一等星
「あの子って、吸血鬼なの?」
「ああ、そうだ。じっとしてろよ」
汗をかいて、竜二さんが言った。
さっきから、絶対服従の待機命令が何度も出ている。仕方がないので俺とタクヤは、器用に目線だけを動かした。
本当に彼女が吸血鬼なら、人外の方とお会いするのは、本日二回目である。勘弁して欲しい。
竜二さんは、ずいっと前に進み出て、
「その子は連れて帰るぞ。お前の用事は済んだんだろ?」
「………………」
なに、こいつ。
気味が悪い。
竜二さんが声をかけても、何の反応もない。
ビー玉みたいな黒目で、ずっとこっちを見ている。
きっと、色取り取りのお花畑を散歩中なんだろう。
誘われたら面倒臭いので、さっさとコハルちゃんを連れてこの部屋から出てしまおう。
竜二さんの真似をして、すいっと前に出ようとすると、一歩目でカメラの三脚を蹴飛ばしてしまった。
渇いた音が響く。
「おい!」
ビクッとした竜二さんが、怒鳴り付けてくる。
【問】なんで、このタイミングで蹴飛ばすかなぁ俺は!
【答】三脚は
「わ、ワザとじゃないんだ! さっき下敷きになった足が、本調子じゃないのかな~?」
「階段、普通に上ってたろ?」
「そ、そうでした。ごめんなさい」
言い訳を許さない竜二さんに謝ると、運良く倒れなかった三脚を気にしながら、部屋の中央に向き直る。
あれ? 女がいない。
ベッドの上には二人いたはずなのに、派手な女が突然見当たらない……。
青春謳歌ちゃんが消えてしまったぞ!
「タクヤ! あの子どこいった!」
「えええ!! 知らないよ、僕もそっちを見てたから!」
チリっと左手の甲に熱を感じると、後方におぞましい気配がした。反射的に左手を引っ込める。
振り返ると、誰かの頭のてっぺんが見えた。
あ、いた。
「欲張り過ぎだ! クソ
俺とタクヤの間を掻き分けるように、竜二さんの巨体が割り込んで来た。猛り狂う牛のような突進を受けて、俺達は、たまらず吹き飛ばされてしまう。
一体何が始まった?
突然の展開に状況が掴めない。
「ブチ切れたぞ! くそがぁぁぁぁあ!」
竜二さんは、青春謳歌ちゃんを巻き込みながら壁に衝突。壁は、蜘蛛の巣模様の大きなひび割れが起きた。
そのまま、教科書には載せられない言葉を連発しながら、拳や肘を使って、青春謳歌ちゃんを殴りまくる。
何? 何?
だ、だめだ。死んじゃう! 死んじゃう!
竜二さんの
その広い背中が、何故か突然、ふわりと浮いた。
コマ送りのように、床に這いつくばった俺達の頭上を飛び越えて、ベッドの脇に落下する。
鉄筋作りの建物なのに大きく揺れた。
周辺の照明機材が根こそぎ破壊されて、吹き飛んできた部品が俺の身体を打っていった。
「うあああああ! 竜二さん!?」
信じられない気持ちで俺達は叫ぶ。
やられたのか? あの華奢な女に投げられたのか?
あの巨体が俺達を飛び越えて宙に浮くなんて!
竜二さんは鎌首をもたげると、すぐに立ち上がった。いつもみたいに不適な笑みを浮かべていたが、腕から血が出ていた。落下する際に、何かの機材で切ってしまったのだろう。
頭が三日月みたいに変形している。
目や鼻が違う場所で遊んでいる。
唯一、定位置をキープしている唇が、笑ったのか?
まさに、ニヤリといった感じで曲がった。
「……ジジッ……ジジ……。一等星よ。正当防衛が成立した。生存本能が赴くままに、
唇から漏れ出る声は女性のものだが、一昔前のロボットが喋っているかのように、デジタル感が満載である。
こんなに気持ち悪いのは初めてだ。
駆け上がる胃酸で食道が熱い。変な味がしてくる。
血相を変えた俺達は、一弦コハルを横たえたベッドを、風の速さで迂回。
お決まりのように竜二さんの背後に転がり込む。
確信した。あれ、吸血鬼。
「今から、あの不細工と殴り合うから、その子を連れて逃げろ」
竜二さんは前を見詰めたまま言った。
また、あの声音だ。俺達の反論を許さない厳しい声。
心得た! とばかりに反応して、一弦コハルを起こしにかかる。緊急時なので作業が荒い。肩口を掴んで揺さぶると、ブラウスが上がって白い脇腹が見えた。
これは変質者の二人組が、女子高生の
誓って人命救助だ。他意はない。
一弦コハルの眉間にシワが入ったと思ったら、嬉しい事に目覚めてくれた。俺とタクヤの顔を不思議そうに交互に見ている。
「よかった! いきなりで悪いけど逃げ――――!」
し、舌を噛んでしまった。
俺の言葉を遮るように、一弦コハルと見つめ合う視線上に黒い影が割って入ったからだ。空気を読めない誰かの後頭部。
嘘。この後頭部、あの女でしょ! 元青春謳歌ちゃん!
「あんたは、もう終わり! どこへ隠れても丸わかり! お友達にバイバイしときなよ! キャハハ!」
「キャ――――!!」
コハルちゃんの悲鳴が響く。
頭、治っとるやん。
青春取り戻してるやん。
そんな輝きを取り戻した後頭部に、無情にも太い指がかかる。
てい! と鋭く発声して、竜二さんは女を窓に向かって放り投げてしまった。
小柄だが、人間サイズの衝撃には耐えきれず窓は破壊される。
青い空、ビルや家々の屋根が遠くに見えたかと思ったら、ガラスの破片を身に纏った女が、重力の法則に従って落ちていった。
不気味なのは、女が笑った事である。
俺の目を見ながら、確かに笑っていた。
「よっしゃあぁぁぁあ!!」
竜二さんが
助かった、と安心していたら、竜二さんが窓に向かって走りだし、そのまま勢い良く頭からジャンプしてしまった。
すぐに視界から消えてしまう竜二さんに代わって、イヤッホー!! というアトラクションでも楽しむような黄色い歓声が届く。
「うわああああ!! ここ五階! ここ五階!!」
「竜二さぁぁぁぁぁん!!」
腰を抜かしながら驚く俺とタクヤ。
コハルちゃんは、まだ、よく分かってないみたいだ。
それでいい。俺らも、あんまり、理解したくないから……。
邪魔者が居なくなった部屋は、脱出し放題。
素早く忘れ物がないかを確認したら、さっさと作戦実行すべきだろう。
はい、点呼! はい、点呼! 揃った揃った出発です!
俺が二人を急かす。
せっかちな俺は、先に出入口まで走って、外が安全かを確かめた。
「コハルちゃん。いくよ!」
タクヤが肩を貸して、コハルちゃんと歩いてくる。
二人が追い付いて来る前に、階段の踊り場から下を覗くと、道路上でデカイ男と女子高生が、もつれ合っているのが見えた。
一階の新聞配達所前に停めてあった、沢山の
あそこには近付きたくはないが、俺達には翼がない。
降りるしかないのだ。
タクヤに連れられて来たコハルちゃんに、俺も反対側から肩を貸す。それから、ゆっくりと階段を下り始めた。
コハルちゃんは、所々階段が辛いようで、時折、俺達に体重を預けては、ごめんなさいと言ってくる。
こんな目に合わせた誰かを思って、俺の怒りが込み上げて来た。
だけど、今は我慢だ。
早く安全な場所に帰してやりたい。
段々と地上が近付くにつれて、物々しい喧騒が迫ってくる。
二階の踊り場に辿り着くと、ビルから飛び出して来た稲垣達と目があった。
「なんの音だ?」
稲垣は、俺達に支えられる一弦コハルを見たようだが、一瞬眉を潜めただけで、仔細を確認する事はなかった。
そりゃそうだろう。
あれだけ大金を積んだんだから。
いいから、大人しくしておけよ。
稲垣の取り巻きの一人が階下を指差す。
「おいおい、竜二さんかよ! 何やってんだ!」
階段の手摺から身を乗り出して階下を注視する稲垣と、その取り巻き。口々に、何だ何だと大騒ぎを始める。
駄目だ、見るな。
その喧嘩にかかわるな。
あああ……。
わちゃわちゃだ……。
収拾がつかなくなって困り果てていると、ふと耳元で声がした。
コハルちゃんが何か言ったのかと思ったが、違うようだ。
強い突風が吹いて、よろめいた俺達が顔をあげると、世界が真っ赤に変貌していた。
何もかもが真っ赤だ。
手摺から身を乗り出していた稲垣達も、頭から赤いペンキを被ったように染まり、乾いた塗料よろしく固まっている。
一弦コハルの身体から、強張った気配が伝わって来た。
「静ちゃん、いるの!?」
空を見上げてタクヤが叫ぶ。
この赤い世界は、
(……静ちゃん? ごめんなさい。違います……)
また耳元で声がした。コハルちゃんが小さな悲鳴をあげる。
声は男のものだ。だけど傍には、俺達以外誰もいない。
(……前です、前。見えませんか? ……)
前って……。
眼前には稲垣ファミリーが、奇抜な色彩で固まっているだけだ。
要領の得ない囁き声に、イライラしてくる。
すぐに、空を睨んでいたタクヤが何かを見付けた。その方角を見ると、黒いスーツを着た男が立っていた。
ごめん、間違った。
男が浮いていた。
稲垣の身体を越えた向こう、足場なんて無い場所に、その男は立っていた。
「ま、また出た……」
もう諦めの境地である。
次から次へと、何かが起こる。
先ほどまでの声の主は、おそらくこの男だ。
(……やっと見つけてくれましたね……お疲れ様でした。すぐに片付けますね……)
男の口元は動いていない。
十メートルは距離があるかと思うのに、一体どういうカラクリなんだ。
というか耳がくすぐったいので、今すぐ普通に喋って欲しい。
「あ、え~と……。と、取り敢えず確認の為に聞きますが、どちら様で?」
もう聞かなくてもいい気がするが、長年染み付いた社交辞令というやつで、俺は尋ねてみる。
(……一等星のアルデバランと申します……)
男の自己紹介が本当なら、本日、人外の方とお会いするのは、これで三回目。いや、静ちゃんまでカウントすると、これで四回目。
勘弁して欲しい。
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