第3話
私が鏡に手を置くと、次の瞬間めまいがして、気づいたら森の中にいたのです。状況を受け入れるのに、少し時間がかかりました。そこは、小鳥がさえずり、空気のきれいなところで、少しひんやりしているような気がしました。すぐそばには小さな古い神社がありました。そして、私の目の前に立っていたのは、韓流時代劇のような衣装を着た男の人でした。
精悍な、という言葉はこの人のためにあるのだと思います。引き締まったお顔立ち、背が高くて肩幅が広くて胸板は厚く、鍛えあげられた身体。私はあの方のお顔を見上げ、蜜の甘さが全身を満たすような、今まで経験したことのない感覚になりました。この方のおそばにいたら、何があっても大丈夫と思えました。
あの方はにっこり笑って私を歓迎してくれました。
「よく来てくださいました」
私はうれしくて恥ずかしくて下を向いていました。そして、心臓の鼓動が強くなったのを感じました。あの方に促され、神社の低い階段に座ると、あの方も私の隣に座ってくれました。
「私は百済の王族の第二王子でした。生まれ育った地を追われ、命からがらこの地の海岸に流れ着いたのです」
「王子様でしたの? 私、大変な失礼を!」
「かまいません。どうか、気楽に話してください」
「あなたがそうおっしゃるなら……」
百済という国は歴史の授業で習った記憶があります。この人は昔の人なのかしら? 普通に考えたら、ありえないことですが、鏡の中から出てくるのだから、そのくらいのことはあってもおかしくはないと思いました。
それからあの方が話してくださったのは、まるで映画のような身の上話でした。
あの方のご家族、つまり、百済の王様と王妃様、兄である第一王子とその奥様、第二王子であるあの方、そして、弟の第三王子は、命を狙われ、追われていました。追っていたのは、おそらく政権を奪った人たちでしょう。万が一のことを考えて、(皆殺しを避けられるように、ということだと思います)二艘の船に分かれて乗り、逃げていたそうです。しかし、暴風雨に見舞われてしまい、二艘は別々の海岸にたどりついたのです。あの方はお父様と一緒の船だったので、お母様やお兄様が乗った船の無事を確かめられませんでした。どんなにご心配だったことでしょう。しかし、流れ着いた里の人びとがとても良くしてくださり、やがて山間部の盆地に住むようになりました。
やがて、お母様たちの無事を確認することができ、しばらくは穏やかに暮らしていらっしゃったのですが、再び追っ手が迫り、戦になったそうです。
この神社の近くで懸命に闘ったところまでは覚えているそうですが、目が覚めた時、なぜかひとりぼっちになっていたのだとおっしゃっていました。
「しばらくして、私はその戦いで亡くなったことを理解しました。私は魂だけになったようです」
「まあ、お気の毒に。それでは、あなたは幽霊なのかしら?」
そんな事を言う私をあの方はとても真面目な顔で見ていました。
「私が怖くないのですか?」
「平気だと申し上げたはずです。むしろ安らぎを感じるくらいですわ」
「さすがです。あなたらしい。ハハハ……」
私らしいって、一体どんな私だったのでしょう。
「その後、里の人びとが私を神として祀ってくれたので、私はこの神社の祭神となりました」
「まあ、神様なのですか? どうしましょう!」
「ハハハ……お気になさらずに。そのままのあなたでいてください。私もあなたといると安らぎを感じます。」
私は殿方からそんなことを言われるのは初めてだったので、恥ずかしくて慌てて話題を変えました。
「いつからここにいらっしゃるのですか?」
「千三百年ほど前からです」
「千三百年!」
あまりに長いので、何を言えばよいか、わかりませんでした。
「怖くなりましたか?」
そう言って私の目を覗き込むあの方の目はとても優しくて澄んでいました。
「いいえ。ちっとも。怖くなんかありません。神様とお話しできるなんて、光栄です」
私はそんな唐突な話を、なぜかすんなり受け入れることができました。あの方といると不思議なくらい懐かしくて癒されたのです。
「私の父、母、兄も、それぞれ別の神社に祀られています。普段私は一人でここにいるのですが、一年に一度だけ家族に会えるお祭りがあります。その日、父と兄は各神社の神職が運ぶ御神体と共に、ここにやって来るのです。大勢の神職の方々も集い、にぎやかなのですよ。それに、神楽の奉納があって、本当に楽しいのです。あなたにも見せてあげたい」
そう言って笑うあの方を可愛いと思ってしまいました。立派な男の方なのに、そう思ったのです。私はその笑顔のおかげでホッとすることができました。
「あなたは私を知っていらっしゃるの?」
「はい。あなたは千三百年ほど前、私がこの里に来た時、とてもよくしてくださったご家族の娘さんでした」
「それって……」
「はい。あなたは生まれ変わったのです。あなたは何度か生まれ変わって今のあなたになったのです」
「ごめんなさい。正直に言います。私はあなたを覚えていません」
「わかっています。それが普通なのです。」
「ごめんなさい! お許しください!」
私は申し訳なくて力一杯頭を下げました。
「どうか、本当に気になさらないでください」
あの方は私の肩に手をかけてそっと起こし、微笑んでくださいました。
「あなたは私が生まれ変わるたびに私と会ってくださっているのですか?」
「いいえ。私は見守ることができただけです。今日、初めてあなたが鏡を通して私を呼んでくださったおかげで、ついにお話しすることができました。とてもうれしく思っています」
あの方はまるで西洋の王子様のように私の前に手を差し出しました。
「花江さん、お手を……」
私は年頃になって、男性の手に触れるのは初めてだったので、自分の手の平ににじむ汗が気になり始めました。頬が熱くなるのを感じながら、恐る恐る手を乗せると、まためまいがして、次の瞬間、見晴らしのいい山の上にいました。私は大きく息を吸いました。
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