#1 泡沫の夢 Ⅱ

 記録とは、何処までも絡みついてくる呪いのようなものだ。

 口伝とは比べ物にならないほど永く、詳細に、言葉を残す。そしてもし機会が与えられれば、記された情報はその精細さを欠くことなく拡散していく。


 故に『スズランの手記』と呼ばれるそれは、呪いなのだ。


『スズランの手記』は英雄譚がつづられた手帳だそうだ。邪悪なドラゴンの思惑を英雄たちが看破し、最後にはドラゴンを退けるハッピーエンドが描かれているという。そしてそれらのエピソードは全てが史実であり、二千年を経た今でも語り継がれている。

 黒竜の終末を告げる物語。それは温かく幸せな結末だった。


 ――僕以外のすべての人間にとっては。


 そうして残酷な世界が出来上がった。退治されたドラゴンは未だ生き続けている。なのに遥か昔に命を終えた彼女が今なおそのドラゴンを呪い続けているのだ。


 気づいたら僕はソファの上で失神していて、いつの間にか深夜のドキュメンタリー番組は朝のニュースになっていた。悪夢の内容はいくらかぼやけていて、最悪の寝覚めからは幾分か遠い。

「……姉さん。僕はそんなに悪いことをしましたか?」 

 独り言に答えてくれる人は誰もいない。

 僕は町を襲ったドラゴンを退けるために自らもドラゴンになった。僕は傲慢な愛を神に告白し、それを面白がった神は僕に力と永劫の命を授けた。

 僕は無我夢中で町の人々を守った。あの晩に亡くなった人が片手で収まる程の人数で済んだのは僕が命を賭したからだ。そこに僕のおごりや勘違いはないはずだ。

 なのに何故、僕は迫害されたのだろう。

 いくら問いかけても、答えは返ってくるはずもない。答えられる人は二千年も前に居なくなってしまった。

 この夢には多少の続きが存在する。何をきっかけに追憶が始まるのかは分からないが、いつだって邪悪とののしられるほどの非は自分に見出せない。僕はいつまで経っても風化しない記憶を、ほとんど無意識に辿った。





   ***


 この町の危機を告げるのは、ひとりのドラゴンの咆哮だった。

 若い男性の声が、短い幾つかの呪文を叫ぶ。それが廃墟の壁に反射して、まるで獣の吠え声のように僕を包む。怒号のような呪文は地面の揺れと同時に僕のもとへ届く。

 建物の隙間から差し込む光が、迫りくる炎で緋色に染まる。空間はいつもの透き通るような穏やかさからは色相をずらして、町は禍々しい色に包まれていた。

 知らされていない。

 誰もが叫ぶが、過ぎたことだった。逃げる間もなく町は燃やされ、人々は倒れ伏す。軍の助けもなく、異国の言葉で死を宣告され、ただただ町は壊されていった。そして今も破壊は進んでいて、行動を起こさなければ死者が増えることは目に見えていた。

 僕は鉄骨が剥き出しになったブロックの上に立ち尽くし、この町を侵略するドラゴンを眺めた。繕いだらけの服が、冷たい風に吹かれ僕を小さく叩く。

 僕らを追うのをやめて町の中心へと向かったドラゴンは、赤い翼を羽ばたかせ高射砲の砲弾を避けていた。合間に魔法を繰り出し、帝国の基地を焼こうとしている。衝撃が僕の立っている場所まで到達するが、恐らく駐留軍は無事なのだろう。大きな空間の歪みが上空に現れて基地や市街地の一部を覆い、そこに当たったドラゴンの攻撃を悉く停止させる。大方、駐留軍のエース――姉さんの大切な人が、必死に食い止めているのだろう。だが攻撃に転じないことや守備範囲を広げないことをみるに、余裕はない。高射砲ではドラゴンを撃ち落とせないようだし、待っていても危機は脱しないだろう。

 無情に近づいてくる刻限の中、二つの選択肢が頭を何度もめぐっては過ぎていく。

 いつ来るのかも分からない、軍の助けを待ち続けるのか。

 僕が命を捧げてドラゴンに成り、あの侵略者と戦うのか。

 もし僕がドラゴンに成るのなら、侵略者を――ドラゴンを殺すため戦うことになる。そうでないのなら姉さんを含め大勢が死ぬかもしれない。ただし、仮に僕が戦うことを選んだとして、それでみんなが救われる保証もない。既に多くの人が重傷を負っている。

 揺らぐことなく心に在るのはひとつだけ。唯一の肉親である姉さんだけは幸せであってほしいという想いだけだ。だがその決断で自分自身が報われないのも怖い。決断の先にあるのは、罪を背負うか、または僕が死ぬかどちらかの道。戦時下で、状況が状況だから責任は問われないだろう。けれど明確な理由があったって相手を殺すのは怖いし、それは紛れもなく罪だ。使命があっても神の認めるところではない。

 正直、従軍もせずにのうのうと暮らしているやつが戦況を知りながら「怖い」だなんて我儘だとは思う。だが理性ではどうしようもない。殺すか殺されるかなんて、いきなり問われたって選べなかった。姉さんを救いたいという想いに身を委ねることがどうしても出来ない。奇跡にすがりたくて仕方がない。

「――僕はどうしたらいい……! どうすべきなんだ……!」

 両手を組んで必死に祈る。姉さんだけはどうか、と。


 その時、混在し矛盾を起こす願望の中で確かに何かが弾けた。

 結局は姉さんが生き残れるなら、僕は何だっていいんじゃないか?祈っているのは自分が死に瀕したこの瞬間でさえ、姉さんの無事だ。そのためには殺すしかないんじゃないか。ドラゴンに成った「誰か」を――。

 一瞬で独善的な害意が燃え上がる。

 代償もなしに願いが叶うなんて単なる絵空事でしかない。祈るなら、望むなら、捧げるしかない。幸せも純潔も心も、命でさえも。

 自分でも吐き気がするようなエゴイズムといささかの躊躇いの間で、「誰か」の命と姉さんの命を天秤にかける。命の重みに客観的な差異はない。ないけれど、僕の中での価値は圧倒的に姉さんの方が上だった。この際信仰などどうでもいい。命は人の目から見たら平等でも何でもないのだ。すべては姉さんのために。姉さんの為なら何もかも無価値と見なせる。敵兵だろうが、自分だろうが――、どうでもいい。誰が苦しもうが、誰に恨み言を言われようが、どうだっていい。犠牲になるのが姉さんでないのなら、それは僕の中では絶対的な正義だ。

 僕の中の僕ではない誰かに突き動かされるようにして、気づけば制止を振り切って道の真ん中で跪いていた。

「……僕は、今まで通り姉さんに笑っていてほしいんです。この手を汚してもいい、死んだって構いません。でも姉さんにだけは無事でいてほしい。だからどうか、この祈りが届くのなら……力をください! ドラゴンを倒し、すべてを元に戻せるだけの力を――!」

 捧げた祈りは爆音に掻き消される。聞こえるのはドラゴンが地を揺らす音や空襲警報だけだ。

 神は何の返答も返さなかった。僕の邪な祈りは受け入れられなかった。僕は己の無力さを嘆き呟く。

「……やっぱり、どうしようも――」

 その時、閃光が激烈な寒さを伴って飛び散った。

 突然目の前で弾けた白い光が、僕を中心に空間を凍らせた。少し遅れて、金属を打ち合わせたような音が何重にも大きく響く。その音の発生源である膨大な魔力の湖は、僕の脳を揺さぶりながら共鳴を繰り返した。足元から噴き出す光の糸が僕の身を削り尽くす様に渦を巻いて――、やがて何かを縁取っていく。なまめかしくうねる透明な線が僕の頬に触れて、続いてすぐに何もない空中に一対の瞳が生まれた。僕は、僕を慈しむ様な虚ろな目に畏怖を感じながらも見据える。

 気づけばそこには、柔らかな曲線の身体が在った。

 触れる身体に一瞬、母に抱擁されたかのように錯覚する。広がる花のような香りに父の顔がよぎる。優しく、柔らかく包まれて幼い日々を思い出しかけ――直ぐに現実に引き戻される。

 温度が無かった。温かくもなく、冷たくもなく、触れているのに全く実感が湧かない。

「よくぞ祈ってくれた。私はあなたのその蛮勇を褒め称えよう」

 ふふ、と口元に手を添えて笑うお方は、紛れもなく神と呼ばれる存在であった。その笑みは母の様かと思えば無邪気な少女のよう。それでいて底知れない時の流れも感じられる。あまりの威厳に僕は深く頭を垂れた。

 その様子を見た女神は、何故だろうか、ぐいと僕の顔を上げさせ立ち上がらせると満足げに微笑んだ。笑うたびに小刻みに身体を揺らし、嬉しそうに僕の周りを浮いて漂っている。方向転換をするたびに、真っ白な裸体をするすると絹のような銀髪が流れ揺蕩たゆたい、鈴の音を響かせた。時折毛先や手が僕を撫でていく。僕は神々しさに震えを隠せずされるがままになっていた。

 そうしてひとしきり僕を観察し終えるとそのお方は、すっと爪先を床に置いた。僕の顔を爛々とした瞳で覗き込んでいる。僕は言葉を失った口を半ば無理矢理に開くと、畏れ多くも懐疑をらした。

「貴方様は……」

「そう改まることはないわ。私はあなたの崇拝する神とは全くの別物。私はただあなたを覗いているだけ。態々畏かしこまる必要はどこにもないの。……何故にとでも言いたげな顔ね? 簡単なことよ」

 おどけたようにカラカラと笑ったかと思うと、今度は一転して鋭い瞳を僕に向けた。僕の目を見つめたまま、背伸びをしながら僕の首に腕を回す。白磁の肌と僕の服とが擦過音を立て、柔らかな胸が触れた。どうにも居た堪れなくなって少し抵抗すると、想像を絶する強い力で抱き込まれる。少々不機嫌そうに頬を膨らませると、そのお方は途端に表情をつややかなものに変える。

 そのお方は耳元で「だって」と言う。そしてあとに続く言葉を小さな声で囁いた。

「アルマスが此処に居るんだもの」

 僕は戦慄する。何故僕なんかを見ていてくださったのだろう。混乱する僕を置いてけぼりにしてそのお方はばっ、と手を離す。

「あまり深く考えることじゃないわ」

 僕の思考を読んだのかそのお方は不満げに小突いてきた。そして小さなかたちの良い唇に指を添えて、何か考えているようだ。

「先のことを考えると呼び名が欲しいのだけれど……生憎と私に名乗れる名は無い。始まりの乙女の名でも騙ろうかしら。イヴと呼んで。これからよろしくね、アルマス」

 そのお方は心底嬉しそうに声を上げてはしゃぐ。そして唐突に笑いを止め、僕に向き直る。

「さて、アルマスが私に願ったのは、ドラゴンを滅ぼす力、そしてすべて元に戻す力、だったわね」

「……ええ」

 上目遣いに僕を見つめながら言う。何か含んだような物言いだ。特に疑問というほどのものを持ったわけではないのだが、ややたじろいでしまう威圧感がある。不穏な笑みを浮かべたそのお方は、僕に裸体を絡ませながら呟いた。

「やっと願ってくれた。やっと……!」

 最初はふふふ、と息を漏らしていたが、やがてそれはおぞましい哄笑に変わっていく。僕の肩に手をかけながら身をよじらせ高笑いをするその姿が、そのお方が如何にこの時を待っていたのかを物語っている。

 ここまできてやっと、僕は愚かなことを願ってしまったのだと少し後悔した。

「あははははははは‼ よく祈ってくれたわ! 私の望みはこれで叶う!」

 そのお方は力強く手を振り上げると、何もない所から壮麗な剣を創り上げた。身の危険を感じて素早く後方に飛ぶもそのお方の奇襲をかわす事は叶わない。

「がぁっ……‼」

 腹部に貫通する刃。急所をやや外しているようだが、判断力を奪うのには十分すぎる痛みと出血量だ。かろうじて動転していないのは、頭の端に町を襲うドラゴンのことがあるからだろう。僕は何とか剣を引き抜こうと柄に手を掛ける。だが、僕を突き抜けて床に刺さった剣はびくともしない。このお方の力が人智を超えたものだからだ。

「――これで永遠にアルマスの傍に居られるわ」

 あの時気付くべきだったのだろう。このお方の言葉は、狂喜は、これに由来していたのだ。

 ただひたすらに、願わなければ良かったと強く後悔の念を抱く。不思議と意識が薄まる様子はなく、僕は自分から流れ落ちた水たまりを傍目に何とかこの状況から逃れようと足掻いた。しかしそのお方は微動だにせず、悠々と語り続ける。

「アルマスは奇跡を願ったの。奇跡、どれほどのものか分かる? それはね、アルマス。神の権能なの。今のあなたには到底起こすことのできない現象だわ。ならば、なるしかないわね?」

「何、に……」

「分かっているでしょうに」

 イヴの白い指が服の上を這う。

「……苦しいけれど、我慢して頂戴」

 途端、散々苛まれ麻痺していたはずの痛覚が、一斉に叫声を上げた。

「くっ、う、あああああああああああああああああっ……⁉」

「ア…………あ……忌……解……!」

 開いてゆく。皮膚が、肋骨が、肺が、僕の全てが、イヴのために開かれてゆく。ひどく冷たい。寒い。凍ってゆく。冷たい。凍える。流れてゆく。去ってゆく。赤い結晶が咲いてゆく。暗い。眩しい。

 イヴの指が、僕の心臓を捕らえる。痛い。苦しい。寒い。僕の中身を蹂躙してゆく。つまみあげて、少し押して、引き摺り出――――。

 唇が温かく濡れる。

 目を開くと、温度も触感もある裸体の乙女が僕に口づけをしていた。

 母がするように優しく抱きしめ、いつの間にか僕の頬に伝っていた涙を拭ってくれる。僕はそのお方に支えられて立ち上がった。

「……アルマス。泣いてないで行ってきなさい」

 イヴが僕の背中をとん、と叩く。

「……はい」

 僕は確かな熱を感じながら、足を一歩踏み出した。


 次の瞬間、そこは空の真っただ中だった。

 だが驚きはない。

 月明かりの中、鈍色の世界の中で冷たい風を切って落ちていくのが何故かとても心地よかった。

 雲を突き破り、視界が開ける。

 炎に包まれた町と、金色のドラゴンが見えた。

 僕は体に力を籠める。

 熱くなった体が幾千幾万の光の糸となって、再構成された。

 編み上げられた肉体は氷のように透明な鱗と純白の羽毛で覆われていた。頭部の角が空気を裂く感覚がある。大気を尾で叩けば笛のような音が響き、景色が回転する。真っ白な尻尾の毛がもつれながら視界の端を舞った。

 翼に密集する銀色の羽の、一つ一つが風を受けて震える。畳んだ細い四肢の間を風が抜ける。

 僕は町の上空から侵略者を眺めた。

 頭上で自分を見ているドラゴンに気づいたのか、侵略者は飛び上がって僕を追う。僕は必死に羽ばたく侵略者を町の外へと誘導し、雪原に降りた。

 僕に続いて金色のドラゴンが降り立つ。彼の周囲の雪は熱で融け、周囲に靄がかかった。

 雪原にやってきた侵略者は、若い男性の声で異国の言葉を呪詛の様に並べ立てる。僕に分かる言葉は少ないが、相応の覚悟があることは十分に伝わる。

「あなたにも、あなたなりの都合があるんでしょう。でも――」

 侵略者は口を開け、口腔に魔力を集中させる。小さな火種が炎となりそして劫火となるまで練り上げると、正面に立つ僕に向けて炎の濁流を吐き出した。

 その炎は舞い落ちる雪を灼いて、雪原を融かして。

 凍る。

「だからといって、僕の姉さんを悲しませるのは許さない」

 世界が白く染まっていく。

 あまりの吹雪に侵略者は焦りはじめる。視界を奪われたからだ。しかし僕にはよく見えている。暴風雪に侵略者は堪えかねたのか、体から炎を発して空へ逃げた。

 侵略者は大きく羽ばたいて速度を上げる。彼が向かう先は建物の密集する地区だ。

「逃がすものか」

 僕は追って飛び立つ。自然は僕の意志に呼応するように姿を変えていった。急速に雷雲が肥大し、凶暴な光をその身に這わせる。

 低く唸る雷鳴に、侵略者は少しばかり空を見上げると高度を下げ始めた。攻撃を受ける前に市街に紛れ込もうという魂胆だろう。既に身体が糸のようにほどけはじめている。人間の姿に戻ろうとしているのだ。もしそれを許してしまったらこちらは後手に回らざるを得ない。僕は逡巡したのち、意を決して雷雲に力を注ぐ。

 瞬間、侵略者に雷が突き刺さった。同時に爆発音に似た音が轟く。侵略者は居住区にほど近いところに雪煙を上げて墜落した。彼はなぎ倒された木々の中から、血を吐いてのろのろと立ち上がる。僕の攻撃で人の姿に戻れなかったのか、侵略者はドラゴンになったままだ。

 僕はそんな満身創痍の侵略者の首に食らいつき、じ伏せる。突き刺さった牙は羽毛を荒らし、その根元に隠れている鱗を砕いた。僕の口の中へ、そして地面へと血が溢れ出る。鉄の香りと漏れ出す魔力の甘い香りが、命が流れ出ていくのに合わせて空間に充満する。

「――! ――‼」

 侵略者は叫びながら炎を出して暴れる。傷口から血が飛び散る。僕は彼の抵抗に吹雪でもって応酬した。

 徐々に侵略者の動きが弱まっていく。流れる血にも勢いがなくなっていく。

「ァ……、ティーノチカ、……ッ、……」

 そのとき、侵略者の体がほどけた。

 牙の隙間から落ちたのは、予想通り軍服の男性だった。襟元が赤く濡れて、染みは広がっていく。

 僕は急いでドラゴンの体をほどく。広がった光の糸は人の姿に収束し、僕は侵略者だった彼を抱える。半開きの赤い瞳は徐々に魔力の光を失い、元の緑に戻って瞳孔が散大する。彼の顔には焼け焦げたような跡が見られ、首元にはいくつも穴が開いて血だらけだった。傷跡に触れようと首に手を伸ばすと、チェーンが当たった。引き上げるとそれはまだ仄かに温かいが、外気に晒されてどんどん熱を失っていく。

 案の定、手繰り寄せたそれはロケットを身に着けるためのチェーンだった。

 僕の口の中が血の味に塗れている。

 理性が戻ってくる。

 何も寒くないのに、内臓が冷えていく。

 僕は怖くなった。ロケットの中身なんて、到底確認できるはずもない。

「……こうするしかなかった。こうするしかなかったんだ。早くしないと、姉さんが、うっ、ぅぁ――」

 これは生きる為だった。動物を狩るときも同じだった。生きる為に命を奪った。

 命を奪わなければ死んでいた。間違いではないはずだ。むしろ間違いにならないために、急がなきゃいけない。泣いている暇はない。まだ僕にはやるべきことがある。動かなきゃいけない。

「ごめんなさい……、ごめんなさい……、ごめんなさい……!」

 僕は彼を抱きかかえて、町に向かって一歩踏み出す。


 一秒後にはさっきまでいた地下室に立っていた。

 木の柱を避け素早く奥へ進む。怪我人を集めた区画に彼を丁重に降ろし、姉さんのもとへ向かった。

「駄目……」

 姉さんは血だらけの僕の様子に体を強張らせ、後退る。姉さんが身をよじると、血が服にじわりと滲んだ。

 僕は氷でナイフと小さなコップを創る。誰もが固唾を飲んで見守る中で、僕はナイフを手首に強く押し当てた。観衆の中から女性や子どもたちの悲鳴が小さく聞こえてくる。

 僕は僕から零れた血を――もはや赤なのか金なのか分からなくなったその血を、コップに満たす。

「飲んで」

「やめて!」

「姉さん、飲んで!」

 僕は少々強引に姉さんの顎を押さえ、血を口に含ませる。そして吐き出されないように鼻と口を塞いだ。姉さんは頑なに飲み込むことを拒否して暴れる。僕の手を剥がそうと必死だ。しかしドラゴンになってしまった僕相手に、満足に抵抗できるはずもない。

 そうこうしているうちに姉さんの傷が閉じ始めた。姉さんが異変に気付いてひときわ激しく絶叫する。僕は傷が完治した頃合いを見計らって姉さんを解放した。

 その瞬間だった。

「いい加減にして……!」

 姉さんの拳が、僕の頬に打ちつけられる。

「……っ」

 痛くない。

 姉さんにじゃれあいで殴られるのはしょっちゅうだったけれど、今回は例を見ないくらい軽い一撃だった。

 きっと何かの間違いだ。

 呆然としていると姉さんが泣き崩れる。

 僕は姉さんを魔法で眠らせ、怪我人の数だけ血の入ったコップを残してその場を立ち去った。


「――っああああ! 消え去れ!」

 町の広場に立って僕が一言叫べば、夜空を煌々と照らしていた炎は雨に降られて瞬く間に消えた。

 いつになく苛立っていた。もう何をやったって姉さんに罵倒されるだけだ。それなのに町を元通りにしてあげようなんて考えている自分に腹が立つ。だがそんな子供の癇癪かんしゃくみたいな理由で、彼の命を奪った意味が消失するのはあまりにも愚かだ。それに友人や友人の家族たちを見殺しにするのは忍びない。

 せめてもの救いが欲しい。自分の行動が間違っていなかった証左が。

 涙が邪魔で何も見えない。

「ぐ、ぅう……」

 手に持ったナイフを左腕に突き立て、脈に沿って力任せに切り開く。

 石畳の上に血だまりができるが傷はすぐに閉じてしまって、まだ町を直すには全然足りない。

「が、ぁあ……」

 膝をついて首にナイフを当て、切り裂く。血が足りなくてぐらぐらと視界が揺れるが、体の奥から血が湧いて出るような感覚もある。四、五回首に刃を当てて、ようやく適量の血が揃った。

 血の海の中心に手をついて、願う。

「ごふ、っ……。っは、はぁ……。在るべき、姿へ……!」

 戻っていく。

 瞬く間に血と魔力が消費され、時を巻き戻すかのように建物が元の形に向かっていく。壁が浮き上がり、屋根が穴を閉じていく。剥がれた石畳は秩序立って並び、吹き飛んだガラス片が雪のように踊る。

 血溜まりが使い尽くされたころ、そこに在ったのは侵略者が訪れる前の町並みだった。

 僕は足元が覚束ないまま立ち上がり、今度は大通りを走る。

 僕に遭遇すると、町の皆はぎょっとした様子で迎える。僕はそれを無視して思いきり叫んだ。

「――っ、みなさん、聞いてください。今から、怪我人の手当てを、行います。……動ける方は、重篤な方を、連れてきてください。絶対、全員、治しますから……、お願いします……!」

 数分後、僕の周りに人が集まりだした。人の数が増えるほど、血と屎尿の香りが強くなる。できれば二度と嗅ぎたくなかった、人の死の匂いだ。

 町の少女たち、物知りのおじいさん、学校の先生。知人も、顔だけを知っている人も。皆、酷い火傷と裂傷を負っていた。辛うじて生きている人もいれば、既に絶命して誰かが泣き縋っている人もいる。

 僕は自分にナイフを押し付ける。

 それを見て悲鳴を上げる人もいれば、ふざけているのかと掴みかかってきた人もいた。僕は構わず血を飲ませていく。口に含めないときは、傷口に垂らした。やがて僕の行為の持つ意味を知って人が動き始める。重篤なものから順に僕の前に並べ、血を飲ませるのを補助する。回復した者の身を清めに行く。息を吹き返さなかった人もいた。だが僕を責めることは周囲の人たちが止めた。

 日が昇ると、まるで襲撃など無かったかのような平穏な町並みが見えてきた。話によると、死者は連邦の兵士を含め五人、怪我人はいなかったという。

 それもそうだ、戻せるものは全て、僕が元に戻してしまったのだから。

 結果、僕は自惚れた。僕は家に帰り、恐る恐る姉さんの顔を見に行った。僕の努力を、きっと姉さんが褒めてくれると信じて。

 しかし姉さんは僕を見るなりこう言って家を飛び出した。

「あれは弟なんかじゃない、悪魔よ! みんな騙されないで!」

 泣き叫ぶでもなく、ただ強く、そう言い放つ。

「何を言っているの、姉さん……? 僕は――」

「弟を騙らないで。あの時、アルマスは死んだわ」

 僕はもう何も言えなかった。姉さんは確かにドラゴンに対する忌避感を抱いていた。けれど姉さんは頭が良いから、それで僕を悪く言うなんて思ってもみなかった。勿論、町の人たちは姉さんの正気を疑い、僕を擁護してくれた。駐留軍の兵士たちでさえ、自分たちの基地に損害が出なかったことを何度も感謝していた。

 ただ、姉さんだけは僕を責め続けた。まともな会話など成り立たなかった。それが僕の精神にどれほどの悪影響を及ぼしたかは言うまでもない。


 戦争が終結して十年が経とうかという頃だった。

 ドラゴンの持つ魔力に振り回され凶暴性を抑えきれなくなった僕は、終に姉の手によって封印されることになる。

  





   ***


「……ハルマー」

「みあぅ」

 僕は、近くで僕のことを観察していた彼女に声を掛ける。灰色の猫は返事をして僕の膝に乗った。二股の豊かな尾を持つ彼女は千五百年来の親友だ。いつもはまるで寄り付かないくせに、こういうときだけは僕に寄り添ってくれる。彼女はごろごろと喉を鳴らして顔を僕にこすりつけた。

 慰められている。

 そう感じてしまった瞬間、涙が滲み出した。

「みっ⁉」

 こぼすまいと拭き取るが、そのうちいくつかの雫はハルマーの顔に落ちてしまう。彼女は驚いて跳び上がるが、すぐに座り直してまた喉を鳴らしはじめた。僕はその優しさを甘受して情けなく嗚咽を漏らす。

「もういやだ……、もうこんな……、いつになったら解放されるんだ……」


 僕は未だに、もういない姉さんに懇願し続けている。


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