第0章 空転

運命の境界編 

#1 泡沫の夢 Ⅰ

 諧調ハルモニア歴378年4月7日 カレヴァ ルミサタマ



 このバッドエンドは二千年間、僕を呪い続けている。


 凛冽りんれつとした空気が耳元を駆け抜けていく。銀色の緞帳どんちょうをおろした空からは輝く雪が舞い降りてきた。空間に満ちる穏やかな色の陽光を何度も反射させて、雪は花弁のように光る。僕は飛行帽を被り直して走った。

 ――これは夢だ。僕が幼かったころの、恵まれていたころの記憶。あれから何度も見た追憶のフィルム。もう二千年も前のことなのに、この記憶は頭にこびりついて剥がれない。

 目の前に広がるのは懐かしき二十世紀初頭の風景――八歳頃のことだろうか。ドラゴンと魔法が飛び交い、そして戦車が跋扈ばっこする第一次世界大戦。あの悪夢のような戦争が収束し、たしか東隣の連邦と不可侵条約も結ばれていたと思う。依然物資は乏しく貧しかったが、僕の少年時代の中では比較的平和な時期の思い出だ。

 だが平和とはいえこのころは既に母も父も他界している。ドラゴンの襲撃を受けて生き延びた僕は故郷から離れ国を横断し、親戚のいる港町に定住した。この当時の僕が暮らす町、それがこのルミサタマだ。

 両親を失ってから約一年。だいぶ悲しみも薄れていたのだろう。幼い僕は無邪気に枯れた草原で遊ぶ。

 僕はあの頃の自分に代わって走り続けようと試みた。しかしちっともスピードは上がらない。それどころか減速をはじめる。何度やってもこの夢は干渉を許してくれないみたいだ。

 幼い僕は雪の結晶が気になったようで、枯れ草が雪から顔を出す空き地の真ん中で足を止めた。徐に手袋を外して掌に雪片を受け止める。しかし雪の結晶は観察するいとまを与えずに融けてしまった。その様子を残念がっているのか何度か手を握り、やがて手袋をはめてまた走り出した。

 僕は初雪が敷いた白いカーペットの上で寄り道をしながら町の中心へと進む。見るものすべてに感嘆の声を上げながらはしゃいだ。新しいスキー板、運ばれていく白樺しらかばの枝、ベリージャムたっぷりのお菓子。どれもが懐かしくて、心が締め付けられる。

 だが僕がどんなに苦しもうが、この夢はどこまでも無慈悲だ。夢は彼女・・を舞台にあげる。

 心臓が早鐘を打つが幼い僕は平然とした様子で寄り道を続ける。じれったくなった彼女は風のように駆け寄ってきた。そうして僕を見下ろす位置に来た彼女は、突如がっしと僕の腕を掴む。

「アルマス早く‼ 日が暮れちゃうでしょ‼」

「ふぇ、ね、姉さん! 待ってよ、もうちょっとだけ……」

「待てない! 行くよ‼」

 蒼い双眸が投げかける視線はあの時・・・と違って優しかった。胸が熱を持ち、苦しくなる。

 ――そうか、あの頃の姉さんは十四だったのか。

 年が六つも違えば力比べで勝てるはずもない。強引な彼女に引きずられるようにして、僕は橙色に染まりつつある道を進んだ。そんなぁ、と漏らす幼い僕に対して彼女は頬を膨らませる。

「もー! 早くしないと怒られちゃうよ、走って、競走だ! 勝ったら今晩のおかず貰うからねアルマス‼」

 唐突に叫んで白銀の髪をひるがえした彼女は軽やかに走りだした。

「……え⁉ ちょっと待って姉さん! あ、ずるいよ‼」

 幼い僕の口はそんな台詞をなぞった。前方を走る彼女を追って僕は遅れて走り出す。彼女とともに、一位はもらった、などと騒ぎながら我が家を目指した。


 あの日の僕らは白い吐息をなびかせて走る。

 だが傍観者の僕は立ち止まりたくて仕方がなかった。立ち止まればきっとこの先へは進まない。僕はあまりにも幸せなこの記憶から追い出されたくなかった。


 しかし非情にも景色の高さは変わる。新たな場面が始まってしまう。


 過去の僕の視界には、二十五になり一層綺麗になった姉さんがいた。

 道端には戦争に備えて荷車がいくつか置かれているし、皆少し痩せてきている。まともな服もいよいよなくなってきて、縫い跡だらけのシャツの上に、毛羽立ったウールの上着を着て寒さを凌いでいた。冬のこの時期は日が短くて陰っているというのもあるが、人々の纏う空気そのものが暗い色をしている。開戦からいくらか時が経ち、直接的な攻撃がないとはいえ町全体が疲弊ひへいしていた。

 それでも姉さんだけは生命力に溢れ、町の皆の心を支えていた。

 いや、町の皆だけじゃない。

 近くを駐留軍の兵士が通りかかる。基地のエースと付き合っている姉さんは彼らの間でも有名で、兵士たちは見かけると必ず敬礼をしていく。姉さんも、駐留軍の敬礼を可愛らしく真似て返した。

「――ふぅ、姉さんお待たせ」

 雪が降り積もった石畳の上で、僕は姉さんに駆け寄ってそう言った。随分と淑やかになった姉さんは、街路樹を鉢のように囲むレンガに優雅に腰掛けている。僕も彼女の隣に座った。姉さんは木の下で近所の学生たちと語らいながら僕に問いかける。

「いいのよ。アルマスにとって大事なことじゃない。それで、先生はなんて?」

「まだしばらくは大丈夫だろうって。臓器の近くに大きなせきはできていないみたいだし、採血がてら魔力を随分抜いてきたからね」

「それは良かった。でも無理しちゃだめよ? あんまり運動すると抜いた意味がなくなっちゃう」

 彼女は優しい笑顔で僕の体を労わる。すると僕の持病について理解できていない町の少年たちは、僕に問いかける。

「何、アルマスまた調子悪いの?」

「確かアルマスって十九だよな? 兵役免除されてるけどホント大丈夫か?」

 彼らのその様子に苦笑を浮かべた姉さんは、穏やかに諭す。

「今は大丈夫よ。でも病気がひどくなるといけないから、アルマスはあんまり激しく動いちゃだめなの。体内で魔力が作られて内圧が上がっちゃう。それで魔石がお腹の中にできてしまったら、また手術。――できるのはお散歩くらいね。兵役なんて無理よ」

 それを聞いて一人の少年が悔しがる。もう一人もむくれた表情で続いた。

「はー、アルマスが前線に出れば無双できんのにね」

「アルマスの魔法に勝てる奴なんて絶対いないっての」

「同感。白銀の死神とか異名つきそうだよね。帝国と協力すればもう、なんていうの? 連邦なんてズバっ、と!」

 僕は手刀で空を裂いた少年の姿が可笑しくて、つい吹き出しそうになる。

 ――ああそうだった。こんな時代だった。燃え尽きそうな薪の下に隠れて、小さな炎が煌々と輝く。絶望の淵にありながら誰も諦めていない。

「流石にそれはないかな。……僕もみんなのために戦いたいけど、こればっかりは駄目なんだ」

 かつての僕は両手を振って苦笑いする。不満そうにしながらも彼らは頷いた。

「うぇ、わたしアルマスにいとあそびたい……」

 しかし学生たちにまぎれていた幼い少女はふるふると頭を振る。彼女はどうしても僕と遊びたいようで、目に涙を溜めて頬を膨らませていた。そこであの日の僕は提案する。

「じゃあ、歌を歌ってあげようか。きみと遊べない分だけ、たくさん!」

 すると幼い少女の顔が歓喜に染まった。彼女は大はしゃぎで雪の中を跳びまわる。

「うた! うた! やった! アルマスにいのうた、だいすき!」

 そうしてひとしきり嬉しがると今度は期待を込めた瞳を僕に集める。かつての僕は額に手をやった。照れ臭くなった証拠だ。歌には多少の自信があったが、これほどまでに賞賛されると今となっても恥ずかしい。だが駄々をこねているわけにもいかない。記憶の中の僕は葛藤を乗り越え、羞恥心を押し込めて息を吸った。

「――――――――」

「キエロねえさま、このうたなにー? よあけーだって! きれい!」

 聞き慣れた童謡でないことを不思議に思った少女は問いかける。姉さんは彼女の頭を優しく撫でて、僕の心中を代弁してくれる。

「これは願いの歌よ。今は苦しいけれど、いつか夜は明ける。でしょ、アルマス?」

 僕は歌いながら頷く。

「くるしい?」

「大好きなお菓子はあんまり食べられないし、あなたのお父さんも含め男の人たちはみんな戦いに行っているでしょう? あなたは物心ついたときからそんな中で育ってきたけれど、もっと温かで、穏やかで、幸せなときもあったのよ。またそうなってほしいね、ってこと」

「ふーん、じゃあたいせつなうただね!」

「そうね、大切な歌。誰にだって、……幸せでいてほしいもの」

 彼女は歌う僕を横目に、そう呟く。凛としたまなじりに珍しく憂いを浮かべながら、確かに呟いた。そしてあの時の僕は同意するように瞬きをして歌い続ける。

 しかし、記憶を傍観する僕は今にも崩れ落ちそうなほどの憤りに襲われていた。

 ――僕のささやかな幸せを奪ったくせに。

 何度もぶつけようとして、それでも終に出てくることはなかった言葉。僕は未だに苛まれている。


 そんな穏やかで残酷な場面もすぐに切り替わる。

 宵闇の中、爆音が地面を揺らした。天井から砂埃が落ちてきて衝撃の大きさを物語る。後手に回ったサイレンがやっと響きだした。

 近づいてくる爆心地に危機感を抱いた僕と姉さんは外に出る。視界は黒と赤で染め上げられていた。えげつない程に明瞭な色彩だ。

 爆撃されていない近辺の家屋の間に、歯抜け状態の石の建造物が見える。その上空には侵略者がいる。

 飛翔するそれ・・は、ドラゴンと呼ばれる姿をしていた。

 流れるような姿が美しい、金に光り輝く鳥だ。鶴のように首が長く、尾羽から幾重にも金糸のような飾り羽が伸びる。体は――遠いので正確には掴めないが、戦車ほどの大きさだろうか。巨体は縦横無尽に町の上空を舞った。銅から赤へとグラデーションのかかった両翼が空気を押して駆け巡る。

 そのとき僕は見てしまった。ドラゴンが身を反転させたその瞬間。吐き出された炎に照らされる中、ドラゴンの胴体に取り付けられたゼッケンがはためく。羽毛の色に紛れるような赤い布には鎌と槌が描かれていた。

 ――連邦軍だ。

 軍に所属するドラゴンは大抵どこの国でも国章の着用が義務付けられている。つまりあのドラゴンは、理性を失って無秩序に暴れているのではない。僕の祖国と、駐屯している帝国軍を狙って爆撃をしているのだ。

 ドラゴンはオフィスやアパートに火の玉を落として焼き尽くす。眺めている間にもどんどん火の手は迫ってくる。町は焦土へと塗り替えられ、居住地にも駐屯地にも平等に火の雨は降り注いだ。


 ――この世界に生きる以上、どんなに幼くても人がドラゴンに成る理由を教えられる。

 愛する誰かを守るため。

 神に認められるほどの愛が人をドラゴンに変える。他人を想う強い意志がドラゴンを生むと、絵本や親の口から聞かされるのだ。

『――強い思いを持つひとは、神さまに力を与えられてドラゴンになるの。それはとてもすばらしいこと。ドラゴンとは美しくて強い人間の姿なのよ』

 まだ両親が健在だった頃、毎晩絵本を読み聞かせてもらった。ドラゴンの絵本を読むたびに母は優しい声で礼賛する。生まれ故郷がドラゴンに襲撃される前、僕はそんな母の微笑を馬鹿みたいに信じていたし、ドラゴンを尊敬さえしていた。

 だがドラゴンはそんな崇高な存在ではない。

 僕が思うに、ドラゴンとは道を踏み外した人間の姿だ。誰かのために自分が堕ちることをいとわなかった愚かな人間の成れの果てだ。守るためと言いながら彼らは容易く命を奪っていく。神に認められるほど誰かを愛しておきながら、他人には残酷な仕打ちをして平然としている。ドラゴンなんて所詮、愛のためなら他人などどうだっていい自分都合の人間なのだ。


 町は瓦礫がれきと炎で埋め尽くされていた。ひたすら郊外へ向かって走るが空を飛ぶ敵を相手にほとんど無駄な抵抗だ。すぐにドラゴンに追いつかる。かつての僕や姉さんを含む被災者の群れは地獄へ叩き落された。

「――ッ、逃げろっ‼」

 男性の逼迫した声に後ろを振り返ろうとした瞬間、僕の隣を金色の何かが掠める。

 刹那、前を走っていた数人が豪速で弾き飛ばされ崩れた壁に強かに打ち付けられた。油のようにてらてらと光る血液がレンガの溝を伝い、溢れて地面に広がる。

 かつての僕は、そこで思考停止した。

 何故か警告を発した男性を目視で探そうとして、誰かの腹から下が倒れているのを見つける。それも即座に火の玉に飲まれ僕と姉さんは爆風で吹き飛ばされた。

「――アルマス! アルマス‼ ……行くよ!」

 当時の僕は姉さんの呼ぶ声で瞼を開ける。額がくすぐったいと思ったら血が垂れてきて目に染みる。断続的に飛んでくるつぶてや砂にもみくちゃにされながら僕は立ち上がった。

 見渡せば一層破壊が進んでいた。被害が建物だけに留まる筈も無く、人々はドラゴンに薙ぎ払われて動かなくなっている。かなりの人数が赤い水たまりの中にいた。赤い家々から突き出す人々も嫌な臭いを出しながら油を燃やす。大抵は引きずり出され雪で消火されるが、どうしようもなく衰弱した人ばかりが増える。

 僕は十九になっても心が弱いままで、竦んだ足を無理やりに動かすなんて芸当はできなかった。姉さんに手を繋いでもらって、それでやっと一歩踏み出す。

 いつだって弱い僕が悪いのだ。

 横から力強く押され、あの日の僕は瓦礫に足を取られ転ぶ。

「――ぁああああっ……‼」

 その瞬間、横合いから姉さんの悲鳴が聞こえた。我に返って飛び起き姉さんの元へ向かうと、そこには唇を噛み締め腹部をおさえる姉さんがいた。白い指の隙間から血が漏れる。

 それでも姉さんは強かった。

「……っ、アルマス、みんなを地下室に連れていくよ!」

「……! うん! みんなこっちへ!」

 姉さんは痛みそっちのけで立ち上がり叫ぶ。僕自身も姉さんに心を支えられながら近くのアパートを目指した。アパートの地下室に逃げ込めれば幾分か生存率が上がるからだ。僕らは無事な人々を励まし走り出す。

 あの頃の僕は――町中を走り回っていた幼少期と比べれば大人だっただろうが、十分に無垢だった。必死に逃げている途中、僕はあることを思い出したのだ。これから先の運命をぐるりと変えてしまうような啓示が手をこまねく先は、紛れもなく修羅の道だった。

 生きることを諦めろ。それが賢明な判断だ。もうこれ以上悪夢を続けないでくれ――。

 それでもその時の僕は、思い留まることはしなかった。僕は不遜にも奇跡を思い描いてしまった。

 誰かを救いたい、何かを為したいと心から祈れば、そのための力を神様が与えてくれる。両親を奪った力だろうと、姉さんに忌避されようと構わない。当時の僕は、力を得て姉さんを救いたいと思ってしまった。

 逃げる僕たちは、風に千切られる雲のように少しずつ集団を小さくしながらアパートまでたどり着いた。そして地下室に人々を避難させた後、あの日の僕は愚かな判断を下す。

 アパートの地下室を出て、星のない曇天のもとへ躍り出る。僕は石畳の上、遠くの炎が朧げに照らすその真ん中で膝をついた。避難した人たちのうち何人かが顔を出して不安げにこちらを見つめている。姉さんも僕の意図に気づいたらしく追いかけてきたが、僕はその制止さえも振り切ってしまった。

 馬鹿な僕は必死に祈る。空襲を伝えるサイレンが鳴り響く中、姉さんの叫ぶ声が間を縫って僕に届く。

「やめてアルマス‼」

「……僕は、今まで通り姉さんに笑っていてほしいんです。この手を汚してもいい、死んだって構いません。でも姉さんにだけは無事でいてほしい」

 恐らくその場に居合わせた全員が、どうなるか理解できていた。だからだろうか、姉さんはいつもの傲慢さは置き捨てて懇願する。

「お願いアルマス……」

 それでも僕は続けた。

「……だからどうか、この祈りが届くのなら――」

 突如景色が乱雑に掻き乱され、雪明りの中で僕の胸を貫く剣。

 そのとき姉さんが何と言ったのか、僕は知らない。



「……ッ‼」

 心臓が破裂したかのような衝撃に引き戻されて、長い悪夢から醒める。

 体を起こして周囲を見渡せば、そこにあるのはいつもどおり白と黒のシンプルな家具だ。年季の入った木製ではない。僕が今座っているのは革張りのソファだ。それに部屋には様々な電化製品が揃っている。薄暗い照明の中でスクリーンだけが煌々と光り、深夜のドキュメンタリー番組を垂れ流していた。

 全てが決定的に違う。ここはかつて暮らしていた家ではない。

 しかし夢で見た二千年前の光景は、鮮明なまま頭の中で繰り返される。

「落ち着け……、混同するな……。あれはずっと昔の話だ……」

 自らに暗示をかけるように唱えるが動悸は治まらず、息苦しさは増していく。フラッシュバックした映像に心が凍り付くようだった。過去を遠ざけようとすればするほど呼吸がうまくできなくなって、胸に痛みが現れ始める。耳鳴りと眩暈めまいでひどく頭が揺さぶられて僕はソファのひじ掛けに凭れかかった。一切の抵抗を許さず、あの日の記憶がぐるぐる回る。


 誰か助けて。


 僕はそう口にしたかもしれないし、気のせいだったかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る