第4話

「まあ、眺めのいいところだわ」

「あなたと二人でここに来たかったのです」

私達は赤松の木のそばに立っていました。あたりを見回すと、美しい山並み、眼下には集落や川が見えました。

 あの方に手を引かれて風を感じながら歩くとまるで恋人同士のようでした。体の中心から湧き上がる熱と、とけてしまいそうな甘い気持ちを今でも覚えております。

 しかし、遠くに見える民家の煙突からのぼる煙を見て、ふと現実を思い出してしまいました。私は昨日、榊原家の嫁になったばかりなのです。私が食事を作ったり、お風呂を沸かしたりして支えていくべき人は、ホテルで眠っている夫なのです。

 あの方はそんな私の心を察したようでした。

「そろそろ帰った方がいいでしょう」

私は帰りたくなどありませんでした。しかしホテルの部屋から新妻がいなくなって、しかも別の男性とデートしているなど、知られてしまった時のことを思うと言葉にならないくらいの絶望感を感じてしまいました。


 あの方は淋しそうに笑ってこうおっしゃいました。

「お別れの前に、あなたに差し上げたいものがあります。手を出してください」

私が手を差し出すと、あの方は、半紙を折った小さな包みを手のひらに乗せてくれました。

「これは安産のお守りです。近いうちにお役にたつでしょうから……」

安産のお守り。その言葉に淋しさを感じてしまった自分に、罪悪感を覚えました。なぜそんなものをくださったのかと、怒りとも残念さとも少し違うやり場のない想いがあとから湧き上がってきました。


「さあ、行きましょう」

 あの方は、来た時と同じように、また私に手を差しのべてくれました。これが最後……。残された時間を思う存分過ごしたいと思い、今度はお姫様のように、かつて王子であったあの方の掌に、そっと手を乗せました。するとまた、あのめまいが私を襲いました。




「花江さん、花江さん……」

私の名前を呼ぶ声が聞こえました。目を開けると、私はホテルの部屋の玄関に置いた椅子に座り、壁にもたれて眠っていたようでした。呼んでいたのは主人でした。


「こんなところで眠っていたら、風邪をひきますよ」


……そこは紛れもない現実の世界でした。


「私、夢を見ていたようです」

私はお祭りが終わった後のような、なんともいえない淋しさを感じました。鏡を持ったままでしたが、反対の手に小さな紙の包みを持っていたので開いて見ると、中にはこよりの輪が入っていました。




 主人は男らしくて、仕事もできて、おもいやりがあって、家族としては最高の人でした。信頼し、尊敬し、家族として愛しておりました。何不自由なく暮らすことができ、優秀な息子や優しい娘に恵まれました。しかし主人は昭和の男を絵に描いたような人だったので、ついに恋人らしい甘い関係になることはありませんでした。


 榊原の本家の嫁としての私の重責は大変なものでした。舅や姑と同居し、たくさんいる親戚、古くからのご近所さん、主人の会社関係の方々とのお付き合いをこなし、専業主婦でありながら、やらなくてはならないことがたくさんありました。息子たちが結婚してからは、働く息子夫婦に代わって孫の面倒をみながら、舅、姑を看取りました。


 そんな私の人生を支えてくれたのは、あの方とのささやかな恋の思い出でした。もし、その思い出がなかったら、私の人生はいったい何なのだろう、女の幸せとは何なのだろうと、絶望的な気持ちになったことでしょう。でも、たとえ夢でも、あのささやかな時間があったから、私は耐えることができました。

 つらい時は、こよりの輪の包みを取り出して、しばしの夢に逃避していました。何度も何度もあの方との会話を思い出していたので、今も細かいところまで鮮明に覚えているのです。


 ハネムーンから帰ってから、何度も自分の手鏡に呼びかけてみたけれど、あの方は一度も現れませんでした。違う鏡ではだめなのか、現地へ行かないとだめなのか、など、散々考えた末に鏡に話しかけるのをあきらめてしまいました。

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