外伝 あたしの英雄 Ⅰ

 あたしの目の前に現れた英雄ヒーローは、死ぬほど空気が読めないギークオタクだった。

 コミックのヒーロー達は半分くらいの割合でギークだから、おかしくはないのかもしれない。でもこの学校なら、将来は軍人になるような同級生だっていっぱいいるはず。あたしの彼氏だっている。それなのになんで、よりにもよってこの根暗なギークが来ちゃうんだろう。

 彼とあたしは同じクラス。それくらいは流石に知っている。けれど当然、授業以外で言葉を交わしたことなんてない。お互いに接点なんて皆無で、偶然同じ高校に通っているだけの他人だった。だって需要がない。前髪が長すぎるし、そのうえ眼鏡のレンズは死ぬほど分厚い。勉強以外の話をしているところを見たことがない。いくらなんでもギークとして典型的すぎ。

 けれど、彼はまさしくヒーローだった。

 あたしは不意に腕を引っ張られて転ばされた。ゆっくり傾く景色の中で、それがどれだけ有り難いことか思い知らされる。

 離れたところで、凝集した魔素を放つ上級生。そして、魔法を防げず遥か後方に吹き飛ばされたギークの彼。ガラス張りのエントランスに派手に突っ込んで、血だらけの姿で倒れている。濃い色の赤毛がいっそう赤く染まっていった。

「邪魔すんじゃねえよ、クソが!!」

 上級生――エイナル・ルンドベリーは大声で叫んだ。エイナルの目線の先にはギークの彼がいる。さっきとは比にならない剣幕だ。あたしへの報復が邪魔されたのがそれだけ嫌だったんだろう。エイナルなんかに告られたあたしの方が心外なんだけれども、あの短気な馬鹿に正論は通じない。現に、あたしを魔法から守ったギークの彼が、新たな標的にされている。

「おい立てよ。割り込んだってことは、俺に勝てるってことだろ?」

 呼びかけられたギークの彼は呻き声を上げて立ち上がるけれど、すぐにふらついて膝をつく。エイナルは容赦がなくて、ギークの彼の襟首を掴んで無理やり立たせた。衝撃でギークの彼に刺さっていた大きなガラス片が振り落とされる。足元の血だまりが広がっていく。

「なあ、俺に一発入れてみてくれよ。ローレントくん?」

「……できる見込みがあれば、殴らせていただきたいところですね」

 ギークの彼――ローレントというらしい。彼は消え入りそうな声で呟く。エイナルは盛大に笑って、ガラスの散乱する床に彼を放り投げた。

「そうかそうか、勝算もなしに俺に喧嘩売ってきたのか。お前――馬鹿だな」

 彼は痛みに耐えかねて小さく悲鳴を漏らした。立ち上がろうと力を込めているのは見て取れるけれど、ほとんど体を支えられていない。誰の目から見ても再起不能だった。

 あたしの友達が一人、彼の所に駆けつけて介抱する。彼は呼びかけに答えられないくらい重傷で、もうあたしを助けてはくれないだろうことは一目でわかった。エイナルは血まみれの彼を油断なく見ながら、あたしの方に歩み寄ってくる。

「エイナル。あたしをどうしたいの?」

「さっき言ったろ。ただ、今はこっちが優先だ」

 突然エイナルが足払いをかけてきた。あたしに避けられるはずがない。鈍痛がして、その後に思いきり転ぶ。エイナルから離れようと思って体をひねったけれど、その前に髪の毛を引っ張られた。

「痛い、やめて! なんで告白を断ったくらいで暴れるの、おかしいでしょ!」

「うるさいな、俺が告ったら喜んで付き合うんだよ。シェリルは何様なんだ」

 あたしの背中に馬乗りになったエイナルは、当然のように首を絞めてくる。苦しくて、抵抗しなきゃいけないのに何もできない。ギークの彼は瀕死だし、先生も彼氏も助けてくれない。自力で逃げるなんてできない。さっきまでは誰かが助けてくれるんじゃないかと思えたけれど、そんなのはただ自分を誤魔化していただけだった。

「助けて」

「気づくのが遅えな。最初からシェリルが俺に歯向かわなきゃよかったんだよ。どいつもこいつも馬鹿ばっか。状況見ろよ、何の関係もないローレント君を巻き込んだのはお前だぞ?」

「助けて、お願い」

 その瞬間だった。

「――君、シェリルちゃんっていうんだ。可愛いね」

 目の前に現れたのは、二十代くらいの赤毛の男性だった。しゃがんであたしを覗き込む。見た目はギークの彼に似ているけれど、彼よりずっと軽薄な感じがする。

「あんた誰?」

 明らかに不審者。なのに誰も疑問を口にしない。動いているのはあたしだけ。まるで時が止まっているみたいだった。するとその男性は眉を上げて、甘ったるい微笑みを見せる。

「時は止まっていないさ。時は侵すことのできない領域だからね。僕は君以外の人間が情報を入出力するのを防いでいる。すると、シェリルちゃんと僕だけの空間がここにできあがる。そういう仕組み」

「何でそんなことする必要があるの? あたしを助けてくれるわけ? というか、あたしの上に乗っかってるエイナルくらいどかしてくれない?」

 あたしが文句を言ってもその男性は動じなくて、喉の奥を鳴らしながら目を細めた。

「そうだな、助けることになるのかな。ま、直接的には助けないけど。ごめんねシェリルちゃん」

「もういい。だったらなんであたしの前に現れる必要があったの?」

 正直エイナルなんかよりも怖い。けれど助かりたいなら縋るしかない。あたしの問いかけに、男性はギークの彼を指さした。

「あそこの彼さ――そうそう、死にかけている赤毛の彼。あんな満身創痍になって尚、この状況を打破したいと強く願っているんだ。で、僕としても彼に力を与えるのは悪くないと思っているんだよね。でも」

 男性はなぜか不穏なタイミングで言葉を切る。ずっと微笑んでいるのに、目は笑っていない。

「君たちはなんて呼ぶんだっけ、ドラゴン? そうするにはいまひとつ物足りないんだよね」

 頬を指で叩きながら、男性は朗らかに言い放った。

「そこでシェリルちゃんに二つ、条件を提示する。一つ目に、赤毛の彼を僕くらいの色男にしてほしい。二つ目に、彼を『レン』と呼んでほしい。そうすれば彼は有名人になれるからね。この条件をシェリルちゃんが守ってくれるなら、彼をドラゴンにするメリットが生ずる」

 立てた二本の指を鬱陶しいくらい突き出してくる。彼をドラゴンにするのに、なんで彼じゃなくてあたしに条件が課せられるの? 訳が分からない。しかも条件そのものが意味不明だし。

「というわけでシェリルちゃん。決めようか。すべて君の決断次第だ。赤毛の彼は死に、シェリルちゃんは大怪我をしてしまう。それか、彼もシェリルちゃんも無事おうちに帰れる。どっちがいいかな」

 あたしが、彼をドラゴンにするか否か決める。男性はそう言っている。ドラゴンに成れば人間よりも遥かに長い寿命や強大な力が与えられるし、一方で、徴兵制度や刑法が普通の人間よりも厳しくなる。彼の人生を大きく左右する選択を、あたしが?

 死にかけの彼と、今にも襲われそうなあたし。決断で彼も自分も救われる。責任重大すぎ。いくらなんでもあたしに求めすぎでしょ。でも彼がそれで生きられるなら、あたしを助けてくれるのなら、悪くないかもしれない。

「決まりだね。僕は彼に力を与える。首尾よくやってくれよ、シェリルちゃん」

 男性が指を鳴らすと、どこからともなく剣が現れた。魔素の灯りが象る剣は、ギークの彼の胸に押し込まれる。膨大な量の光の糸がみるみる彼の体に吸い込まれて、急にかき消えてしまった。

「じゃあ僕はここで失礼するよ。またいずれ」

 途端に周りの皆が動き出し、さっきまでそこにいたはずの男性はいなくなっている。そして――

「エイナルさん、再戦願えますか」

 背後から、彼の呟きが聞こえた。

 彼はゆっくりとエイナルに歩み寄っていく。血ではりついた前髪の隙間から、青紫色の目が覗いた。彼の瞳はさっきまで緑色だったはず。異変に気付いたエイナルはギークの彼から距離を取って、また魔法で吹き飛ばそうと手を突き出した。

 ――そのすべてが、炎で凪ぐ。

「僕に、理不尽に抗う力を」

 静かに言葉を並べただけなのに、彼の言葉は鮮明に響いた。彼の赤毛の端から、指先から体はほどけていき、魔素でできた光の糸は大きく膨らんでいく。熱風を伴って、流れる光が大きく羽ばたいた。

 淡い紫の鷲が、地面を蹴って高く空を舞う。車ほどもある巨体が一瞬太陽を隠した。体中から生える細長い金色の結晶が反射できらめいた。

 彼が、あたしの英雄。

 彼は急降下して、鉤爪でエイナルを軽々とさらう。もがくエイナルを運動場に落とした。

「てめ、ドラゴンになったから何だってんだ! ぶっ殺す!」

 エイナルはすぐに態勢を立て直すと、ギークの彼に向かって激昂する。ひるまずに警棒を取り出して、その先に魔素の球を作り出した。狙いは彼だ。

「危ない! よけて!」

「問題ありません」

 あたしの叫びに素っ気なく答えると、ギークの彼は自分の体の周りに結晶を浮かべる。針葉樹の葉みたいに成長していく結晶は、彼の意のままに飛んでいった。エイナルの足元に結晶が落下し、一瞬だけ青紫色に燃える。直後、爆発。明るいオレンジ色の火花が散る。エイナルは起動しかけた魔法を霧散させて、受け身を取って転がった。けれどその隙にまた結晶が降り注いで、ギークの彼が一つ羽ばたくと断続的に爆発が起こる。エイナルは避けられず、吹き飛ばされて地面に打ち付けられた。

 苦しそうに声を上げてエイナルが這いつくばっている。空で旋回していたギークの彼は、倒れているエイナルの傍に舞い降りた。

 圧倒的だった。エイナルは家が特殊でよくドラゴンと戦うらしいから、ギークの彼が力を手に入れたところで圧勝できるとは思っていなかった。

「ねえ、君! ローレントっていったっけ。ありがとう、もう大丈夫――」

 結構近づいたのにあたしの声は届いていないみたいで、ギークの彼はエイナルにとどめを刺そうとする。青紫色に燃える結晶が翼の周りを浮遊しはじめた。

「駄目!」

 あの男性と交わした約束が守れなくなる。そんなことになったらあたしがどうなるか分からない。まだギークの彼に守ってもらったお礼も、ちゃんと言えていない。

 エイナルとの間に咄嗟に飛び込むと、ギークの彼が飛ばした金属片が目の前にあった。当たった感触が妙に柔らかくて、腹部の皮膚全体が針で刺されたみたいに痛い。

「君! 何故飛び込んだんですか!」

「これ以上、騒ぎを大きく、したくなかったし」

 鷲の姿を光の糸に変えて、ギークの彼は元の姿に戻った。あたしの火傷を見てほんの少しだけ眉を動かす。

「本当に申し訳ない。僕の憂さ晴らしに君を巻き込んでしまいました」

「びっくりなんだけど。憂さ晴らしで、死にそうになる、なんて」

 彼のズレた言葉を聞いているうちに、だんだんと眠くなってくる。他にも何か喋っているような気がするけれど、いまいち覚えていない。

 たぶん、「ありがとう」とだけ言って、あたしは寝てしまったんだろう。

  

 ***

 眠そうに目を擦りながら唸るロランは、癖なのか手探りで眼鏡を探している。もうかける必要がないのに、いつまで続けるつもりなんだろう。あたしがロランの手を指ではじくと、やっと眼鏡を持っていないことを思い出したみたい。顔を上げてものすごく間抜けな声を出した。

「シェリー、何故日記を見ながらにやにやしているの」

「レンに助けられたときのことを夢に見て。目が覚めたから日記を読んでたの」

「日記には何て?」

 相変わらずデリカシーも何もないけれど、壁を作らずに接してくれるようになったからそれで充分。髪をぐちゃぐちゃにしてやると、ロランは嬉しそうに笑った。

「レンはサイコーに格好良かったって」

「ありがとう、シェリーに言ってもらえるのが一番嬉しいよ」

 ロランはハグをして、それから大きなあくびをすると立ち上がる。朝食の準備をしてくれるんだろう。最近は失敗しないくせに、ロランは珍しくへたくそなウインクを残して部屋を出ようとした。折角の休日だし、たまには一緒に料理をするのもいいかも。

「待って、あたしの英雄ヒーローさん!」

「急に飛びつくと危ないよ。それはそうとシェリー、随分と上機嫌だね。どうして?」

「内緒」

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