#3 メッセージ Ⅰ

 遠雷をBGMにして、私はお気に入りになったキャラメルマキアートをすする。波の音とはまた違った水音が店内の古典ジャズと混ざり合って、洒落たスネアドラムを付け足した。

 ――と誤魔化してみるが、カフェのロゴが描かれた大きなガラス窓の外は豪雨である。地面に叩きつけられて飛散した雨粒はより細かい粒子となって、フロスティグレーの石畳の隙間を埋めていく。雨水はそれだけでは飽き足らず、降り始めて一分経ったかどうかのくせに道行く人々の靴を水没させていった。

「予報が当たらないうえ、年間の降水量を追い越しそうなほどの土砂降りになるなんて。アルマスは無事でしょうか」

 色気たっぷりの微笑を浮かべる彼は平坦に呟いた。口では心配しているがどうせ一ミリも思っていないだろう。エスプレッソコーヒーの香りを吟味しながら空を見上げている。

「この様子だとびしょ濡れになってそうですね。それとも傘とか、訳の分からない空間に隠し持ってたりします?」

「……ああ、はい」

 コーヒーカップを揺らしながら彼は返事をする。が、どうにも噛み合わない。

「ちょっとちょっと、ハーグナウアーさん? 今何を考えてますか?」

 私が強めにテーブルを叩くと、彼は肩をびくつかせて私に向き直った。私の目を凝視すると、そのまま三拍ほど間を置く。そして探るようにゆっくり語りだした。

「……正直に告白しますと、天候調節術式の調整方法と、術式の組織的運用について思索していました」

 案の定、上の空だ。

 赤髪のイケメン――を装った偏屈なご老人、ノエ・シュバリエ。本名はローレント・D・ハーグナウアー。彼は大体いつも自分の世界に浸っている。返事が来ないこともしばしば。彼のマイペースぶりは常に徹底されていて、彼が興味を示していないことを語っても間抜けな相槌しか返ってこない。

 仕方ないので私は彼の告白に乗っかってやることにした。

「天候調節術式――『スノードーム』のことですか?」

「ええ。あれを管理しているのはアルマスなので。この様子だとまた徹夜かなと」

「やっぱりそうでしたか……。噂では聞いていましたが、こんなところで事実を知ることになるとは」

 ハーグナウアーさんとともに、窓の外、街に覆いかぶさる光のドームを眺める。

 透明な膜の表面に雪の結晶に似た幾何学模様が広がっている。街の人々から『スノードーム』と呼ばれている、とんでもなく高度な魔法だ。今発覚したが、正式名称を天候調節術式。悪天候の日にはそれが薄く光って雨も雪も抑えられる。ロストテクノロジーと呼ばれる技術で編み上げられたが、この街の天候を調節しているのだ。

 おかげでこの街は極端に寒くなることも暑くなることもない。街の外は大吹雪なのに中では雪がほんのり積もる程度で、観光客が半袖で闊歩している、なんてことも間々ある。この街ではそれが一般的な光景なのだ。

 しかもこの美しい図形たちは空だけにとどまらない。道という道にも同様の柄が敷き詰められ、冬場になると発熱する。そのためこの街の住人は路面凍結アイスバーンを知らない。

 市民の中には「邪悪なドラゴンに頼るとは何事だ」と厳しい意見を述べる者もいる。しかしこの巨大な術式は、街の商業の発展を強力に下支えし、そのうえ観光資源としても大いに街に貢献しているのが現状だ。そこまでおんぶにだっこしてもらいながら文句を言うとは、それこそ何事だ。

 ほれ見ろ、今も観光客は『スノードーム』を堪能している。

 雨や落雷が透明な球体を通過すると、雪のような柄が淡く発光する。魔力の光だ。白い線が空に描く幻想的な模様は、鈍色の曇天を美しく照らす。世界中どこを探してもここ以外ではお目にかかれない景色だ。

 近年はSNSの普及が拍車をかけ、もてはやされることも多くなった。フォトジェニックだとかなんとかで物好きは雨や雪の中、空にカメラを向ける。道路の模様はカワイイからと女の子たちがツーショットセルフィーを撮りまくる始末。おとぎ話の世界に迷い込んだ気分になれる、という言い分は分からなくもない。が、雨が降っているときは傘くらいさして、道路に寝るのはやめればよいと思う。

「観光客は相変わらずカオスですね」

「いえ、そうでもないですよ。以前観光客向けのガイドブックを読んだとき、『フォトジェニックの狙い目』という特集記事が組まれていました。思いのほか術式の解釈がまともで驚きましたよ」

「とはいえ、カメラは水没しそうですし、道路に寝たら服も汚れそうで――」

 そのとき彼がコーヒーカップを勢いよくテーブルに置く。その拍子に一滴、二滴エスプレッソが零れるが、彼はそんなもの気にしない。私の方へ身を乗り出して、早口に捲し立てる。

「それが汚れないんですよ。ガイドブックにそう書いてありましたから観光客は平気で道路に寝転ぶわけです。そして、情報の出所が非常に気になるところですが、ガイドブックの内容は真実です。天候調節術式――より正確に言えば術式群ですが、あれは魔法陣のあらゆる劣化を防ぐため、状態固定の術式を含みます。これがまた高等な術式でして。アルマスはこれを独力で組み上げたわけですから、彼は史上最高の魔術師です」

 彼は嬉々として『スノードーム』の仕組みを解説しはじめた。心なしかいつもより生き生きとしている。時折アルマス賛美を挟むあたり、よっぽどアルマスのことを自慢したいのだろう。そのせいで余計彼のマシンガントークは止まらない。

 これは、地雷を踏んだ。

「ハーグナウアーさーん、もうそろそろいいですかー?」

「――そこで一体アルマスがどのような工夫を凝らしたか。アルマスは効果範囲の計算に要するリソースを最小限に抑えるために、範囲指定を術式内で算出するのではなく、任意の定数項にしたんです。この任意の定数項というのが、アルマスがまた別の独立した術式を使って割り出しているものなんですが、道路の変形にも対応するため幾何特性」

 埒が明かないので、私は彼の肩を押して着席させる。そしてきっぱりと断りを入れた。

「申し訳ないんですが、長くなりそうなので割愛していいですか」

「へ、割愛するんですか……?」

 私がその言葉に同意すると、彼は急にしおらしくなる。そして最後の一言を付け足した。

「……とにかく、アルマスは術式の管理者です。この土砂降りですと、緊急メンテナンスでもはじめているのではないでしょうか」

「分かりました。ではしばらくハーグナウアーさんとお話しますね。お話しますからね? いいですか?」

「ええ。努力します」

 会話は努力することなのだろうか。私が念を押すと、彼はナッツたっぷりのチョコレートケーキを大きく切り分けながら素っ気なく返す。最初に会った時の紳士な彼はどこへ行ったのやら。リラックスしているのならそれは嬉しいことだが、それで会話が成立しなくなるのは厄介だ。

 アルマス・ヴァルコイネン関係の話題なら食いつくだろうか。

「ところで、お聞きしていいですか。アルマスさんと知り合っ――」

 その時店のドアが涼しい金属音を鳴らす。

 息を荒げてカフェに飛び込んできたのは銀髪の青年だ。少し長めの前髪の先から雫を垂らしている。水を含んで重い光沢を見せる黒シャツは、華奢な輪郭を際立たせる。

 カフェの店員は入り口すぐのところに立つ青年に、タオルを手渡そうとした。しかし青年は軽く手を振って彼女の親切心に断りを入れる。店員は何か言いかけるが、青年は彼女に優しい視線を送って指を弾いた。

 その瞬間、彼の服や髪から水滴が浮き上がる。雨粒は光となって消えた。

「すまん、遅れた」

 私たちに謝罪するのは、古の邪悪なドラゴン、アルマス・ヴァルコイネンその人である。

 相変わらず謝罪の字面は男らしいが、仕草が丁寧なので中性的な印象を受ける。すっかり乾いたシャツの襟を直して、彼は空いていた窓べりのソファ席に座った。私とハーグナウアーさん、そして彼で丸いテーブルをちょうど三等分することになる。彼は近づいてきた店員を呼び止めて手早く注文を伝えた。

「遅いですよ。ハーグナウアーさんとお話するの大変なんですから、察して早く来てください」

「え、俺、いきなり呼ばれた割には早くなかったか? まあロランと長いこと二人きりにしたのは申し訳ないが……」

 小動物じみた困惑を見せ、アルマスさんは私の言葉に真面目腐った反応を返す。

 そして彼は抜けたことろがあるのでハーグナウアーさんへの本音がだだ漏れだ。ハーグナウアーさんは無表情でアルマスさんに「僕の扱い雑過ぎませんか」と申告する。自分が口を滑らせたことに気づいたアルマスさんは大慌てで弁解しはじめた。

「ごめん! そういうつもりで言ったんじゃないんだ。ロランはちょっと人見知りなところあるし、僕のせいで酷なことさせてしまったかなと思って……。安心して! 僕はちゃんとロランのこと好きだから」

 普段とはかけ離れた口調で、わたわたと手を振りながら言う。これがアルマスさんのありのままなのだろうか。いつもより更におっとりした印象を受ける。

 その言葉をにこりともせずに聞いていたハーグナウアーさんは、最後にほんの少しだけ口角を上げる。そしてエスプレッソコーヒーを一口飲み込むと、のっぺりした口調で忠告した。

「アルマス、仮面をつけ忘れていますよ」

 アルマスさんは小さく驚きの声を上げ、びくりと肩を持ち上げた。面白いので私も便乗する。

「それと、『好き』って軽々しく言わない方がいいと思いますよ。恋愛感情があるかのように聞こえます」

 アルマスさんはさっきよりも大きく吃驚きっきょうして、両手で口を押える。なんだこのコミカルで可愛い生物は。

 数秒沈黙するとようやく落ち着いてきたのか、口元にやっていた手を移動させて頭を抱える。

「やってしまった……」

「どうせいつものことでしょう」

 どうやらいつものことらしい。知り合ってから何年経っているのか知らないが、ハーグナウアーさんがそう言うのだからずっとこんな具合なのだろう。堕竜と呼ばれ畏れられているが、蓋を開ければただのドジっ子だ。

「イーリスさん。あなたの言う通り、僕が見てきた七百年の間アルマスはずっとドジっ子です。きっとそれ以前もドジっ子だったでしょう」

 ハーグナウアーさんが瞳を青紫色に光らせて私の心の声に返事をする。また魔法を使っているようだ。気持ち悪いが、きっとそれも彼の仕事の内だろう。

「理解が早くて助かります」

「……なあ、お前ら何の話をしているんだ?」

 店員から注文の品を受け取ったアルマスさんは、不思議そうに首を傾げる。私は内心聞かれていなくて良かったと安堵した。

「別に。それよりもアルマスさんが遅れた理由について教えてくださいよ。天候調節術式とかいうやつの不調のせいじゃないかって、ハーグナウアーさんとお話してたんですよ」

 アルマスさんは私の問いかけに横座りになって窓の外を見る。その横顔はどこか煩わしそうに思えた。

 磨き込まれたガラスの向こう側では未だ滝のような雨が降り注いでいる。もう観光客以外は見当たらない。傘を差している人も見受けられない。きっと軒先や店の中に避難し終えたのだ。

 だがこの街の住民の用意が悪いというわけではない。誰だって、快晴で穏やかな陽気、安定した天気と予報されたら雨具なんて持ち歩かないだろう。かさばるだけだ。

「ああ。遅れてしまったのは本当に申し訳ない。――今ここで降っている雨は、術式が設けている水槽みたいなものからオーヴァーフローした分でな。本来なら俺だってびしょ濡れにならずにここまで辿り着けるはずだったんだが……」

「術式の実行中に、エラーが起きたんですか?」

 アルマスさんはこっちに向き直り溜息を吐く。彼は物憂げな表情で頬杖をついて、私の問いに答えた。

「まあ、ある意味ではエラーだな。だが、原因は術式内部にはなかった。単純に、上空から術式めがけて降ってくる雨の量が異常なんだ」

「もしかして最近雷雨が多いのも、突然雹が降ってきたり雪が積もったりするのも、異常気象のせい?」

 アルマスさんは頷く。カップケーキに乗ったブラックチェリーを皿の上に降ろし、スポンジをフォークで切り崩す。

「その通りだ。あの術式は、まず雨や雪を受け止める役割があってな。キャパ的に観測史上最高の雨量でも三十分は余裕で貯められるように作ってあるんだ。で、指定量を超えた分を水路に流したり、降り始めから二、三十分経ったころから雨を放出したりと調節を行う。だが今日はアラートが鳴ってな」

「キャパシティオーヴァー?」

「あたり。水量計の値も予想水量も尋常じゃなかった。それでオーヴァーフローの警告が出たんだ。満水まで八分あるかないかって具合でな。いつもなら貯水するんだが、緊急放水しなきゃならなかった」

 アルマスさんは湯気の立つカフェオレに砂糖を飽和ぎりぎりまで溶かす。ちょっとカフェオレが可哀想だ。彼はカフェオレ風味の砂糖を平然と飲んだ。私が顔を引き攣らせていると、ハーグナウアーさんが疑問を呈する。

「しかし、あの術式には緊急放水を開始する水量と予想時刻の表示がありますよね。なのに何故雨に降られたんですか?」

 オールドファッションドーナツを咥えたアルマスさんは眉間に皺を寄せた。

「アラートが鳴ったから急いでキャパを増強したんだ。それで緊急放水の予想時刻が伸びたんで、俺は安心してこっちに来た。そしたらこれだ。帰ったらまた術式いじらないとだよ」

「うわぁ、大変そう……」

「最近は天気がおかしなことになる度に術式を改良しているのに、全然追っつかないんだよ。何? 俺を忙殺する気なの?」

「お疲れ様です。恩恵に与っている一市民として感謝します」

 怒りに任せてもしゃもしゃとドーナツを食べるアルマスさんに、私は謝意を述べる。彼は何でもないといった風に手を振ると別の話を切り出した。

「――ところで、何で俺は呼ばれたんだ?」

 連絡したのはハーグナウアーさんなので、彼はそちらへ目線を向ける。しかし赤髪の御仁は視線を逸らして顎で私を指した。

「そちらへどうぞ」

「ああ、はい。私から」

 私が小さく手を挙げると二人の目がこちらを向く。アルマスさんは食事する手を止めて私の言葉を待った。一方ハーグナウアーさんはコーヒーカップに唇をつけて余裕の笑みを浮かべている。だが微笑んでいるのは口周りだけだしカップも全く傾いていない。私は物騒な方の爺さんを意識の隅へ追いやってアルマスさんに事情を話した。

「さっきハーグナウアーさんと偶然遭遇したんですけど、アルマスさんも今日は休日だとお聞きしたので。お伝えしたいことがあったから電話してもらいました」

「そうか。……良かった。またロランが女性をナンパしているのかと――」

「平時にそんなことしませんよ」

 アルマスさんがぽろりと漏らすと、コーヒーカップを口につけたままハーグナウアーさんが文句を言う。というか、平時じゃなければナンパするのだろうか。私は赤髪の爺さんの底知れない笑みに戦慄する。

「ナンパはされていないですね。それで……、ものすごく私事なんですけど、聞いていただけますか?」

「もちろんいいぞ。聞かない理由はない」

 アルマスさんは包容力たっぷりに頷く。

 私はそんな彼に対し罪悪感を抱く。

 今からする告白と問いは、必ず彼の心の傷に触れる。だが私が彼に報いると、そのために真実を見つけると決めた時点でこれは確定していた。私は彼に問わなくてはならない。

 彼が本当に知りたいと願う事実が何なのかを。

「まずはご報告します。私、『スズランの手記』の写本を読ませてもらえることになりました。……かなり偶然によるところが大きいんですけど、なんとかここまで来れました」

 私が手記の名を出すと、彼は表情に影を落とす。

 彼の実姉が書いた、彼にまつわる事件を綴った手帳『スズランの手記』。

 事件から二千年が経った今も、それは古い御伽話として語り継がれている。世界中で訳され愛されている英雄譚だ。そして特異なことに記されていることすべてが史実であり、登場人物たる「邪悪な黒いドラゴン」も実存し今を生きている。教会がドラゴンを排斥するための一手段でもある。だからアルマス・ヴァルコイネン以外のすべての人間にとっては人類平和の象徴となり、アルマス・ヴァルコイネンにとってはあらゆる悲劇の元凶なのだ。

 彼は私に怒ってもいいと思う。私は彼が苦しめられているのを知っていて、それでも『スズランの手記』の話をしたのだ。

 しかし彼は悲しそうに目を伏せながらも、穏やかな言葉を絞り出す。

「偶然なんて言うなよ。イーリスが自分で辿り着いたんだろ? 行動したからこそイーリスは目標に一歩近づいたんだ。その……手記を、…………『スズランの手記』を自分の目で確かめたかったんなら、それほど素晴らしいことはない」

 アルマス・ヴァルコイネンは本当に優しい人なのだ。彼は手記の名を口に出すことを躊躇いながらも、私を精一杯祝福しようとしてくれる。

 ああ、こんな良い人に追い打ちをかけることになるのか。

 やはり彼を傷つけるのは憚られる。だが、もし今私が彼に傷を与えることで、今までの沢山の傷が癒える可能性があるなら。

「ありがとうございます。それと……あわせて尋ねたいことがあるんです」

「……言ってみろ」

 彼は私の顔を見て神妙な面持ちになる。私はゆっくりと言葉を紡いだ。

「『スズランの手記』を読んだことはありますか? 教会はあなたから手記を守り続けていると主張しています。もしかするとそれは嘘かもしれませんが、訳本でも、写本でも過去に――」

「――あるわけないだろ。……読んだことなんてない。…………読めるわけない。気づいたら世界中どこへ行っても人から石を投げられるような状況になっているし、その人たちは皆「スズラン」って口にするんだ。それはどう考えたって、つまり、「キエロ」って名前を訳したものじゃないか。姉さんがどう書いたかは知らないけど、内容は何となく予想はつく。あれを読む勇気なんてないよ……」

 それは悲痛な叫びだ。だがその小さな震え声は環境音に紛れていく。

「なら、アルマスさんが自分で読みたいと思えるようになるまで、読まなくていいと思います」

「やっぱりあの手記には――」

 彼の口から弱気な言葉が零れる。私はそれを遮った。

「だからまずは、アルマスさんが本当に知りたいことを教えてください。私が代わりに調べ、解き明かして、アルマスさんが知りたいと望んだときに――伝えます」

 彼は顔を上げる。きっと彼の頭の中には様々な出来事が渦巻いているのだろう。過去の記憶だけじゃない。私に対する疑念だってゼロではないはずだ。それでも彼は少しずつ思いを吐露してくれた。

「……イーリスだって踏み出したんだ。俺だって――僕だってもうそろそろ、一歩くらいは進みたい。僕は……、姉さんが本当に僕のことを嫌っていたのか知りたい。「大切な家族だ」って、あの言葉が本物だったのか知りたいんだ……。これだけ散々に叩かれて、それでも姉さんが僕を大事に想ってくれていたんじゃないかなんて馬鹿な考えだと思う。それに僕がドラゴンになったことが姉さんへの裏切りなんだってことも分かっている。でも、それでも……今まで見ないふりをしてきたけれど、やっぱり僕は姉さんの真意が知りたい……!」

 長らく立ち止まっていた彼の、おそらく最初の一歩。私はこの小さくてひどく重い一歩を更なる一歩に繋げるのだ。

「アルマスさん。待っていてくださいね。私があなたに伝えてみせます」

 淡く希望の滲む瞳で、彼は頷いた。


 ――しかしその瞬間、店内の灯りが消えた。気のせいか窓の外の雨量も増しているように思える。でもBGMやIH調理器はどうも平然としているようだ。洒落たジャズは消えない。妙齢の男性店員も、一瞬戸惑いを見せはしたが湯沸かしを続行する。

「……あれ、魔素まそストップしました? ブレーカー落ちたのかな。電気の方は平気っぽいですけど……」

 折角いい雰囲気だったのにぶち壊しだ。私が不満たらたらでアルマスさんに視線を戻すと、泣きそうになっていたアルマスさんは何故か蒼褪めていた。

「アルマス。どうやら研究室の混合動力源サーバーが落ちたみたいなんですが」

 私たちのやり取りをコーヒー片手に傍観していたハーグナウアーさんは、短く振動した携帯端末を操作しながらアルマスさんに告げる。

「嘘だよね。嘘って言って」

「嘘、ではありません。魔源ユニット内部の魔力がなくなりました。電源ユニットは生きているので保守装置やセンサは動いていますが」

「うん、うん」

「ちなみに、センサがとらえた魔力は減衰なしで突然にゼロ、です」

 何の話かあまり分からないが、研究室は大学にあるはずだ。だとすればここからはだいぶ距離がある。なのにそこでも魔素の供給が止まっているらしい。

「それって街の大部分に魔素が来てないってことですか?」

「そうですね。一つ訂正するなら、「大部分」ではなく「全域」ですが」

 ハーグナウアーさんが静かに息を吐き出す。そこへ被せるように、携帯端末の着信音が二種類、けたたましく持ち主を呼びはじめた。音は全部アルマスさんの方向から聞こえる。

「すごい鳴ってますけど。出ないんですか?」

「さあ? それと、少なくともあともう二台が鳴動するはずですよ」

 私がハーグナウアーさんとひそひそ話をしていると、予告通り二種類の着信音が追加される。不協和音だらけの四重奏だ。

 耐えかねたアルマスさんは発狂した。

「――っあああああ! もう! 電話に出るの僕一人なんだけど⁉」

「元を辿ればアルマスがミスをしたせいでしょう」

「そうだけど! そうだけども! もうちょっとしんみりさせてくれたっていいじゃないか!」

 アルマスさんは先程とはまた別種の涙を浮かべながら自分の荷物を探る。一台を残して他の端末で応答拒否の操作をした。そしてまだベルの音を鳴らし続けている端末を耳に当てて喋りだす。傍から聞いているとひどく腰が低いように感じるのだが、一体誰と電話しているのだろう。ハーグナウアーさん曰く、どうやら大規模な魔素の供給ストップはアルマスさんのせいらしい。恐らくそれが理由で電話がかかってきたのだろう。だがそれ以外のことは一般人にはまるで見当がつかない。

「なんでアルマスさんのせいなんですか?」

 私が足を組んでふんぞり返っているハーグナウアーさんへ視線を向けると、彼はラズベリーケーキを飲み込んで答える。

「この街には防衛システムが存在するんですよ。その術式は、魔法による攻撃を受けた際にそのすべてを打ち消します。ある一定の条件下にある魔素に干渉して消滅させるんです。お分かりでしょうが、管理者はアルマスですよ」

「うぇぇ、まさか街全域で防衛システムが作動? 戦争でも始まるんですか?」

「いえまさか。どうせ天候調節術式との競合でしょう。天候調節術式のキャパシティを増強したとなれば、その分だけ防衛システムの定める魔素の許容値を上げなければなりません。アルマスはそれを怠ったんでしょう」

 ハーグナウアーさんが少々嫌味っぽく言うと、アルマスさんは耳と肩で携帯端末を挟んだ状態で眉を寄せる。

「そうですね。おっしゃる通りですよ、教授」

 アルマスさんは不機嫌そうに口調を強める。そして慌ただしく席を立つと、ハーグナウアーさんにカードを投げて渡した。

「え、ちょっと、カード黒いんですけど……⁉」

「ロラン、それで払っとけ! あとで持ってこい!」

「わかりました」

 アルマスさんは碌に返事も聞かずに店を出る。土砂降りの中を傘もささず全速力で走って消えた。その後ろ姿を追っていたハーグナウアーさんは、いやに嬉しそうな表情を作って私に同意を求める。

「ほら、アルマスはドジっ子でしょう?」

 私は呆れながらも首を縦に振った。

 その言葉に異論はない。

 アルマス・ヴァルコイネンは「恐ろしい邪悪なドラゴン」ではないのだ。


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