Yukari's Diary 4

「えっとねえ、あの日の夜に、亜紀菜さんのお父さんから電話がありまして」


 向井さんは、もどかしげに言い淀む。


「……亜紀菜さん、どうやらあの単元、あんまり理解できていなかったようだよ」

「え、でも問題はそれなりに解けるようになっていたのに」

「その場ではね。……ほら、おそらく藤本先生も助け船を出しながら答えを求めるから、案外解けてしまったりするもんなんだよねえ」


 たしかにあの日、最初に課した四問以降、私は亜紀菜さんの問題演習に付き添いっぱなしだった。少しでもつまずいたらヒントを与え、正解に導く。――本来の受験では、私の出すヒントなんてありゃしないというのに、それだけで理解してもらった気になっていた。


「申し訳ありませんでした」

「いえ、気にすることはない。先方だって、初回は互いにあまりよく分からない者同士だし、ある程度は仕方ないって思っているみたい。今日からは、もうちょっと亜紀菜さんの理解度に合わせてあげて」

「……ただ、そうすると一回の授業で一つの単元が終わらないような気がして」

「問題演習の時間は、減らせばいいよ。亜紀菜さんだって、宿題はちゃんとする子だし」


 そうか、あのテキストは宿題前提のものだったのか。


「亜紀菜さんはね、うちの塾でもかなり優秀な生徒だよ。だけど藤本先生は大学の首席でしょう。おそらく、ご自身の理解力を基準に考えてしまうと、どんな生徒でもついていけなくなってしまうから」


 勉強ができれば、勉強を教えるのだって、簡単にできる。そう考えていた数日前の自分を、殴ってやりたくなった。





 月曜日。


「ねえ、藤本さんだよね。私、江上えのうえ いずみ。藤本さんと同じ、理学部数学科よ」


 相変わらずのぼっち飯を楽しんでいたところ、一人の女子学生に声をかけられた。艶やかな巻き髪に、ラメが散りばめられた、やや派手な化粧。白色のミニワンピに、ピンクゴールドのネックレスを身にまとった彼女は、分かりやすい「モテ系女子」だった。


「江上さん。名前だけなら、知ってた」


 彼女、このように見えて、かなり優秀な子だ。人の名前を覚えることが苦手な私ですら、彼女の名前は知っていた。高校時代に受験した、模試の数々。いつだって、この子の名前は上位にあった。――まあ、大抵私の方が上の順位だったけれど。


「マジ? 天才藤本さんに名前を覚えてもらえてるなんて、うれしー! ところでさ、藤本さん。こないだ家庭教師Do itの面接受けてたでしょ?」

「どうしてそのことを」

「どうしてって、そりゃ私も受けてたからよ! 藤本さんの真ん前の席。藤本さんの直前に、模擬授業もした。……そう、面接官やってた向井さんに、藤本さんが首席だっていう話もしたんだよねぇ」


 お前かーっ! と叫びたくなるのを抑える。――むしろ、感謝すべきなのだろう。お陰で採用もスムーズに済み、生徒もゲットできたのだから。


「そういうわけで、これからよろしくね。同級生としても、バイトの同僚としても」


 半ば無理矢理、両手を包み込まれて上下にブンブンと振られる。ファンキーすぎる。

 江上さんも、既に生徒を受け持っているようだった。


「いや、数学教えてるんだけどさ。ほんと、聴かないのなんのって。私らみたいに、とりあえず授業くらいは聴いておこうか、みたいなスタンスじゃないのよ。ほんとびっくり。――まあ、志望校がそこまで高くないことと、受験生じゃないことだけが救いだわ」


 ノリは軽いが、基本的に学習態度は真面目なのだろう。彼女もまた、生徒と自分の違いに戸惑いを感じているようだった。


「紫莉っちの生徒さん、どんなん?」

「紫莉っち」


 どうして? つい数分前まで、「藤本さん」って言ってたよね? ……まあ、別にいいけど。


「受験生だよ」

「マジ? 向井さんもなかなかエグいことするねー? いくら紫莉っちでも、一年目で受験生はダルいでしょ」

「まあ……やりがいはあるけど」


 正直、今日の授業は少々億劫だった。


「うん……頑張れ、としか言えないわー」


 私の表情から、何かを察知したらしい。江上さんは、今日一固い笑みを浮かべた。







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