命乞いをしろ
交番の中にはデスクが二つ向かい合わせに設置されてあって、事務仕事をしていると、どうしても前の人物が視界に入ってくる。
座っているのは近藤という警察官だが、全身から滲み出ている暗いオーラが、油断していると、こっちのデスクにまで侵食してきそうで気が気でない。
まったく勘弁してもらいたいものだ。
闇を好む吸血鬼にだって、ここまで重苦しい空気を纏っている奴なんてそうはいない。
こいつは本当に人間なのだろうか。
そこまで考えてシェルタンは笑ってしまう。
くだらない事を考えてしまうのは、暇すぎるせいだろう。事務処理が終わって、もう一時間ぐらい経つ。そろそろ交番前に立って、付近の警戒任務につくとしよう。
「なあ近藤。お前、まだ終わらないのか?」
近藤は一瞬こちらを見てから、デスクに向かって、すいませんと呟いた。
ちっ、イライラする人間だ。
一日中机にかじりついて、勤務が明けるのを待っているだけだ。血税がこいつの給料として払われていると知ったら、納税者は何て思うだろうか。
交番を出ようとした時に、一人の女性が出入り口に立っているのが見えた。黒い大きな眼鏡に重たすぎる前髪。一見してお洒落とは遠い存在であるように思えるが、肌が透き通るようで、少しだけ見えている鎖骨が美しい。
空腹感を覚えて腹が鳴りそうになるが、手の平で押さえて必死に耐えた。
「すいません気が付かなくて。どうかしましたか?」
「あっちで男の人達が暴れています。来てもらえますか?」
「わかりました。すぐに向かいます。おい、近藤!」
近藤は机にしがみついたまま、顔を上げようともしなかった。
まったく、頼むよ。
お前らの揉め事だろうが……。
「もういい、留守番していろ」
有事があった際に、現場に駆けつけるのは複数が基本である。そんな初歩的なルールすら守れない、この相棒に心底嫌気がさしてきた。
だが何も問題はないだろう。
所詮人間が暴れているだけだ。軽く捻ってやれば収まるに違いない。
前を歩く女性は、小柄ながら進むスピードが速い。
ともすれば置いていかれそうになる。
案内しますと言ったきり、口をつぐんでいるが、一体どこまで連れて行く気であろう。
住居が途切れてきて線路沿いに出たが、この先に何かあったであろうか。
電車が過ぎるのを待って遮断機を潜ると、踏み切りを渡った右手に工場が見えてきた。
小柄な女性は振り返ることもなく、工場の敷地に入って行く。ここは閉鎖された工場だ。二年ほど前まで工業部品を作っていたと思うが、今は誰もいない。
建屋の入り口まで続く道には、草が繁り放題になっている。
こんな所で誰が暴れているのか?
もう帰ってしまったのではないか? 暴れているような気配がまったくしない。
それでも女性は、割れたガラスのドアをこじ開けて中に入って行こうとする。
「本当にここで男が暴れていたんですか? 何人くらい? 先に入るのは危ないから、ちょっと待って下さい」
シェルタンが声をかけると、女性は建屋から半分身を乗り出して小さく奥を指差した。そして制止も聞かずに中に入って行く。
おいおい。
どいつもこいつも、勝手な奴ばっかりだな。
ドアを外から閉めて閉じ込めてやろうか……。
男どもがまだいるのなら、暫く遊んでもらえばいい。死ぬほど後悔した後に、助けに行ってやるから。
暫く耳を澄ませてみるが、何の物音もしなかった。
面白くない。もう誰も中にはいないのであろう。
愛想のない女を適当にあしらって、さっさと交番に戻るとしよう。
「誰もいないようですね」
シェルタンが建屋に入ると、背中を向けた女性が奥に立っていた。見渡す限り女性だけだ。他に誰もいないし、何かが暴れたような痕跡も見当たらない。
「もう立ち去ったのでは?」
声が聞こえていないのかと、シェルタンが訝しんだとき、やっと女性が振り返り返事をしてくれた。
「三等星のシェルタンだな」
女性が発言すると同時に、見えている薄暗い景色が鮮烈な赤色に塗り替えられていった。同時に頭の中で何かが沸騰するような激しい痛みを覚える。
頭の様子を分析にかけてみると、沸騰しているのは血であった。外部からの力で、血液が異常な高温になっているらしい。
すぐさま意識を集中させて、外部からの力を断つ。すぐに血液は常温に戻っていった。
「な、何をする……。小娘が!」
「それはこっちの台詞だ。ウジ虫」
「き、貴様は一体誰だ?」
同胞なのは分かっている。
だが、同胞を襲うことは絶対の禁忌の一つなのだ。
それをいきなり破ってくるような奴に、心当たりがない。
「アストラ」
「あ、アストラだと……」
言われて思い出した。
昨日噛みついた人間に、この小娘の烙印が押されていたのだ。なるほど、これは正当な抗議だ。
だが、申し開きをしなくてはいけない。
俺は血を吸ってはいないと。
「吸ってはいない。俺は血を吸ってはいないぞ!」
アストラは、どこの派閥にも属さない、はぐれの吸血鬼だ。それゆえゾンビーゾンビーの管理者をしていたはずだが、このような姿形であったであろうか?
ゲーム内に登場する彼女は銀髪で、燃えるような瞳をしていた筈だ。
「血を吸ってはいないか……。遅いんだよ、それじゃ……。そんな事も分からないのか?」
「確かに噛みついてしまったが、それだけだ。すぐに解放した!」
「噛みつくなよ。ウジ虫が!!」
相当、怒り心頭のご様子だ。
こちらの話を、まるで聞こうとしない。
仕方ない。
先程の頭痛攻撃が来る前に、片をつけてしまおう。これは正当防衛だ。すでに奴の攻撃で脳の細胞が焼かれている。傷跡を見せれば一等星達も納得するであろう。
「やれやれ。これだからお子様は困ります」
と言ってシェルタンは高速移動を始める。
例え吸血鬼であろうと、このスピードについてこれる者は少ない。一瞬で相手の懐に入り、爆発を伴う攻撃でねじ伏せるのが、いつものやり方だ。
アストラの背後をとると、手刀を細い首に振り下ろす。意図も簡単に肉が宙を待った。
しかし、予想に反して飛んだ肉はアストラの首ではない。自分の肉だ。殴りかかった肘から先が千切れて空を舞っているのだ。
「な、なんだと――!!」
ゆっくりとアストラが振り返る。
その動きは、まるでスローモーションのようだ。
「さて、シェルタンよ。助かりたかったら、命乞いをしてもらおうか。タクヤくんにも聞こえるように、しっかりと謝罪してもらおう」
「な、何を言って……がっ、やめろ……」
アストラの右腕が、胸を突き破って侵入し、心臓を鷲掴みにしている。
駄目だ。殺される。
再生がまるで間に合わない。
延々と生きる筈なのに、ここで終わってしまうのか。
「さあ言え。命乞いをしろ!」
《はっくしゅん!》
《うわ! びっくりした!》
《ごめんごめん! 鼻がムズムズする》
《頼むぜ。マイク外してくれないと、耳がやられるわ》
タクヤが突然大きなクシャミをしたので、鼓膜にダメージを負ってしまった。
結局俺達は、飛んでいったアストラを追いかける術もなく、家に帰ってゾンビーゾンビーをプレイしている。
もうアストラさんに振り回されちゃ駄目だ。あっちは放っておいて、俺達のプランを粛々と進めよう。
一時間ほどゲーム内でぶらぶらしているが、どうしようかと悩んでいる事がある。それは一千万円の使い道だ。
ガチャをするには全然金額が足りないが、他の課金アイテムを購入するべきかを考えている。
経験値が二倍になるアイテムや、ゴールドドロップが増えるアイテムがあったはずだ。
これらを併用して、レベルアップに励めば効率がいいように思えるのだが、貴重な一千万円を早くも使っていいものか?
次の金曜日になるまでに失敗は許されない。救世主の助言が欲しいところだが、奴はまだ姿を現さなかった。
向こうも一日中ログインする訳にもいかないだろうが、姿を見せてくれないと心配である。
それは、別れ際に非常に気になる事を言い残していたからだ。
【吸血鬼の一人を怒らせてしまったんだよ】
俺達は電気街で吸血鬼に遭遇したが、運良く天狼に救われた。もし、救世主が一人で吸血鬼と対峙する羽目になっているのなら、彼の身が無事なのかが疑問である。
救世主は高レベルプレイヤーだし、身に付けていた装備も、素人が見てもレア物だった。
だが、どれくらいの準備をすれば吸血鬼と互角に渡り合えるのか、まだ見当もつかない。
彼が居るのと居ないのでは、ゲームクリアに雲泥の差が出てくるだろう。無事に生き残って、色々とまた指南をして欲しい。
何より、俺達に親切にしてくれた唯一の存在と、もう会えなくなるのは、とても寂しい。
《救世主さん。無事かな……》
俺の心が読めるのだろうか。
タクヤがヘッドフォンの向こうで呟いている。
《無事だといいな。今日会えたらいいけど》
《うん。そうだね。会ったら一緒にパーティーしたいね》
《確かに。それと情報交換も出来たらいいな。天狼については、ノミのオヤジさんに確認してからだけどな》
今日は様子見といこうか。
課金なしで、取り敢えずプレイを続けよう。
ゴールドも順調に貯まって来ているので、新しい装備を視野に入れてもいい。
《さて、いきますか》
《おう!》
相変わらず二人が操作するキャラは、奇抜な格好をしているが、誰も周りに居ないのだ。気にする必要もない。
街の外に出てみると、さっそくゾンビが湧いてきた。さあ、俺達の経験値となってもらおうか。この狂ったゲームが終わるまで、付き合ってもらうぞ。
プランが決まっているお陰で、前向きになれる。
絶対に二人で生き残ってやるぞ。
ふいにドアが開くと、割れていたガラスの窓から破片が剥がれて地面に落ちた。
ドアから出てきたのは一人の女性だ。
ドアを全開にして、右手をタオルのようなもので、念入りに拭いている。
やがてタオルを投げ捨てると、ゆっくりと歩きだした。廃屋のような建物から出てくるのは女性だけかと思われたが、少しして男が姿を現した。
男は警察官の制服を着ているようだが、ボロボロである。片袖が千切れて、胸に大きな穴が空いている。さらに、広範囲に渡って何かが染み込んだように変色していた。
その姿からは、何かの事件に巻き込まれたかのような想像を受けるが、男は平然としている。
そして、前を歩く女性に敬礼をしながら声をかけた。
「
女性は歩くの止める。
それから振り向く事もせずに言った。
「……
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