【王献之・王羲之】キャンバスと筆とオヤジ

 王献之おうけんしはいら立っていた。

 世に書聖と呼ばれる王羲之おうぎしの息子として生まれ、自身も当たり前のように書の腕を磨く身の上に居着いた。無論父という境遇ゆえの我であることはわかっている。わかっているのだが、だからと言って父のエピゴーネンだなどと指摘されねばならないのには、どうしても我慢が行かない。とは言え書けば書くほど、上達すればするほど、父の名が重くのしかかってくる。幾度筆を折ろうとしたことか、しかし、紙に迸る墨の飛沫、その一つ一つが、王献之をして次なる書へと駆り立たしめる。それすらも父の思惑なのだろうか、忸怩じくじとした思いは止まらない。

 春の盛り、三月三日。この日には曲水の宴、と呼ばれる宴が催される。清流に杯を浮かべ、杯とともに昨年の穢れを洗い流そう、とする会だ。その年は自宅よりほど近い、蘭亭らんていと言う地で開かれることとなった。父は早くよりこの会の準備にかかりきりとなり、その間に書くものと言えば、親交のある諸氏に宛てた時候の挨拶、会への招待状、と言ったもの。色気も何もない、極めて実務的なものばかりである。だが、父が手ずからしたためたそれらを手に取ってみれば、その字が今までになく躍々としているのが分かった。衝動に駆られ、思わず破り捨てそうになった。良き書のためには良き心、当然のことだ。準備に忙殺されながらも、当日を心待ちにする父の文字に精彩がもたらされるのは、水が高きより流れ落ちるよりも自明のことである。が、その鬱々とした心根が王献之に鬱々とした字をもたらし続けてもおれば、その輝かしきは棘となり、王献之をいたずらに刺し苛むのだ。

 時は巡り、いよいよ当日となった。王羲之、王献之を含む、四十三名の詩作者と、また詩作者の競演するさまを鑑賞して楽しまんとする見物人たちと。普段は閑静な庭園である蘭亭は、常になき賑わいとなっていた。人々を見回し、主催者である王羲之が高らかに開催を宣言する。その大意は以下の如きである。

 春の盛り、やがて夏になんなんとするこの日、多くの方にお集まりいただけたことをうれしく思う。いま、この庭園に一なる清流を引き入れた。豪華な楽器の調べなどは用意できなかったが、清流に杯を浮かべて流し、諸賢とともに歌い合えば、この地の山林草花の趣はなまはかな調べをもしのごう。さて人が抱く思いは、人それぞれ、まちまちである。だが、この春を共に楽しみ合おう、という思いだけは共有できていよう。過ぎこしき時、そしてこれからやって来るであろう時。我々は決していつも同じ場所におれるわけではない。だからこそ、いま、この場に共に居れたことを歌いあいたいものだ。古来より、死は一つの大きな転機である、と言われてきている。いくら時を経てきても、この点については永遠の悩みとして付きまとう。あるいは、その表現は時代によってまちまちかもしれぬ。しかし、こうして集った者たちの言葉の一つ一つに載せられた思いは、きっと後世の人たちにも同じように鳴り響いてくれよう。過ぎ去りゆく時のむなしきを、それでも楽しみたいものだ。

 大いなる喝采と共に、詩会が始まった。ルールは以下の通りである。庭園内に引かれた清流に酒の入った杯を浮かべ、流す。自らの目の前に流れてきた酒が通り過ぎるよりも前に、詩を一句詠み、詠み上げたところで杯を取り上げ、飲み干す。そして改めて杯に酒を注ぎ、次の人間へと流すのである。自らの酒杯が流れ去るより前に詩を詠み切れなかった場合、罰ゲームとして多量の酒を飲まねばならない。言ってみれば、制限時間内に、どれだけ優れた詩を詠み上げられるか、を競うわけである。

 早さと詩情、両者を高次で融合させるには、どうしても心の余裕が求められる。会の期日が迫れば迫るほどに鬱屈を積もらせた王献之では、もはやどうしようもなかった。よりよき詩を、よりよき字で。気が急けば急くほど、何一つとして言葉が思い浮かばない。結局二度の挑戦のうち、二度とも王献之は詠み上げられずに終わり、多量の酒を飲むこととなった。喝采が、笑い声が場内に沸く。朦朧とした頭で、王献之は主催席を見る。みごと二度ともに詩を詠み上げた父は、同じく二首を詠み上げた名士たちと共にこちらを見ている。笑っているのか、心配しているのか。いまいちその表情は読み取り切れない。おやじめ、いまに見ていろよ。心の中で王献之は歯ぎしりする。そして酒を飲み干すやいなやのところで、倒れた。

 ただし、かれが何を思おうが、世はいつしかかれを、父と共に、二王、と呼ぶにまで至っていた。最高峰として見なされていたわけである。ときの貴人に謝安しゃあんと言うひとがある。おおいに名声を博しながらも、敢えて政治とは距離を置き、山中の庵にてひっそりと風雅を楽しんでいた人だ。そしてその恬淡とした振る舞いが却って声望を高めるに至っている。ちなみにかれも蘭亭会で二首を詠み上げている。のちに国の中枢入りし、その辣腕を大いに振るう事になるのだが、ともあれ、そんなかれが王献之に言ったことがある。もはやあなたの書の気高さはご尊父のそれに等しいな、と。

 それが妙に癇に障るわけである。王献之は答える。わたしと父を比べることに、何の意味がありましょうか、と。わたしの書はわたしの書、父の書は父の書であります。あなた様ほどのお方が、そこを踏まえずにわたしと父を並べ立てられてこられることに、いたく失望致しました。そう言って王献之は、足早に謝安のもとを立ち去った。後日謝安が、王献之についてこうコメントしたのを耳にしている。彼の人柄や書には大いに見るべきものがある、だが、あのプライドの高さでいささか損をしている気がしてならん、と。大きなお世話だ、怒りのあまり、その時に書いていた書をビリビリに引き裂いてしまったものである。

 どこまでも付きまとう、父の偉大なる背中。こいつをなんとかしないことには、おれの人生を上手く過ごせる気がしない。王献之は考える。どうにかおやじをやり込めることはできないものか。それも、同じ書と言う土俵で。

 チャンスは、思ったよりも早くにやってきた。王羲之には奇癖があった。酔っぱらうと、やおら筆を取り出し、壁に書を落書きするのである。そして一気呵成に書き上げると満足し、ばたりと眠りに落ちてしまう。ある時それを、自宅の近くでやらかした。あのひょうろくだまが、と激怒する母をなだめ、わたしが迎えに行きますよ、と申し出る。現場に辿り着いてみれば、王羲之はみごとな揮毫きごうを前に横たわり、高いびきをかいていた。王献之は左右の者に命じると、父が書いたそれを消させた。代わって、自分が新たに書いてみせる。目覚めた時に自分が書いたはずの字がより優れたものになっていれば、さしもの父をも屈服させられるのではないか、と考えたのだ。

 が、翌朝。昨晩自らが落書きをなした場所に王羲之が赴いてみれば、その字を見て、あからさまに愕然とするではないか。そして、ひとりごちるのである。昨晩のわしは、いったいどれだけ酔っていたのだ。このような下手な字を書いてしまっては、何とも世に顔向けができぬわい、と。密かに父を追っていた王献之は、その呟きを聞き、恥じ入るのであった。ことあるごとに我が字を褒めやそしてくれていた父ではあったが、いざわが事として字と向かい合ったときには、いったいどれだけの厳しき目でいたのであろうか。その一端を、我が身にてまざまざと思い知らされる。

 そして、つい、笑ってしまった。なるほど、無心に字と向かい合っていた父と、父の字に囚われ続けてしまった自らの、これが差か。こちらに気付いた父に歩み寄り、昨晩のあらましを打ち明ける。すると王羲之も笑い、言ってくる。日々、これ精進あるのみだな、と。シンプルな言葉だったが、それだけに、重い。まあ、やれるだけやってみるさ。王献之も笑い、そう返すのだった。




解説

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893915792

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る