#2 縷々 Ⅲ
私は一人きりの帰路を辿る。
春にしては肌寒い風が制服のブレザーをなびかせた。脇道へと吹き込む突風に背中を押されて、私は右折する。
通学路の途中、私たちの通う学校の運営母体となる教会がある。黄色の塔に緑の屋根を乗せたその建物は、遥か二千年前からこの街に在り続けた。曰く保存魔法が掛かっているとのことで、石の表面はまるで朽ちていない。私は白樺の木々の間をすり抜けて、大聖堂へと足を踏み入れた。
彼は――アルマス・ヴァルコイネンは、それをどう思っているのだろう。
かつて彼を排斥し、今なお彼を蔑視し続けるエルンスト派、ルミサタマ
私が彼だったらこんな教会などとっくの昔に破壊しているだろうし、もし破壊できなかったとして、いつまで経ってもガタ一つ出ない教会には嫌気がさすだろう。
もちろん私にとってこの教会は人生の大半であり、母との大切な絆だ。劣化などしてほしくないし、ほぼすべての教義は偽りなく真であるとも思う。
そんな私でさえ、かの例外には疑いを抱かざるを得ない。
ノウム教会は罪人であっても、信じれば救われると説く派閥だ。そして堕ちたドラゴンは絶対の悪だとも説く。
ドラゴンは元を辿れば人間だ。もしドラゴンに成ることや堕ちることが罪だというのなら、其れ即ち罪人であるということ。
では何故アルマス・ヴァルコイネンは救われない?
『スズランの手記』には――もう二千年前の話だが、彼が敬虔な信徒であったと記されている。退治される間際まで諦めなかった証拠だ。彼は救いを信じ、真摯であり続けた。
それなのに、ドラゴンに限っては罪人も救われない。あまりに不寛容な思想だ。
「お嬢様。ポルクネン先生に御用ですか? 僕が呼んできましょうか」
大聖堂に入ってすぐ、副牧師の彼が尋ねる。彼はいつも、観光客への対応をしながら本を読んでいる。その反応速度は洗練されていて、常に手元に視線を落としているというのに訪問者が一定のラインに達したら声を掛けるのだ。今日は一般開放をしていないようで、読了後振り分けられる本の山の方が高い。
「いい。自分で行く。ママ――監督はどこ?」
「洗礼式の準備のため礼拝堂にいらっしゃいます」
私は副牧師の彼に軽く礼を言って通り過ぎる。彼も私の扱いには慣れているので深くは踏み込まず、読書に戻った。
すぐにツタのような柄が描かれたガラス戸に行き当たる。私はドアを勢いよく押し開けた。礼拝堂の入口の上に鎮座するチャーチオルガンの下を通過する。赤い絨毯の上、白い大理石の柱が並ぶその間を真っすぐに抜けると、視界は明るく、広くなるのだ。
二つ続けてシャンデリアをくぐると、礼拝堂の備品を確認している母が振り返る。母は白髪交じりの金髪を結いなおし、スーツの皺を軽く直して私に歩み寄った。
「イーリス。どうしたのですか。怖い顔をして」
母は私とそっくりの青い瞳で見つめてくる。丸い声で私を和ませるように笑った。私はそれを敢えて無視する。
「先生。今日はお話があって来ました」
先生と呼ばれたことに母は目を見開いた。そしてすぐに監督――この教会の牧師を統括する者の顔になる。優しさの中に厳格さが見え隠れするしぐさは、家で母がするものではない。
母は何列にも並んだベンチを指し、座るように促す。私は母の方を向いて斜めに腰掛けた。母は膝を突き合わせるように対称に座る。
「何のお話ですか。私に教えてください」
「先生は既に知っていると思いますが、私は
「あなたの口から聞けて何よりです。イーリスは
母はゆっくりと瞼を閉じ、肯定するように私の手を取る。
「それで――、イーリスは懺悔するのですか?」
「……いえ」
私は不意を突かれる。
母は、ドラゴンが悪だと説くのが日課だ。幼い頃から繰り返し聞かされてきた。もちろんそれは家庭が仕事の延長上にあったから起きたことである。母にとって私と父は草稿を編むときの協力者だったからだ。大小にかかわらず、集会に呼ばれればそこでドラゴンを蔑視するのが母の仕事である。ドラゴンを――特に悪意で体を黒く染めた者を否定することこそが、ルミサタマ大聖堂の監督として母に求められていることなのだ。
だから、母は私の行いを罪だと断定すると思った。しかし実際の母のセリフは、私を責め立てたりしない。
瞼を上げ、母は真っすぐに私を見つめる。
「改めぬ理由を聞いても?」
私は深呼吸をしたのち首肯する。
「私は、彼が――アルマス・ヴァルコイネンが許されるべきだと思うからです」
「それは――至極まっとうな見解ですよ」
母は笑みを崩さず相槌を打った。何故か今日に限って母は認めてくれる。世界中の信徒に「アルマス・ヴァルコイネンは悪だ」と発信する母が、だ。
「先生。それは母としての言葉ですか。それとも――」
「母としての言葉です。イーリスを失わずに済んだのは彼の者のお蔭です。対面し言葉を交わした時も、邪悪な者には思えなかった」
でも、監督としては彼を否定する。そう言いたいのだろう。
「では――」
「そして、ルミサタマ大聖堂の監督としての言葉でもあります」
母は私の予想を盛大に覆す。
なら何故、彼を排斥するような思想を広める?
私の中で一気に疑問が湧き上がる。エレノアも、他の同級生も、大聖堂の受付をやっていた彼だって、皆母の言葉をドラゴンにまつわる真理を信じている。かつての私だってそうだ。母の言葉を鵜呑みにしていなければ、私はアルマス・ヴァルコイネンの住む森で遭難していない。
「じゃあ、なんであんな説経ばかり……。先生は特にこの問題において絶大な影響力を持っているんですよ! 先生がアルマス・ヴァルコイネンに対する追及を弱めれば、その分だけ彼を取り巻く環境は優しくなる!」
「そうですね。そうした方が彼にとって楽でしょう」
「だったら――」
「――ですが決して幸せではない。それでは彼は幸せになれないのです」
母の言葉は礼拝堂に響き渡る。凛然とした音の粒だ。断固として譲れない一線が、そこに存在している。
きっと踏み込むべきでないのだ。アルマス・ヴァルコイネンやローレント・D・ハーグナウアーと会って話をして、薄々感付いてはいた。『大回帰』という名の戦争や『スズランの手記』にまつわる過去は、部外者が容易に立ち入っていい領域にない。
だからといって譲れるだろうか。譲っていいことなのだろうか。
どんなに反対されようが、邪魔をされようが、語りたくないと言われたとしても――見過ごせない。アルマス・ヴァルコイネンの涙は、幼い頃に見た安堵の微笑みは、打ち捨てられていいものじゃない。彼は救われる資格がある。許されていいはずなのだ。
「今の方がずっと不幸でしょう? このままでアルマス・ヴァルコイネンが幸せになれると思うんですか?」
「いいえ。ですが安泰ではある。もし彼の者が許されてしまったら、更なる不幸に堕ちることになるのですから」
「答えてください! 何故そこまで頑なに彼を否定するんですか⁉」
母は宥めるように私の手を強く握った。柔らかな声で私の名を呼ぶ。
「イーリス。私の顔を見て。今から大切なことを話します」
私は昂った心臓を落ち着けて、母と目を合わせる。
「イーリスは、何か知りたいことがあったとして、それが秘密にされていることだったらどうしますか?」
「片っ端から秘密を知っていそうな人をあたります」
母は私の回答に苦笑した。なんだか呆れられているようにも思える。いや、分かるぞ。確実に呆れられているのだ。
「イーリスは強請ってでも聞きだしてしまいそうですね」
「ママったらやめてよ!」
母は立ち上がった私に「先生でしょ?」とおどける。やはり母には敵わないものだ。私は手のひらで頬を冷ましながら、母に真意を問う。
「もう……。で、先生。何が言いたくてそんな回りくどいことから切り出したんですか?」
「最終的にたどり着くのは、秘密を知るための方法ですよ」
母はベンチの上で私と距離を詰め、腿が当たるほど密着して座る。私の肩を抱き幼い子供に言い聞かせるように語りだした。
「そもそも、何でイーリスは秘密を教えてもらえないのですか。秘匿することは非常に労力を要します。それをわざわざ行う理由とは何でしょうか」
「知られちゃいけないから、でしょう?」
「そうですよ。イーリスの言う通り。知られてはいけないから隠すのです」
それくらいは幼児じゃないんだから分かる。だがそれが何だというのだ。頬を膨らませた私の頭を撫で、母は続ける。
「では、何故イーリスに知られてはいけないんでしょうか?」
「不都合があるんでしょう?」
私が言葉を投げ出すと、母はしっかり受け止めて私の顔を横から覗き込む。
「そう。不都合、あるいは不都合が起こる可能性があるのです。でなければ私だってイーリスに内緒にしません。逆に、不都合があるからにはどんなに頼まれても教えられません」
「先生。それじゃあ私は秘密に触れられないじゃないですか」
「まあまあ、急がないで」
母は口に手を当てて――だいぶ面白がっている。細いヒールでつま先を持ち上げながら、小さく笑い声を漏らした。
「イーリス。あなたが知りたい秘密がここにあります。アルマス・ヴァルコイネンが何故虐げられるのか知りたいのですよね。ですが、それをあなたに教えることはできません。代々受け継がれてきた大切な決まりなのです。――ところで、その秘密の『不都合の範囲』って、私以外の全員でしょうか」
――理解した。つまりそういうことだ。
この秘密は、ルミサタマ大聖堂の監督として母が守っているものだ。もし母以外の全員が知ってはいけない秘密なら次代の監督へは引き継がれない。ということは、母に秘密が伝わるためには、母が誰かに秘密を伝えることができるという条件が不可欠。そうでなければこの秘密は継承されない。原初の秘密を持つ一代ですべてが途切れることになる。
「……『不都合の範囲』から抜け出すことは可能」
私が無我夢中で呟くと、母は心底嬉しそうに私を抱きしめた。そしてゆっくりと手を放し、座り直す。
「そう。この秘密は、あなたがある立場に就くことで知ることができます」
それは暗に、私がルミサタマ大聖堂の監督に就くことを許しているように聞こえる。私自身は監督になり根底からひっくり返してやろうと考えてはいたが、一方で易々と許されはしないだろうという懸念もあった。私は淡い希望を抱いて問う。
「私がルミサタマ大聖堂の監督になればいいということですか?」
「ええ。……道は険しいですが。この大聖堂の顔になりたい者は、老若男女問わず大勢いますからね。それでも秘密を知りたいなら監督に、それもルミサタマ大聖堂の監督にならなくてはなりません」
「うぅ……」
改めてその厳しさを指摘されると、自分なんかに達成できるものかと不安になる。
そんな私を見て、母はよく父にやるように眉間の皺を指で押し広げた。
「とはいえ、イーリスが現状頭一つ抜けていますから、そのまま頑張れば可能性は高いですよ」
「……はぁ?」
「なんですか、その間抜けなお顔は。先生に見せるものではありませんよ?」
どういうことだろう。頭一つ抜けているとは、何を指す言葉だ? 学校内での成績は首位を取ったり取らなかったりで奮闘しているが、監督になりたい人間が私のいる学年のみから選出されるわけではない。母が退くことがあったとして、その時にエルンスト派の牧師だった人間が選考対象だ。その数は膨大で、器用な人間も少なくない。だから私に群を抜く何かなど、あるようには思えない。
「頭一つ抜けているって、つまりどういう……?」
「イーリスは自力で気づいたじゃないですか。彼の者の本質に」
母はにこにこしながら立ち上がった。白いベンチの森の中、赤い絨毯の道を歩く。私は母の言葉を待った。
「ここの監督になる上で最も大事なのは、事実を直視し事実のままに受け取ること。イーリスの目はお人好しで繊細な男の子がそのままの姿で見える、類まれな目です。――私に似て何でも自分で確かめたがるものね。その様子だと彼の者についても自分の目で確かめてきたのでしょう?」
「はい。会ってお礼を言ってきました」
「ならよろしい。監督としても、母としても言うことはありません」
母は私の方を振り返る。豊かなポニーテールを躍らせて表情に花を咲かせた。
「もし監督の座を本気で目指すのなら私の書斎に通いなさい。『スズランの手記』の写本を読ませてあげましょう。――訳本ではないので、とっても難しいですが」
私は強く首肯する。
歪みなき真実を、私が見つける。
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