天狼
やられた。
何の躊躇もなく、シェルタンがタクヤの首筋に噛みついたのだ。
「うわああああ! やめろ――!!」
取り乱すだけ取り乱して、慌てて二人の間に割って入る。
だが、掴んだ肩が、腕が、まるで動かない。
全力で挑んでも、まったく引き剥がせない。
やっぱり血を吸うのか! 吸血鬼はやっぱり血を吸うのか!
早々に諦めて、木の棒で何度もシェルタンを殴る。
確かな手応えは伝わって来るのだが、羽交い締めにしたタクヤを、離してはくれなかった。タクヤの首から下が、痙攣しているのがわかる。
「離せっつってんだろうが!!」
もうお構いなしに、顔や頭、腕に背中を、目についた順番に力の限り殴る。砂袋でも叩いてるかのような感触だ。
いい加減うっとうしくなったのであろう。
コバエを追い払うように、俺の武器は弾かれる。右手に強烈な痺れが襲い、左手で庇おうとした時に、腹に蹴りを食らってしまった。
よたよたと、後ろによろめいて地面に座り込んでしまう。
……くそ、タクヤを離しやがれ……。
顔だけを上げてうずくまっていると、ガタイの良い若いグループが目の前を通り過ぎた。反射的に助けを求めて手を伸ばす。だけど空を掴んだ。
そうだった。触れないんだ、誰にも。俺の声も届かないんだ。
よろよろと立ち上がってシェルタンを睨むと、ふいに噛み付くのを止めた。代わりに、タクヤの左手を掴み上げて甲の部分をじっと見詰めている。
何をしているんだろう?
小さな安堵と共に疑問が生まれる。
束縛が解けたタクヤが逃げ出そうとするが、掴まれている左手が、振り払えないようだ。
「君は予約済みだね。血が吸えないよ」
吸血鬼は、つまらなそうに言いながら左手を離した。バランスを失って、タクヤはもんどりを打つ。
「大丈夫か?」
蹴られた腹を押さえながら、駆け付けてタクヤを抱き起こす。首に小さな穴が二つ空いていた。少しだが血も出ている。
「大丈夫だよ。それより前! 前!」
「ああ! 分かってる!」
シェルタンがゆっくりと歩いてくる。
何とかしないと、凄くヤバい。
タクヤに噛み付きやがって、この野郎!
その時に閃いた。
これはいけるかも知れない。
今日の俺は結構冴えているのかも。
「俺達はアストラの知り合いだぞ! いいのか? こんなことをして!」
吸血鬼の交友関係なんて知るよしもないが、これは時間稼ぎだ。少しでも疑問を抱かせたら、それでいい。とにかく引き伸ばして、手段を考えなければ。
使えるものは何でも使う。それが俺のスタイルだ。
確か、前にも言いましたよね?
「ああ、やはりそうなんだ。君の手に刻印があったから、誰のだろうと考えていたんだよ。古い刻印だから分からなかった」
シェルタンに言われてタクヤの手を見てみる。
俺達には刻印なんてものは見えなかった。
予約済みって、どういう事だ?
吸血鬼が食事に使う獲物を、他の誰かに取られて仕舞わないように印をつけているのか?
俺の陳腐な想像力では、そんな事をするやつは一人しか思い付かない。
あの純粋無垢な姿をしたアストラという吸血鬼がやったに決まっている。
「じゃあ、仕方ないね。そこの君。非常に不味そうだが、君でいいや……」
タクヤの代わりに、俺の血が吸いたいようだ。
アストラも腹が立つが、今はこの紳士気取りのエセ警察官だ。時間稼ぎすらさせて貰えない。
どうしたらいい? こっちの攻撃はまるで通じない。
一体どうしたらいいんだよ!
中年吸血鬼に指名されてしまった俺は、後ずさりを開始する。指名客が近づいて来るからだ。
「む、無理に吸わんでもいいんですよ?」
「そうなんだけど……。せっかく寄り道したしなぁ」
「嫌だ! 痛そうだ! 俺は注射も苦手なんだよ!」
「大丈夫。すぐ終わるから。ね? ちょっとだけ。痛くしないから頼むよ~」
どんだけ頼まれようが、おっさんに首筋を甘噛みされる覚えなどない! 一生のトラウマになってしまうわ! 全力で回避しなくては……。
こうなったら仕方ない。
一か八かだ。もう、あれでいこう……。
「ふっ。くそ吸血鬼が舐めるなよ。見せてやるよ。全てを灰にする禁断のアイテムを……」
やれやれ、困った人ですね、と言わんばかりに、
そのまま左手をガウンのポッケに入れて、何かを掴む振りをした。
もちろん禁断のアイテムなんか持っていない。だって禁断なんでしょ?
「なんだと? まさか! もう課金アイテムを使えるのか?」
かかったと思った。
やっぱり、今日の俺は冴えてる。
シェルタンが面白いぐらいに動揺しているぞ。
この前、課金リストを眺めていた時に、それっぽいアイテムが売ってたんだよな。円の桁が凄すぎて、最後まで確認しなかったけど。
「あっちの方角に、すっげえ美人プレイヤー!!」
「なんだって!!」
アホなのか。吸血鬼という種族は。
美人はアイテムじゃねえよ。
投げられた骨を追いかけていく、ワンチャンみたいに反応したぞ。腹が減りすぎて、冷静な判断が出来ないのか?
シェルタンは、俺が指差した遥か彼方を、目を凝らして探している。今にも駆け出していきそうだ。
この隙に全力で逃走させてもらおう。
タクヤは後で迎えにくるからな。
大丈夫なんでしょ? 僕と違って君だけは。
くるりと逃げに転じた途端、背中の方から重い衝撃音が響く。その刹那、黒く大きな物体が、俺達を
物体は七転八倒しながら地面を進み、改札前の柱に激しく打ち付けられて止まった。ぐにゃりと折れるように地面に這いつくばって動かなくなる。
顔が見えないが、警察官の制服だ。
間違いない。倒れているのはシェルタンだ。
え――! 何で吹っ飛んでんの――!
「よう! 大丈夫か?」
ビクッとした後、声の主に目を向けると、そこに居たのは筋肉隆々の大男。迷彩服に身を包み、バシッと決めたリーゼントがとても凛々しい。ファイティングポーズをゆっくりと解除しながら、鋭い目で俺達を見ている。
竜二さんだ。
まさか、まさか、まさか! まるで夢みたいだ。
俺達が見えているのか?
助けに来てくれたのか?
「で、何でこんな所で襲われてるんだ?」
「え? なんでって、それは……。それは言えない!」
俺の頭に、アストラの忠告が甦る。
第三者にゲームの事を漏らしてはいけないのだ。
「ふ~ん。何か訳アリだな。まあ、いいや。後でゆっくり聞かしてくれや」
そう言うと、竜二さんはシェルタンに向かって歩き始めた。肩に手をかけて首をゴキゴキと回している。
まさか竜二さんも、ゾンビーゾンビーのプレイヤーなのか? 俺達と同じ境遇なのか? いや、でも、何か訳アリだなって……。
「いつまで寝てんだよ。さっさと起きろや。ここが天狼の縄張りだって知ってんだろ?」
唾をはいて、竜二さんが啖呵をきる。
地面を抱擁していたシェルタンだが、挑発されるとピクリと動いた。それから、重力を無視するように不自然な立ち上がりかたをする。
「ええ。もちろん知っていますよ。すぐに立ち去るつもりだったんですけどねぇ」
「で、どうすんの? やんのか?」
ほっぺたを指でポリポリとかいて、シェルタンは不気味に笑った。
「では、ちょっとだけ遊んでいきましょうか?」
そう言うと、シェルタンは掻き消えた。
消えたのではないだろう。高速で移動しているせいで、俺達には目で追えないのだ。
「がっ!」
という声の方向を見ると、今度は竜二さんが殴られていた。だが、竜二さんは違った。シェルタンのように不様に地面を転がる訳ではなく、後ずさりはしたものの耐えている。
「なかなかやるねぇ。いいパンチだ」
両の手を胸の前でクロスに構えて、竜二さんは笑っている。余裕だ。
これ、女子なら誰でも惚れてしまうパターン。
何? あの不適な笑み。少年漫画に出てくる主人公みたいなんだけど。
「ふん、偉そうに。すぐに肉の塊にしてあげますよ!」
明らかにイラついて、シェルタンが喚く。
両腕を突き出して、手のひらを開いた。顔面に邪悪な笑みが広がっていく。
「塵になれ! 虫けら! ら! ら――」
壊れたレコードのように、シェルタンは何度も同じ台詞を繰り返している。
俺達には見えている、何でそんな事態に陥っているのかを。
マリアさんだ。
身体のラインがくっきりと出る、鼻血が出そうな黒いスーツに身を包んで、後ろからシェルタンの頭を鷲掴みにしている。指が額に食い込んで、メチャクチャ痛そうだ。
「やめないか!」
シェルタンが叫ぶ。
そのまま首の骨が折れそうなぐらい身体を反転させて蹴りを放つ。マリアさんは華麗に跳躍して、それを避けた。アダルトショップの店員がする動きではない。
「私に命令すんな!! クソガキが!」
「オラ! 余所見すんなよ!」
吠えながら竜二さんとマリアさんの突進が始まる。おそらく俺達の知り合いの中で、最強だと思われる二人組に囲まれて、シェルタンは分が悪そうだ。
激しい殴りあいが展開される。
三人ともノーガードで打ち合っているもんだから、見ているこっちが痛くなる。特にマリアさん。女性なのに長い髪を振り乱してシェルタンに襲いかかる様は、なんだか狂気じみている。あの人に逆らわなくて良かった。サンドバッグにされてしまうところだ。
突然、爆音と共に空間がはぜる。
小型のミサイルが撃ち込まれたように、アスファルトに大きな穴が空いていた。
続き様に二度三度と音がする。
振動が俺達の頬を激しくなぶっていった。
どうやらシェルタンの仕業らしい。
手のひらを振るう度に、赤い液体が飛び散り、それが地面に付いた途端に爆発しているようだ。
竜二さん達は、機敏に動きながら攻撃をかわしている。
「さあさあ本気を出しますよ!」
シェルタンの本性が浮かんだように顔面がひきつっている。まだ、何かやろうとしているのか?
それとも、殴られ過ぎておかしくなってしまったのか?
もうそこら辺、穴だらけだ。俺達も離れないと巻き込まれる。
「レッツ! ゾンビーゾンビー!!」
シェルタンはオーケストラの指揮者のように、見えないタクトで空中に線を描く。時には激しく、時には繊細に。
一通りの所作が終わった後、恭しく俺達にお辞儀をした。そして叫ぶ。
「カモォォォン! ゾンビィィーロォォオォド!!」
シェルタンは、紳士的な渋いキャラ設定なんだと思っていた。だが、この考えは間違っている。
簡潔にのべるなら、自己陶酔型で、達の悪い迷惑野郎だ。愉悦に顔が歪んで、天国にいっちゃいそうな程、興奮している。
すぐに、ジェット機が近づいてくるような音がしたかと思うと、空から巨大な物体が降ってきた。着地した瞬間に地面が衝撃で割れてしまう。
「なんだなんだ!」
「コウタ! ちょっと離れて!」
知らぬ間にタクヤを抱き締めていたらしい。
すまん! と言って突き飛ばす。それから二人でガタガタと震えた。
土煙が収まった後に、信じられない光景を見たからだ。二階建ての屋根に届くであろう人の形をした物体が目の前に立っていた。
一番気になる所を説明しよう。
すんごいデカイのは紹介した。次に目を引くのは頭だ。頭が象なのである。何故、象さんなのかは放っておいて、その象の頭が、ツギハギだらけで筋肉ムキムキの身体に据え付けられている。
手には巨大な斧を持っていて、軽々と振り回している。あんなので殴られたら一瞬でミンチにされてしまうだろう。
これはもう逃げ一択だ。
何かしようなんて思っても駄目な相手だ。
「コウタ。これ借りるぞ」
「私も、これ借りるわね」
俺の伝説の木の棒を竜二さんが取り上げ、マリアさんは、タクヤの棍棒を肩に担ぎ出した。
えっ、ちょ! 皆で逃げようよ!
あんなパオーンなデカブツに、どうやって挑むんだよ!
「さて、ここはゾンビーロードに任せて、私は他の場所に行くとしましょうか。貴方達と絡んでいると、中々血が吸えないのでイライラしますよ」
シェルタンは、警察帽を拾い上げ埃を払う。
「逃げんのかい?」
マリアさん。挑発するのやめて。
「もう時間がないのでね。腹が減ってたまらないのです。力も出やしない。なので退きます。もし生きていたら、また会いましょう」
「こんなゾンビ。五秒もあれば終わるけど、それも待てないわけ?」
マリアさんは、帰宅準備をしている吸血鬼の邪魔を続ける。
なんて性格の悪い女性なんだ。
黙って見送ってやってくれよ。
「何とでも言うがいいよ。貴方達天狼は、必ず始末します。今日のこの屈辱は高くつきますよ」
「あっそ」
シェルタンが黒い闇を纏ったように見える。
球体の形をとりながら、黒い塊が膨張していき、限界まできて弾けた。
そしてシェルタンは消えていた。
どうして俺も連れていってくれないのか。
あんなパオーンにミンチにされるより、せめてスマートに血を吸われるほうが良かった。
感傷にふける間もなく、地面が振動する。
パオーンが歩く度に小さな揺れが起こるのだ。
嫌だ。ミンチは嫌だ。
死ぬときはお布団の上で、俺は死にたい!
赤黒く明滅を繰り返す象の目が、目標を決めたようだ。何の躊躇いもなく、持っている巨大な斧を竜二さん目掛けて振り下ろす。
「危ない!」
と俺は叫んでいた。なのに竜二さんは、急落下してくる斧に向けて、木の棒をフルスイングする。
耳が痛くなる金属音がして、斧が真っ二つに砕けた。でかい破片が、俺達のほうにまで飛んできて、巻き添えで命を落としそうになる。
「マジで?」
「はははは……。竜二さん。凄いや……」
俺達が呆気に取られていると、今度はマリアさんが棍棒を担いだまま、パオーンの正面に跳躍した。
その高さは高く、世界陸上が今開催されれば、断トツで金メダルである。
だって普通、ジャンプで二階のベランダには行けないでしょ? この人、家の鍵が閉まってても、二階から入れちゃうよ。
「五秒だ」
そう言い放つと同時に棍棒が唸る。
パオーンの長い鼻がマリアさんに迫ってくるが、先に鈍器の一撃が脳天を砕いた。雷が地上に落ちたような轟音がする。
パオーンは両膝をつき、それから前のめりに倒れた。ご丁寧に、俺達に覆い被さって来たので、慌てて脱出する。
「さあてと、お前ら。ここで何してた?」
土煙がおさまらぬ内に、パオーンの後頭部を踏みつけてマリアさんが俺達を睨む。まるで映画のワンシーンのようだ。
この人達は一体何者なんだ? 吸血鬼のことも知っているし、この強さは尋常じゃない。
「待ってくれ。俺達は何も喋れないんだ」
腰が抜けたように、地面に座り込んでしまった俺は、棍棒を担ぐ女性を見上げる形になってしまう。
あ、この角度。
丸見えだ。
俺の大切なチビコウタが丸見えだ。
それが原因なんだろう。
マリアさんの目は、怒りに満ちている。
「喋れない? それが命の恩人に対して言う台詞か?」
「もちろん滅茶苦茶感謝してるよ。でも駄目なもんは駄目。絶対無理だ!」
「どうせ脅されているんだろ? 吸血鬼に」
マリアさんが俺を殴り殺しそうな顔をしているので、竜二さんが助け船を出してくれた。
隣でタクヤが何度も頷いている。
おい、知らないぞ。ゲームの事を漏らしたら近しい人が死ぬんだぞ。もっと慎重に行動しろよ!
「連行しちゃおうか?」
マリアさんの色っぽい唇から、恐ろしい言葉がでた。
「だなぁ。ここじゃ話せないしな。おい! お前ら二人。満々金まで着いてこい」
「いや、駄目だって竜二さん! 俺達喋れないの!」
「その辺は心配すんな。いい場所がある。何でこっちに来てんのか知りたいし、パンツぐらい履けや」
竜二さんは、最後にさらっと傷つく事を言う。
俺も気にしているんだよ、このコーディネート。
でもお金がなくて次の装備が買えないの!
この人達からのお誘いを、断る事が出来ないのは肌で分かる。もし話せるのなら、全部話してしまいたい。それが正直な気持ちだ。
そういえば、ゾンビーゾンビーはマリアさんの店で買ったんだ。マリアさんは本当に何も知らないのだろうか?
「分かったよ。ついていく。タクヤもそれでいいな」
「うん。きっとその方がいいよ」
相変わらず俺達は電気街で幽霊のようだ。
今、喋ってるタクヤの身体を、急ぎ足の女性が通過していった。
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