抑えられなくなり、両手で顔を押さえた。

―――・・・え? 私と・・・。

「私は、どうしたら、良いのよ? どうしたら、良かったのよ?」

「会社辞めりゃあ良いじゃん? 別に人間止める必要なくね?」

「会社はもう辞めてきた」

「じゃあ、もうなんも問題ないじゃんよ。死んで復讐でもしたかったの? 呪いとか? お姉さんを捨てた男も、奪った女も心に傷なんか、残らないよ。お姉さんが死んだとしてもさ。ただの嫌味になるだけだよ。すぐに忘れられる」

 美幸は、息が詰まって返答ができなかった。青年が言うように、後悔してくれたらという淡い期待は、確かにあったかもしれない。

 それでも、このまま惨めに引き下がって、存在がなかった事にされるより、よっぽど良いと思っていた。

「もうどうでも、良いよ。考えるのも面倒。私が死のうが生きようが、あなたには関係ないのだから。この特等席じゃなかったら、構わないでしょ?」

「うんまあ、そうだね。『死んじゃダメだ』とか、『生きていれば、きっと良い事がある』とか、そんな手垢のついた安っぽい言葉並べても、お姉さんには届かないだろうしね」

「・・・さようなら」

 美幸は、ポツリと零し、青年の前から去る。最後の会話が見ず知らずの青年だとは、やはり無様な人生だったと、美幸は妙に諦めがついた。むしろ良かったのかもしれない。親しい人や家族には、決して吐き出す事なんて、できなかっただろう。

「ああ、そうだ! お姉さん!」

 数歩進んだ所で呼び止められ、美幸は顔を歪めて振り返った。

「そんな嫌そうな顔しないでよ。どうせ死ぬんだったらさ、一曲聞いてってくれない? 見ての通り、お客さんがいないんだよ。ほんの数分くらい、先延ばしにしても、大した問題じゃないでしょ?」

 美幸は深い溜息を吐いて、元居た場所に戻った。そして、その場でしゃがみ込んだ。

「ありがと。じゃあ、聞いて下さい。『終電間際のセレナーデ』」

 青年は、ギターをかき鳴らした。美幸は、虚ろな瞳で、青年を眺めていた。

よくもまあ、そんなあつらえた様な曲があったもんだ。と、美幸は、溜息を零した。青年の奏でるアコースティックギターの一音一音に、青年が発する言葉の一つ一つに、美幸の目は大きく見開き、瞳孔が開いていった。青年が歌う歌は、彼のオリジナルでもカバー曲でもなかった。その事が、美幸には、すぐに理解できた。何故なら、美幸の現状に、あまりにも似ていたからだ。いや、美幸の為に作られた歌であった。つまり、即興で青年は歌っていた。

『死んじゃダメだ!』とか、『生きていたら、きっと良い事があるさ』とか、先ほど彼が言っていたように、手垢がついた平凡な歌詞であった。

 平凡な歌詞を、物凄い熱量で歌っている。

 青年は、大きく目を見開いて、大きく口を開けて、唾を飛ばしながら、血管を浮き上がらせながら、死に物狂いで歌っている。

 死んじゃダメだ! 死んじゃダメだ! 死んじゃダメだ!

 君は素晴らしい! 君は素敵だ! 君は美しい!

 君が君を諦めちゃいけない!

 いつか、どこかで、聞いた事があるような言葉が、並べられている。

 今にも血を吐き出しそうな形相で、青年は叫ぶ。

 最後の一音をかき鳴らし、アコースティックギターの残響音が響いている。青年は、全力疾走をした直後のように、息を切らし、汗だくになっていた。

「・・・プッ!」

 美幸は、口元を押さえたが、沸き上がってくる声が抑えられない。

「アハハハ! 酷い歌!」

 美幸は、笑い声を上げながら、ボロボロと大粒の涙を流している。

「ねえ! もっと、君の歌を聞かせてよ」

「よっしゃ! じゃあ、アンコールに応えて、次の曲!」

 美幸を包み込んでいた暗い闇は、青年の歌声に乗って流れていく。


―――この小説は、私の為に作られた物語だ。

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