【桓温】梟なるは蓋し常なさざらしむべし

 譙国しょうこく桓元子かんげんしは昔日に起こりたる乱にて父を害されていた。ときに齢十四、五。血涙にて枕を濡らし、復仇を志したと言う。心身を養い、やがて元子は父を害した者の縁者数名を、単身にて悉く戮した。未だ元服にも至らぬ年少の為したるにしては、否、たとい神気全うなる士大夫が為したとて、烈しさ甚だしき孝挙である。時のひとは元子を大いに称え、併せて畏れ憚ったと言う。長ずるに及び、豪爽なる容姿を得、顔には七なる星を備えた。もみあげ、あごひげは常にいきり立ち、或る人の評にては、孫権そんけん司馬懿しばいが如き覇者の相なり、とされた。余人に畏れ敬われるは、当然の成り行きであったと言えた。

 帝に仕える父であったから、元子もまた早きより宮廷人に知らるる所となっていた。中でも宰相の何道季かどうきよりの覚えめでたく、元子をして帝の弟、琅邪王ろうやおうの文学たらしめんと推挙を受けている。なお文学とは役職名である。謂わば教育係としての任を負い、琅邪王をして仁君たらしめんと導くのである。併せて帝の娘、いわゆる公主を尚した。公主の母は往時の宮中にて大いに権勢を振るっていた氏の娘。即ち、元子は皇室、権臣の縁者として、自身もまた権臣となる階梯の袂に辿り着いたのである。

 但し、無条件で昇進を果たせるわけではない。地方長官としての経験及び実績を積み、民望を得ねば、ひとは決して従わぬ。はじめ都の北、徐州じょしゅう刺史として任ぜられると、頃にして要衝、荊州けいしゅうの刺史が薨じた。かれは元子の細君の弟、即ち叔父に当たった。任官までに紆余曲折こそあったものの、遂には元子をして叔の後継に任ぜしむ、と帝よりの詔が下る。元子は速やかに荊州に赴き、府に就いた。州の内外に纏わる政情を訊ね、先んじて微罪のものには特赦を下す。その上で荊州府のある江陵こうりょう城に府僚を集め、大いに宣じるのである――わしは、この荊州全土が徳に覆われるようにしたいのだ、と。

 元子の言葉は、驚きと疑念を以て受け入れられた。少き日にては苛烈なる復仇を果たし、名を轟かせたる元子である。その政にて、よもや寛仁たらんとせる旨を語られるとは。衆吏が言葉の裏を読もうと躍起になるのもむべなからぬ話であった。然し小吏の微罪を犯したるに、州府中庭にて杖刑の執らるるに及び、小吏を打ち据えるべき杖は朱衣を僅かに掠めるのみ。鳴り響くべき打擲音も、悲鳴すらなく、杖の空を切る音のみが中庭に響く。ややあって、元子は沙汰の下りたるを述べた。

 爾来荊州府にての懲罰の義は並べて斯様の如きであった。寛仁と呼ぶには、些か行き過ぎている。烈士とて、人の上に立つらば人目に怯えたらんか。軽侮の言葉が府内より漏れ聞こえるようになるまでに、さして時は要さなかった。

 幕僚らは内心に危惧を抱けど、直に元之に訴えるは恐れ憚った。何を論えど、元子がいまし日に人を戮したるは間違い無きことである。故に、元子の沙汰に疑義を呈したるは、息子のしょくとなった。荊州府の中庭にて、徴税の遺漏の咎にて罰せられたる小吏の様を眺めたる後、父に向かいて、言う。先に小吏の杖罰をの様を眺めました、獄卒の振るう杖は、上は雲を払い、下は地を打ちたる有様。これで何の懲らしめになりましょうか、と。元子は答える。あれでもなお重かろう、と。これ以上を言い寄ったところで埒もない。式はただ頭を垂れ、退出した。

 茶番とも思える処罰が続く内、府僚らは別なる楽しみを見出すようになった。いずこまで元子は徳治とやらを示し続けるのか。ある時、一なる村の財貨を特段の理由もなしで召し上げるものが現れ、その咎にて捕縛された。府の中底、元子の眼前に男が引っ立てられる。男の顔を見、府僚らにざわめきが起こる。咎人は荊州にて陰然たる発言力を持つ重鎮の息子であった。獄卒が罪過を読み上げ、元子は瞑目にて聞く。中庭を見る府僚らの関心は一点である。此度の沙汰は、いかようか。又しても寛仁を刺史はお示しになるのか、と。小吏すら罰しおおせずんば、況んや盛族の子弟をや、である。

 獄吏の言葉が、途切れるか否か。元子は抜刀、一刀のもとに子弟を斬り伏せ、手ずから斬首。未だ元子への軽侮を残す顔を、周囲に向け、掲げた。高らかに宣ずる。小人の小科には、小罰を。大科には、大罰を。士人の小科には中罰、大科には重罰を。小人を教化せんがための士人なれば、豈に士人をして小人を搾さしむ謂れの有りたりや、と。子弟の首は荊州府の門前に、為したる罪状とともに梟ぜられた。親たる士人は元子を詣で、寧ろ子の不徳を詫びる有様であった。荊州の人は、元子の徳治がその確かな武威の故と知り、粛然と元子の命に従うようになった。

 やがて元子は荊州を足掛かりとし、敵国の手に落ちていた益州、雍州、司州を奪還。その武威を大いに天下に鳴り響かせ、帝位をすら伺うに至る。死後にはその功績を讃え、宣武、と諡されている。


 後漢の人、許慎きょしん説文解字せつもんかいじを著して説く。梟は不孝の鳥である。子は長ずるにより母を喰らい殺す。故に古の人々は昼間のうちに梟を捕まえて殺し、その死骸を晒し置いた。木の上に鳥、という字形は、枝の上に梟の生首を置いたことに由来する、と。




解説

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893915745

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