Yukari's Diary 3

 簡単な事前研修を終え、労使契約を結んだら、いよいよ正式に家庭教師として登録される。四月の半ば、教室で一人、お弁当を食べていた私のスマホに、メールが来たのだった。




【From: 家庭教師 Do it

To: Yukari Fujimoto

件名: お仕事依頼

藤本さま

お世話になっております。この度は研修への参加、ありがとうございます。

早速ですが、お仕事をお願いしたく連絡を差し上げました。


中学三年生 女の子(高校受験を予定)

科目 国語、数学、英語、理科(特に物理の分野が苦手だそうです)

月~土の夕方十七時半以降、いつでも。週三回、各二時間希望


とのことです。

もし、指導不可能な教科があれば、その教科だけ他の先生に割り振ることも可能です。

何卒よろしくお願いいたします。


家庭教師Do it 向井】




 かなり美味しい案件だと思う。中学レベルの問題ならばそんなに予習もいらないし、なにより週三回希望というのが良い。週六時間、時給は二千五百円だから、この生徒一人受け持つだけで月に六万円は期待できる。




【From: Yukari Fujimoto

To: 家庭教師Do it

件名: Re:お仕事依頼

家庭教師Do it 向井さま

お世話になっております。

ご依頼いただいた件ですが、喜んで担当させていただきたいと思います。指導不可教科も特にありませんので、全て担当させていただけますと幸いです。

曜日の希望も特にありませんが、月、水、土はいかがでしょうか。

以上、よろしくお願いいたします。

藤本】




 仕事の依頼には、素早く、肯定的な返事をするものだ。そのように、私たちは昔から何となく刷り込まれている。だから、メールに返信をしたとき、私は深く考えていなかった。自分がかなりの人見知りで、接客業になんて向いていないことを忘れていたのだ。




 いざ、初回授業の土曜日には、心臓がうるさいほどばくばくと鳴っていた。どうして仕事なんて受けてしまったのだろう。どうして、家庭教師になんてなろうと思ってしまったのだろう。今さらながらの後悔に押し潰されそうになりながら、私は家庭教師Do itの向井さん――就職面接の際の面接官の男性だ――に連れられて、大きなタワーマンションの一階のエントランスホールで小さくなっていた。


「そんなに緊張することないよ」

「すみません。……でも、ちゃんと授業しないとなって」

「大丈夫。生徒さん――亜紀菜あきなさんは、めっちゃおとなしいいい子だから、おそらく相当教えやすいよ」


 これは、採用された後に知ったことであるが、家庭教師Do itに来る生徒というのは、いささか問題のある子が多いとのこと。それは、学習態度であったり、家庭環境だったりと様々ではあるものの、いずれにしても集中して勉学に励むようなタイプの生徒は少ないということを、研修会でなんとなく察した。


「……すみません、お待たせしてしまったようで」


 時間きっかりに、向井さんと同世代と見えるが、些か恰幅の良い中年男性と、小柄な女の子がエントランスホールに姿を表した。

 細く、華奢な体に、ミディアムボブの黒髪。前髪をフラワーピンで留めている。色白な小顔で、睫の長い、上品な顔立ちをしている。十四、五歳にしては幼く見えた――この子が、亜紀菜さん。


「いえいえ、こちらこそ早く来てしまいまして」

「この度は先生のご紹介、ありがとうございます」


 男性はそう言いながら、私のことを見定めるように上から下まで眺める。


「はじめまして、藤本 紫莉と申します」

「こちらが、担当していただく藤本先生。彼女、大学を首席で合格している優秀な先生なので、ご安心を」

「それは心強い」


 先方の表情が一気に明るくなったのを感じる。やはり、「首席」「一番」といったラベルは、めちゃくちゃ強い。


「ほら、亜紀菜。先生方にご挨拶なさい」

「はじめまして、松藤亜紀菜です。よろしくお願いします」


 細く、可愛らしい声で話す少女は、とても高校受験生とは思えない。自分が中三だった頃を思い返してみると、やはりもう少し、厚かましさと力強さを備えた人間に成長していた気がする。


「それでは早速ですが、家に上がってもらいましょうか」


 男性――亜紀菜さんの父親は、私たちを自宅へと招き入れたのだった。




 4LDKの一室、亜紀菜さんの部屋で、授業は行われる。女の子らしい小物やインテリアに、思わず心が弾む。いけない、人様の部屋をジロジロ眺めるのは失礼だ。


「今日は土曜日。理科の日ってことで大丈夫かな」


 用意されたテキストを見せ、確認を取ると、亜紀菜さんははい、と小さくうなずいた。


「いきなりですが、授業を始めてしまいましょうか。今日は第一章、力の合成と分解です」


 中学三年 理科 アドバンストと書かれたそのテキストは、高校受験を目指す生徒の中でもそれなりに優秀な子に向けて作られたもので、最初の説明こそ丁寧に書いてあるものの、後ろに掲載されている問題はそれなりに骨のあるものもある。亜紀菜さんの目指す名門私立女子高・A学園は、偏差値六十五ほどの難関校。この薄いテキストだけで合格するとは言いがたいものの、これを身に付けることが合格への大きな一歩になるであろうことは、間違いない。


「つまり、この鉛直下向きの重力を、斜面方向のベクトルと斜面垂直方向のベクトルに分解して」

「……あの、すみません」


 亜紀菜さんがおずおずと声を出す。


「はい、なんでしょう」

「あの、ベクトルって……」


 そうか、ベクトルっていう言葉をまだ知らなかったのか。ベクトルって、高校数学で習う概念だっただろうか。その辺りのことを、あまりよく覚えていない。そもそも、いつ、どういったタイミングでどの知識を習ったかといったことまで覚えている人間なんて、相当少ないだろう。皆、なんとなくどこかで得た知識を、なんとなく活用しながら生きているものだ。ベクトルは高校。ということは、中学三年生の生徒は、その概念を知らないまま、物理の単元を終えるということか。




「ここまでの説明で、なにか質問はありますか?」


 一通りの解説を終え、私は安心していた。――これなら今日中に、一つぶんの単元はこなせそうである。


「……いえ、特にありません」


 亜紀菜さんは、心細げにそう答えた。まあ、本人がないと言っているのだから、ないのだろう。


「それでは、ここに載っている問題一から四までを解いてみてください。制限時間は、十五分くらいかな」


 タイトな時間設定だと思うものの、今日一日で全ての問題をこなそうと思うと、こうなってしまう。手持ちぶさたな十五分間、私は向井さんにいただいたファイルを取り出す。亜紀菜さんの業務日誌を記入しなければならない。



四月十八日(土)

理科 中三アドバンスト

一章 力の合成と分解

基本事項の解説及び練習問題


 本日が初回の指導となりました。今後ともよろしくお願いいたします。

 本日は力の合成と分解(力学)の学習をしました。ややハイレベルな問題を扱っておりますが、よく理解してくれていると感じております。



 その日に学習した内容と、一言コメント。こういうのは、大方パターンを決めておいて、それに沿って書くのがよい。余計な手間を省き、相手にとっても読みやすいだろう。


「そろそろ十五分です。どう?」


 亜紀菜さんは私の問いかけにあまり反応を示さなかった。ノートを見せてもらうも、半分くらいしか解き終わっていない。――しまった、と感じた。思わず業務日誌の方に気を取られ、亜紀菜さんの進捗状況を把握していなかったがために、妙な手戻りが発生してしまった。


「えっと……そうか、この部分で止まっているのか」


 二問目の途中、この単元のミソとも言える部分でフリーズしてしまっていることに気づく。さっき質問を促したじゃねえか、と心の中で毒づいた。




 そんなこんなで、一日目の指導を終えた私は、ほっとしていた。非常にシャイではあるものの、亜紀菜さんはそこまで理解力が低いわけでもなく、至って真面目な様子で授業を聴いてくれる。宿題もほんの少しだけ課したけれど、あの分だとおそらくちゃんとやって来てくれるだろう。――なんて。

 しかし私は、その日の指導が原因で、向井さんから苦言を呈されることとなるのだった。




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