日常
「見えますか? あの交差点を右です」
「えっと……。すまないが、もう一度」
「次の交差点を右です。わかりますか?」
「右だね。右にいけばいいんだね。それからは?」
「後は真っ直ぐです。ああ、そうだ。良かったら案内しましょうか?」
「え? 本当かい。お巡りさん。助かるよ」
「いえいえ。ちょっと待って下さいね。おい! 近藤、留守番頼む」
交番で事務仕事をしていた、もう一人の警官が気の抜けた返事をよこす。
近藤という警官は真面目だが、覇気がまるでない。
夜勤明けでもないのに、いつも眠たそうだ。
犯罪行為が起こった時に、警察官の本分をまっとう出来るのだろうかと心配になる。
しかも悪い噂をよく耳にした。
夜な夜な繁華街をうろついているそうだ。
別にそれが悪いというのではない。どこかの店に寄るわけではなく、ただうろついているのが気味が悪いのだ。一体あの界隈で何を目的に徘徊しているのか。
「すぐ戻るからな。わかったな近藤」
近藤の返事を聞くわけでもなく、親切な警察官は腰が曲がったお婆さんをエスコートしながら歩き出す。
この地区は治安もよく、警察が出動する事件など滅多に起こらない。今日もこの年寄りを目的地まで送っていったら、あとは勤務時間が終わるまで、事務仕事になるだろう。
あの近藤に押し付けてやってもいいが、それをする程の量もない。それにあの目。時折死んだ魚のような目でこっちを見てくるのだ。あまり関わりたいと思う相手ではなかった。
「さあ、着きました。これで帰れますね。三十五番のバスに乗ってください。あ、ちょうど来ましたね」
「ああ、どうも有り難う。助かりました」
バスに乗るのを手伝っていると、窓際に座っている女性と目が合った。色の白い、華奢な娘だが品のよい美しい顔立ちをしている。
「では、私はこれで。お気をつけて」
と言った瞬間にグゥーと腹が大きく鳴った。
バスのエンジン音でも消せない音量だ。
品の良い娘と、また目があった。
「す、すいません。何も食べてなくて」
娘はにっこりと微笑んだ。
とても気まずい時間が流れるが、すぐにバスのドアがしまって視界が遮られる。
窓際の娘は、美しい横顔の余韻を残して走り去っていった。
「はぁ。腹がすいた。まったく情けない」
食わなくても一ヶ月ぐらいは何の問題もない。
ただ、日に日に飢餓感が増していくだけだ。それに耐えるのが、とても辛い。
昨日の失敗は寄り道をしてしまった事だ。
強い輝きを放つ生命力を感じたからだが、いつも通り、女性の血だけを求めていればよかったのだ。
「慣れないことは、しない事ですね」
自嘲気味に警察官は笑う。
食事の邪魔をした天狼には、一泡吹かせてやるつもりだ。もと一等星シリウスが仕切っている組織だが、もう彼等は吸血鬼ではない。ならばいつも通り、狩りの時間が始まった瞬間に襲いかかるだけだ。
だが、腕っぷしの良い者達が揃っているようだ。
また、食事が出来ないと大変困る。こちらも充分過ぎる準備をして行こうじゃないか。
天狼に恨みを持つ者は案外多い。
金曜日までに、そいつらに声をかけておこう。
あの女。
天狼の生意気な女。
あいつの血は、どんな味だろうか?
元吸血鬼の女だ。まったく想像がつかない。
グゥーとまた、腹が大きく鳴った。
「うう……。腹が減った。目が回りそうだ」
交番に戻ったら、またあの無気力な人間の相手をしなくてはならない。帰る足取りが異常に重たかった。
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