#3 メッセージ Ⅱ

 裏切りは特殊事例じゃない。

 お互いにどこかで齟齬を感じはじめれば、いとも簡単に人間関係は覆る。原動力が些細な違和感だろうが強烈な反感だろうが、一歩踏み出せばすぐに裏切りの領域が待っている。

 私は彼女にとってのその領域に立ち入ってしまった。わざと不快にさせようとか、そんな意地の悪いことをしたかったわけではない。恩人に、あまりにも不遇な命の恩人にお礼がしたかっただけ。だがそのお礼がきっかけで彼女にとって私は敵となった。

 だからエレノアは私を異端審問にかけようとしているのだ。

「イーリス! あなたに聞きたいことがあるの。昨日は何をしていたの?」

 朝のホームルームのために教室に入ると、彼女は二つ結びにした栗毛を憤らせて私との距離を詰める。眼鏡の奥の瞳にいつものような愛らしさはない。

 ――十中八九、知られている。

「昨日? カフェに行った後は家で調べものをしてたかな」

 私が最低限の情報で様子を伺うと、エレノアは確信を伴って追及する。

「そのでは何をしていたのかしら。あの悪魔たちと密会をしていたと聞いているのだけど」

「悪魔たちって……。アルマス・ヴァルコイネンとローレント・D・ハーグナウアーのこと? してたのはほとんど雑談なんだけど」

「悪魔と雑談とはずいぶん暢気ね」

 場は一触即発の空気で満たされている。

 やはりエレノアは知っているのだ。私が二人と接触していることを。エレノアがあのカフェの近辺を歩いている姿はあまり想像できないが、監視の目は一人分じゃないのだろう。隣のクラスの男子が後ろに控えているあたり、エレノアは報告を受けて知ったのかもしれない。

 刺々しく響く声に、教室のそこかしこに固まっていたグループがお喋りをやめてこちらを見る。廊下を通りすがった他クラスの生徒も足を止めた。私たちの口論を観戦するつもりらしい。

「エラは彼らのこと悪魔って言うけどさ、具体的にどこが悪魔なの? 定義はどこにあるの?」

「大回帰における最大の戦犯だからよ。そしてアルマス・ヴァルコイネンは、二千年前にこの街を襲っている。神から授けられた身をドラゴンなどという醜悪なものに変え、さらには悪意に飲まれて暴れまわった。あの愚か者たちを悪魔と呼ばずしてどうするの?」

 私が幼い時に抱いていた考えと全く同じだ。

 文明を破壊し、戦争の経緯すら伝わらないほど世界にダメージを負わせた悪者だから。人間として生を受けたのに、勝手に魂を売り渡して化け物になったから。そうして心までも化け物になってしまったから。だから彼は邪悪なドラゴンとして排斥されなくてはならない悪魔なのだ。

 だが彼は利己的だったのだろうか。

 幼い頃私の命を救った青年は。エレノアに罵られて、「それを受け止める義務がある」と言ってのけた彼は。他人のために生きられる優しい人だった。

 アルマス・ヴァルコイネンは、罪を犯しただ。悪魔などではない。

「エラらしいね。例外ばっかり並べ立てて証明した気になるなんて」

「何が言いたいの? イーリスは教会の二千年の歴史を――」

「積み重ねた時間だけを信じたって、何にも進まないよ」

 エレノアは私の言い分に激昂する。

「先人たちが無為に時を積み重ねたというのですか⁉」

 彼女がそう叫んだのを皮切りに周囲からも文句が滲み出てくる。分かってはいたが想像以上の非難轟々だ。声が重なり渦巻いて、誰が誰だか区別がつかない。これではエレノアに伝えたいこともかき消されてしまう。話をさせてくれと要望してもエレノアは止まらない。どうやら私が彼女を堕落への道へ引きずり込もうとしているように見えるらしい。一歩も譲らず、私への叱責を繰り返す。

「やはりイーリスは誑かされているのよ。うわべだけならいくらでも取り繕えるの。イーリスはもっと本質を見て!」

「見てるってば! そういうエラはどこで彼らの本質を知ったっていうの⁉」

「歴史よ! 歴史がすべてを物語るの!」

「その歴史が――」

 エレノアに賛同する声が更に大きくなって、私の声は届かない。

 ここに私の味方はいないんだ。私がどう足掻いたところで、彼ら彼女らの信念には傷一つつかない。必死に叫んだってひっくり返るのは声だけで、アルマス・ヴァルコイネンに対する認識は覆らない。

 無力だ。あまりにも無力。

 行動したところで私が空回りするだけで、本当に噛み合ってほしい歯車との間には無限に等しい距離がある。諦めたくないが、打開策もない。なんだって説き伏せてやろうという気概だけではこの状況はどうにもならないのだ。声の一つも届かないのに恩人に報いたいだなんて笑える。

 今は退いてしまおうか――

「――何の騒ぎですか。静かになさい」

 鋭く声が刺さる。生徒たちの口は一瞬にして縫い留められた。

「ママ……」

「今は学園長です。――イーリス、エレノア。何故こうなったのか説明しなさい」

 教室に乗り込んできた母は静かに私たちを見つめる。先に口を開いたのはエレノアだった。

「学園長さま。イーリスはアルマス・ヴァルコイネンらを擁護しています! そのうえ私たちの信ずる教義を疑うというのです! 許してはなりません!」

「イーリス。エレノアの言葉は真ですか」

 母は私の答えを知っているが、自ら私に味方することはない。母は私を巣立たせようとしているのだ。私が引き下がることなく立ち向かうのを母は求めている。

 そうだ。こんなところで折れてやるいわれはない。

 私はあのお茶目で優しい青年を思い浮かべる。

「――はい。私はアルマス・ヴァルコイネンを無駄に責め立てるつもりはありませんし、彼を悪魔と呼ぶことに疑念を抱いています。ですが私の思いも聞かずに論難ろんなんするのはやめていただきたいのです」

「そうですか。ではイーリス、私からはこの一点だけ問いましょう。あなたは何のために彼の者を庇うのですか」

 彼に報いるため。恩を返すため。私はアルマス・ヴァルコイネンを、お決まりと化した大衆の悪意から守りたい。

 だが彼は純然たる正義ではない。彼が戦争を起こした罪は確かに存在するのだ。

 なら、私にできることは一つ。

「真実を暴きたいのです。アルマス・ヴァルコイネンが何故悪と蔑まれるのか、彼を悪魔と呼ぶことは正しいことなのか。私はそれが知りたい。非難することと称えることのどちらに正義があるかは、正しい過去を知らなければ論ずることなどできないはずだから」

 教室に声が反響する。母は私に眼差しを向けた。宿る光は鮮烈だ。母は監督としての判断を下す。

「イーリスは真実を知りたいのですね。――ならばそれも正しき在り方」

 空気が変わる瞬間だ。みな身じろぎ一つせずにいるが、生徒たちの視線は激しさを失っていく。

「学園長さま! イーリスは教義に背こうとして」

 それでもエレノアは母の言葉に食い下がった。母はそれを遮って呼びかける。

「エレノア、そしてここにいる他の生徒たちも。よく覚えておきなさい。私たちは探し求める者であり、妄信する者ではない。探し求めた末に教義を疑うのならそれでも構いません。祖がこのノウム教を立ち上げたのも、探求した末の疑念からだった。私たちに課された最も大切なことは学び続けること。学ぶことを怠るなら、あなたたちの心にある教義に意味は生まれない」

 物心ついた時からずっと私の中にあった信念。母は何度も語り聞かせながら、自分の娘が言葉の本質に気づくのを待っていた。

 私はそんな母の背中を追うのだ。

「イーリス。あなたの思いを聞かせなさい」

 母に促され私はクラスメイト達の顔を見る。依然厳しい感情を投げかける者もいるが、大半は情けない顔をしている。ちょっと前までの私みたいな顔だ。ただしエレノアだけは一切揺らいでいない。彼女は努力家だから、彼女なりの芯を見つけているのだろう。

「私の思い、みんなに――特にエラに聞いてほしい。私が何故、アルマス・ヴァルコイネンを悪魔とすることに疑問を呈しているのか。……エラ、思い出して。ドラゴンは元々人間なんだよね。そしてエラにとってドラゴンになることは忌むべきこと。だったらこう解釈できるんじゃない? ドラゴンは罪を犯した人間だって」

「……ええ、そうね。間違っていないと思うわ。でもなんでそんな当たり前のことを――」

「――罪人だって救われる。勤勉なエラなら分かってるでしょ? たとえ罪を犯したとしても、それの何がいけなくて、これからどうすればいいのか。答えを求めていけば罪人だって善い行いに辿り着けるの。それなのに彼だけを悪魔と罵るのはあまりにも勝手すぎる」

 エレノアは私の言葉に少しの間黙り込む。

「そうね。ドラゴンは罪人であって、罪人も救われる。……けれどアルマス・ヴァルコイネンの善行なんて、言い伝えにも記録にも、どこにも見られないわ!」

 エレノアは私の主張が弱いと言いたいのだろう。クラスメイト達も野次馬もエレノアの台詞を肯定して徐々に声を大きくする。

 だが負ける気はしない。

「私は彼の善行を見た! 私はアルマス・ヴァルコイネンに命を助けられたの!」

 場の空気なんて知ったことか。落ちてきた前髪を払いのけ深呼吸をする。眼鏡の奥のヘーゼルの瞳を見据えれば私の心は決まる。

「私は小さいとき、アルマス・ヴァルコイネンが悪魔だって信じてた。だから一人で悪魔退治に行ったの。だって私の中では、アルマス・ヴァルコイネンは存在しない方が良い悪者だったから。私は意気揚々と『領域』に乗り込んだ。で、遭難した。本当に怖かった。寒くて動けなくなるし」

 エレノアは明らかに動揺した。私はそんな彼女の襟首を掴む。エレノアの眼鏡に触れそうになるほど近づけば、彼女は身を固くして私の手首を握りしめる。

「ねえ、エラ。私、何で今生きてると思う?」

「放して……!」

「嫌。放さない。答えて」

 エレノアは地面を踏みしめ抵抗しながら叫ぶ。

「それは、救助されたからでしょ! 『領域』か、ら……。――まさか」

 エレノアはどんどん蒼白になっていった。

「そうだよ。私を見つけて警察に送り届けたのはアルマス・ヴァルコイネン。『領域』の主である邪悪な黒いドラゴンだった。危ない状態だった私に彼は血を飲ませてくれたの。正直よく覚えてないけど、後から病院で聞いたことははっきり覚えてる。アルマス・ヴァルコイネンが血を飲ませてくれなかったら死んでいたかもしれないって。凍死寸前だったって」

「嘘よ……。たちの悪い嘘だわ……!」

 私は容赦しない。エレノアと私は妥協しあうような間柄じゃない。包み隠さず本音をぶつけたって、最後には全部認めあえる。彼女は最高の親友のはずだから。

「嘘じゃない。真実を見ろ! アルマス・ヴァルコイネンは善を行えるの。もし彼の善行を疑うなら、一緒に私の命も疑うことになる。私は彼に救われたこの命を否定しないし、周りの奴らにも否定させない‼」

 私はエレノアを開放し彼女の乱れた襟元を整える。不安になって彼女の顔を伺うと、なにやら思いつめた表情でこちらを見ていた。

「だからね、エラ。私はあらゆる事実を踏まえたうえで、彼の善行の分だけアルマス・ヴァルコイネンを認めてあげたい。彼が頭ごなしに否定されないように、見合う分だけ許されるようにしたい。それは、彼に救われてしまった私に課せられる義務だから」

 エレノアはスカートの裾をぐしゃぐしゃにして俯いた。私が一歩下がって見守っていると、彼女は徐に口を開く。

「その……、イーリス? 私……。あなたの主張は一理あると思うわ。だって、イーリスがここにいるってことは、やっぱりどう解釈してもアルマス・ヴァルコイネンの善行の結果起きた出来事だから。でも、すぐに信じるとか、そこまではまだ……」

「それでいいよ。エラにはエラの信じるものがあるもんね。自分から無理やり信念を曲げる必要はないよ。私はそういう信念を持った人たちに事実という劇物を注入してやろう、って企んでるだけだから」

 やはりエレノアは最高の親友だ。私は伸びをして彼女に笑いかけた。すると少し穏やかになったエレノアはまた眉間に皺を寄せる。

「イーリス、その笑い方お下品……! あと言い方が気持ち悪いわ! 中年男性だってそこまでじゃないはずよ」

 快活な笑みを浮かべたはずなのにエレノアは全否定してくる。ちょっとひどすぎやしないだろうか。仕返しに脇腹をくすぐってやろう。上着の下に手を潜らせればじわりとブラウスが温かくなる。

「エラ、中年男性に失礼だよ。ほとんどは清廉潔白で爽やかな人かもしれないじゃん」

 いつも通りの「そうかもしれないわ」という言葉は返ってこない。代わりに体をよじってエレノアは私から逃げようとする。

 距離を取られても悲しいので、私は両腕でエレノアを捕獲した。

「ちょっと、イーリス!」

「これで一先ず仲直りですか? エレノアお嬢様」

「……そうね。仲直りしましょう。アルマス・ヴァルコイネンのことも、イーリスを助けてくれたほんのちょっとだけは見直すわ。まだ悪魔にしか思えないけれどね」

「それでこそエラだよ! 最高!」

 窓から春風が吹き込んで制服をはためかせる。みな拍子抜けした顔になって息を吐きだした。

 これは私が本当の意味で刻んだ、最初の一歩だ。

 ゴールまで突き進んでやる。止まってなどやるものか。


 物語は動き出した。

 これは、私が彼の歩んだ軌跡を探し出す道のり。

 彼――アルマス・ヴァルコイネンがハッピーエンドを見つけるお話だ。


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