金の力 別次元
目の前に建つのは、一階に新聞配達所が入っている五階建ての小ぢんまりとしたビルだ。
新聞を配達するための
二階以降に用事がある時は、このバイクの山を越えて行かなくてはいけないのだろうか? はたまた、入って来て欲しくないから、誰かがこのように駐車することを指示しているのだろうか。
俺には後者のように思えた。
このビルの裏手には、青空駐車場があって、
一弦コハルは、このビルのどこかにいるのだ。
そんな犯罪の臭いがするビルを見上げているのは、タクヤ、竜二さん、俺の三人組である。何故、竜二さんが合流しているのかと言えば、まあ、俺達がシェルタンから貰った似顔絵を持って、満々金に駆け込んだからだが、そこからトントン拍子に話が進んでしまって今に至る。
似顔絵の男が誰だか分かった。
稲垣淳一。三十二歳。
このビルを借りているテンロー不動産の客だったのだ。
稲垣は、はじめの頃は、このビルを拠点にネット通販の会社を運営していたらしい。
だが、半年程経った頃から、ガラの悪い連中が出入りするようになり、今では何をしているのか分からない状態だという。
テンロー不動産からしてみれば、毎月の家賃さえしっかりと納めてくれれば、別に何をしようがお構いなしなのだが、その賃料も滞納しがちで、竜二さんが出向いて取り立てをすることが、ここ最近多くなった。
その取り立てが、近々あると聞いて、俺達の事情を説明し、無理矢理予定を早めて貰ったのだ。
「恐らくは……だが」
ビルを見上げるのも飽きた頃に、竜二さんが口を開く。いつもの迷彩服ではなく、白いカッターシャツを着て、小脇に黒いバッグを挟んでいる。今日の竜二さんは、取り立て屋さんスタイルなのだ。
「借金で固められて、拘束されちまったんだろうな」
借金と聞いて、俺は信じられなくなる。
一弦コハルと借金という言葉が噛み合わないからだ。
「コハルちゃん、借金とかするかな? そういう風には見えないけど……。それに、まだ十六だよ? 借金出来んの?」
「出来ねえ。だけど色々やり方があるんだよ。お前らだって、携帯の料金が払えなくなったら、それは、ある意味借金じゃねえのか?」
「まあ、確かに……。借金してるって感覚はないけど、払えないと借金しているようなもんか」
「そうそう、本人が返さないといけないもんは、全部、借金しているようなもんだ。中身なんてどうにでもなるんだよ。だから、それがいる」
そう言って竜二さんが指差したのは、タクヤが大事そうに抱えている紙袋だ。途端にタクヤが、びくっと身震いをする。
ずっと紙袋を強く抱き締めているせいで、くしゃくしゃになっているが、それを咎めようとは思わなかった。中に入っているのは大金である。必要以上に力が入ってしまうのは仕方がない事だろう。
「一応、金を払ってくれるうちは、テンロー不動産の客だからな。俺らを頼るなら、こんな感じの畳み方になる。それでいいか?」
「全然構わないよ。とにかくコハルちゃんさえ無事なら、また稼げるし」
俺は躊躇なく答えた。
また稼げるといったのは、もちろんゾンビを倒して金貨を集めるという意味だ。それがどんなに大変な事かは身をもって知っているが、迷いはなかった。
じゃあ、行くかと言って、竜二さんがバイクをどかし始める。どかすというより、足で押して、無理矢理道を作っている感じだ。二台ほどバイクが倒れかかったが、密に駐車されているせいで、完全に倒れてしまうことはなかった。
塗装がほぼほぼ剥げてしまった金属の階段で二階まで上ると、上半分が磨りガラスになっているドアがあった。竜二さんが銀色のドアノブを回すと、鈍い金属音と共にドアノブが取れる。
「ちっ。鍵かけてやがったな。ど阿呆が」
ドアノブを階下に投げ捨てながら、そのまま鍵が壊れたドアを押して建物の中に入ってしまった。
「よし! 俺達も行くぞ!」
「う、うん!」
タクヤが緊張しているのが伝わってくる。
俺もだよ。声がでかいのは、自分を誤魔化すためだ。
だけど、ここまで来たぞコハルちゃん。頼むから無事でいてくれよ!
入ってすぐに受付のようなカウンターがあり、カウンターを越えた所に、事務所机が四台と、その数と同じだけのノートパソコン、LANケーブルやコンセントの配線が、机の上から無造作に床に投げ出されてあるのが見えた。
机には、それぞれに男が腰かけていて、先に入った竜二さんと和やかに話をしている。
だが、非常に人相の悪い、ラフな服装をした男達だ。
左右に目を這わすと、壁沿いには段ボールが無数に積み上がっていて、今にも崩れそうである。左手の奥の窓の近くにソファーが対面に並べられており、商談スペースのような場所があった。そこに、一人の男が煙草の煙を吐きながら、ソファーに沈んでいる。
あの男だ。
一弦コハルを
稲垣を確認するや、タクヤがその方向に歩き出す。それを竜二さんが見つけてストップをかけた。
「タクヤ。俺が話す」
ずかずかと竜二さんは奥まで歩いていき、稲垣とテーブルを挟んで反対側に座る。俺達を手招きして呼び寄せると、自分の両端に座らせた。
その間、稲垣は特に何の反応もなく、ただ、煙草を
「よう、稲垣さん。調子はどう?」
竜二さんは明るく挨拶するが、無表情だ。煙草の煙が顔に当たって、どちらかと言えば不快そうだ。
稲垣は上半身を起こしてきて、テーブルの上にある、吸い殻で一杯の灰皿に煙草をねじ込んだ。その時に俺達の顔を確認したようである。
「別に……。見たらわかるでしょ。調子なんて良くないよ。で? そいつらは何者なの?」
軽く俺達を顎で指して、稲垣は面白くないっといった表情をした。竜二さんが答える。
「こいつらかい? まあ、俺の舎弟みたいなもんだ。気にしないでくれ」
「ふーん……。まあ、いいけど。今月は随分と来るのが早いんだねぇ」
「まあね。流石にうちのオヤジも、こうも毎回振込みが遅れてちゃ、心配だっつってね、俺をこきつかう訳よ。稲垣さん。先月の家賃と今月分を足して八十万。今日は払ってくれるかい?」
「八十万か……。手元にあったかなぁ……」
おい! と稲垣は部屋の入り口を向いて発声する。パソコンを操作していた男がサイドデスクの一番下の引き出しを開けて、中から手金庫を取り出した。
それをこちらに運んできて、ソファーの前、吸い殻が山盛りの灰皿の横に置く。
稲垣は、新しく煙草に火をつけて、手金庫を開けにかかった。凄いヘビースモーカーである。きっとこの人は早死にしちゃうだろう。
細い目を更に細めながら、稲垣は中から一万円札の束を取り出す。煙が顔面を這っていくので、数える作業がやりにくそうだ。まずは、煙草を置けと伝えてやりたい。
手慣れた手付きで、一万円札を揃えると、口に咥えた煙草をようやく取って、稲垣は言った。
「わりぃ。手持ちが七十万だわ。竜二さん、もうちっと待ってくれ」
その瞬間だった。
竜二さんが右手を振り上げたと思ったら、そのまま拳をテーブルに叩きつけた。
信じられないような光景だが、そこそこ分厚い木のテーブルが真っ二つに割れて、手金庫と吸い殻の山が空中に浮かぶ。
俺の足の爪先に激痛が走ったと思ったら、可哀想に右足が、破壊されたテーブルの下敷きになっていた。
「痛い――!! 足痛い――!!」
俺は、情けない大声を出してしまう。
竜二さんが俺を振り返って、驚いた顔をした。
「コウタ! なんで足だしてんだよ!」
「そんなに出してない! 超痛い!!」
「大丈夫? どうしたの!?」
タクヤまでが俺を覗いてくるが、痛みで耐えるのが必死だ。部屋の入り口まで、片足でピョンピョンしながら歩いていって、早々に退散してしまいたいぐらい痛い。
「後で、手入れしてやるから、待ってろ」
竜二さんは、ばつの悪い顔をして稲垣に向き直った。だけど口元が、ちょっと、にやけている気がする。悪い男だ。人が激痛と戦っているのに、そんな様子を見て、笑いを
くそ、テーブル破壊するなら、最初に言っておいてくれよ!
「さてと、稲垣さん。テーブル悪かったね。ちょっとイラっと来ちまって……。弁償しようか?」
せっかく竜二さんが詫びを入れたのに、稲垣は灰だらけで呆然としている。
「稲垣さん。聞こえているかい? 弁償するけど、いくらなんだい?」
再度の問い掛けに稲垣は答えず、黙って立ち上がると、事務所机に座っている男達の方に歩いていった。
男達も大きな物音がしたので、当然こちらを見ているが、稲垣を迎え入れると小声で話し出した。
その間に竜二さんが、俺に足の具合を尋ねてくる。
痛いとしか言いようがなかった。また、にやけている気がする。
しばらくすると稲垣が戻ってきて、竜二さんの前に札束を差し出す。
「八十万だ。数えてくれ」
受け取って竜二さんが数え始めるが、中に千円札も混じっている。有り金をかき集めてきたような感じがした。切羽詰まるというやつである。
誰だってそうなるだろう。破壊するのに大きなハンマーが要りそうなテーブルを素手で叩き割るのだ。急所じゃなくても、殴られたら死んでしまう。
「きっちり八十万。確認したぜ稲垣さん。ありがとよ」
竜二さんは、上機嫌で言った。本当にテーブル代は弁償しなくていいのかと、もう一度尋ねるが、稲垣はもういいと言わんばかりに、疲れた感じで片手を振った。
竜二さんは立ち上がろうとして、ふと何かを思い出したような芝居がかった仕草をして、それを止める。
「そうそう、稲垣さん。まだ用事があったんだ。ちょっといい?」
まだ何かあるのかと、うんざりした表情を稲垣はする。
「なんだい竜二さん。もう払ったんだから、さっさと帰ってくれないかい? 俺だって仕事があるんだよ」
「悪い悪い。じゃあ、はっきり言うけど、若い女の子。
竜二さんがそう言うと、疲れたサラリーマンのようだった稲垣が、身構えたような気がした。それから、思い出したようにソファーに座る。
「たちの悪い事を言わないで欲しいな。拐ってなんかねえよ。本人の意思だ」
「嘘だ」
ボソッと聞こえたのは、タクヤの声だ。
舌打ちをして、稲垣は続ける。
「嘘じゃねえよ。借金して金が払えねえから、両親に取り立てるって言ったら、自分で働いて返すと言いやがった。だからここにいる。もうすぐ仕事を割り当ててやる所だ」
「コハルちゃんは借金なんてしないだろ。騙したな」
タクヤの声から怒りが滲み出ている。俺も同意見だ。コハルちゃんは汚い大人に騙されたのに違いない。
「騙してなんかいねえよ。ちゃんと契約書もある。待ってろ」
「いやいや、もういいよ稲垣さん」
稲垣が立ち上がろうとするのを竜二さんが止める。
「ちなみに、名目は何なんだい? 何の支払いが滞ったの?」
「機材のレンタル代や、カメラマンの人件費だよ。あの女、全部タダだと思ってやがった」
「レンタル代ねぇ……」
と言いながら、竜二さんが俺の方を見る。俺は激しく首を振った。
一弦コハルは、モデルのバイトだと言っていた。これじゃ話がまったく違う。最初から
「……いくらだよ。コハルちゃんの支払い分は俺が払うよ」
急に話に割り込んできた俺を見て、稲垣は鼻で笑った。
「え? お前彼氏か? 払えんの? 結構な額だけど」
「だから、いくらだよ?」
「百五十万」
稲垣は勝ち誇って、また煙草に火をつけようとしたが、ライターが見つからずに諦めた。
俺に支払い能力がないと、判断しているのだろう。人を小馬鹿にするような、薄い笑いが浮かんでいる。俺は、稲垣が面倒くさく感じてしまって、タクヤに目配せした。タクヤが頷く。
「タクヤ、二本でいいわ。出してあげて」
「了解」
タクヤが紙袋の中から、無造作に百万円の束を取り出すと、稲垣はぎょっとした顔をした。
タクヤの手元を信じられないといった様子で眺めている。
破壊されてしまったテーブルに置くことも出来ないので、タクヤは百万円の束を二つ、稲垣の顔面にずいっと差し出した。
「受け取れよ」
竜二さんが言うと、稲垣は素直に受け取った。それから俺が、精一杯凄みながら声を絞り出す。いつもは出さないような低い声だ。
「二百万ある。それでコハルちゃんの事は諦めろ」
「…………」
「コハルちゃんは連れて帰るぞ。文句ないな?」
「……ちっ。わかったよ。連れて帰りな」
「証文? 契約書は?」
「それも分かってるよ。おい!」
再び事務所机に座っていた男が、サイドデスクの中から紙を取り出してこちらに歩いて来た。
稲垣はその紙を乱暴に受け取って、目の前のタクヤに渡す。
「五階だ。外の階段で行け」
「もうコハルちゃんとは会うなよ」
稲垣が手に入れた二百万を見て、少し気分が高ぶっているような気がして、俺は念押しをする。
金だけ取られて、約束を反故にされてはかなわない。
「わかってるよ。金さえ貰えればそれでいい」
この稲垣という男。
芯の欠片もない、いい加減な奴に思えるが、先にコハルちゃんだ。彼女を早く迎えに行ってあげなくては、とても心細くしているだろう。
「稲垣さん。約束だよ。破ったら今度は天狼が出てくるからね」
竜二さんがそう言うと、急に稲垣は背筋を伸ばした。それから不満顔になる。
「何なんだよ。天狼って、こいつらに肩入れすんのかよ」
「言っただろ、舎弟だって、それに個人的にお前が嫌いだ」
稲垣はまた、ぎょっとした顔をした。それからゆっくりとうつ向いて震えだす。
暫くして竜二さんが、行くかと言って立ち上がった。百五十万でいいのに、五十万ほど余計に払ってしまったが、それには手切れ金も含んでいるつもりだ。もう、こんな表か裏かもはっきりしないような、中途半端な男に、コハルちゃんの近くをウロウロされたくはない。
こんな古いビルに一人きりで、一弦コハルは孤独に押し潰されそうになっているだろう。早く迎えにいかなければいけない。
痛めた右足で階段の終点まで辿り着き、薄っぺらいドアに手をかけようとすると、後ろから竜二さんの声がした。何故だか緊張しているような、余裕のない感じだ。
「待て、俺が先に行く」
「え? なんで?」
「いいから、代われ」
それ以上の反論は許さないような、竜二さんの厳しい表情に、俺は先頭を譲る。竜二さんがドアノブを掴むと、今度は何もしていないのに、ドアノブが取れた。そのまま慎重にドアを押しながら部屋の中に入っていく。
竜二さんの大きな背中越しに部屋の中を確認すると、見えづらいが、どこかのスタジオで使用していそうな照明機材や、カメラを置いた三脚が見えた。レンズが覗く先には大きなベッドが設置されてあって、その上に制服を着た二人の女の子が絡み合うように寝そべっている。
すぐに分かった。一人は一弦コハルで間違いない。
もう一人は一体誰だろう?
というか、そんな事はどうでもいい。
コハルちゃんの安否が先だ。
ドアを開けて、人が中に入って来た気配は充分に伝わっているはずだが、ピクリとも動かないぞ。
「コハルちゃん! 大丈夫? 迎えに来たよ!」
「待て!!」
ベッドに近づこうとする俺の首根っこが、太い腕に締め付けられる。
「タクヤも駄目だ! 動くなっ!!」
竜二さんの鋭い声が、部屋の中に響き渡る。
竜二さん、一体どうしたの? 首の手を離してくれないと、意識が跳んでしまいそうだ。ちょっと力緩めて……。く、くるしい……。
部屋の中央にあるベッドの上で、ようやく片方の女が上半身を起こした。一弦コハルは、まだ横たわったままだ。
女は、明るく長い髪を二個にわけて結び、学生服には似合わない派手な化粧をしている。気だるそうに俺達を見つめていた。
俺の耳元で、竜二さんがやべぇな、と言った。
何がヤバイのか知らないが、とにかく首を、首を離してくれないと俺が窒息してしまう。
「もう! 離してくれよ! コハルちゃん! 聞こえるか? 迎えに来たよ!」
俺が呼びかけても、一弦コハルはピクリとも動かない。どうしたんだ? 気でも失っているのか? 派手な女の子は、相変わらず俺達を見たままだ。
いい加減腹が立ってきて、竜二さんの腕を乱暴に振りほどく。だが、今度は両脇をぎっちり固められて、さっきよりも動けなくなってしまった。
「くそ! 離せよ! タクヤ、コハルちゃんの様子を確認してくれ!」
竜二さんの駄目だという大声が、また響き渡った。
「その子は諦めろ。もう刻印されちまってる」
「え? 刻印って……」
思わず聞き返す。そこに寝ているのだ。訳の分からないことは後回しにして、とにかく無事を確認させて欲しい。
「そいつは、有名な吸血鬼だ。それ以上近づくなよ」
竜二さんは、ようやく俺を解放する。
振り返ってみると、竜二さんは大量の汗をかいていた。視線の先には、うつろな目をした、あの女がいる。
吸血鬼って……。あの派手な女の子の事?
半信半疑な俺を尻目に、お手上げだ、という風に竜二さんは笑って見せた。
「死んでも死なないアルキオネ。くそ、面倒な奴と出くわしちまったぜ」
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