[4] 防衛体制の再構築
春の明るい陽光と激しいにわか雨の下で「運命の日」を待つベルリンは悪夢のような非現実感に支配されていた。つい最近まで、ベルリンは全ヨーロッパを占領した帝国の首都だった。その時の状況を思い起こさないことは不可能だった。かつて壮麗を誇った建物群は空襲で破壊されていた。前面の壁だけになり、上方の窓から空が見える。小柄なポーランド産の馬に曳かせた干草運搬車を乗り回すドイツ兵の姿は装甲兵力の凋落ぶりを一層ひき立たせて見せた。
ベルリン防衛地域にはヴァイトリンクの指揮下にいる諸部隊を含めて4万5000人前後の国防軍およびSSと4万人をやや上回る国民突撃隊が配属されていた。首都防衛の中核を担う第56装甲軍団はこの時すでに、かなりの痛手を受けていた。第9降下猟兵師団はほんの一部しか残っていなかった。「ミュンヘベルク」装甲師団は損耗して名ばかりとなり、第20装甲擲弾兵師団はこれに比べてまだマシな状態だった。第11SS装甲擲弾兵師団「ノルトラント」と第18装甲擲弾兵師団だけが相対的に戦力を維持した状態にあった。ヴァイトリンクは第18装甲擲弾兵師団を予備として拘置することに決め、他の雑多な部隊をさまざまな防御線を取り巻くように分散配置した。
ベルリン市の防衛線は八区画に分けられ、AからHまでの文字で表されていた。各区画の指揮官には大佐が任命されたが、その中に実戦経験者はほとんどいなかった。周縁防衛線の内側、Sバーン(近郊鉄道)環状線沿いに内側防御線があり、一番内側が南のラントヴェーア運河と北のシュプレー河に挟まれた区画だった。頼りに出来る防御拠点は
ヴァイトリンクは第56装甲軍団の配置を基にした防衛計画書を交付したが、その計画に記されたようにはベルリンの防衛態勢は組織化されていなかった。この問題は国防軍とSSの対立が根本にあり、最前線では互いに上手くやっていたものが、指揮系統を上がるにつれて反目が強くなっていたのである。中央官庁街ではSSのモーンケ少将が総統官邸を基地とする2000人余りの守備隊を指揮していたが、ヒトラーから防衛の責任を負っていたモーンケはヴァイトリンクに連絡を取る意志は持っていなかった。
どの将官も信用しないヒトラーは第12軍に対する総統命令を「ヴェンク軍の兵士たち」向けの放送で流していた。宣伝相のラジオがこれに便乗した。
「総統はベルリンから命令を発し、米軍と戦闘中の部隊を早急に東方に移動させて、ベルリン防衛に当たらせるよう指示した。16個師団がすでに移動中で、近々の内にベルリンに到着するものと期待できる」
おびえきったベルリン市民はゲッベルスが約束した第12軍来援を信じないではいられなかった。しかしこの時、ベルリン救援に駆けつけた唯一の軍勢はドイツ軍ではなく、フランス人の義勇兵部隊だった。
4月24日未明、SSのクルーケンベルク少将はベルリン北方100キロ余りに位置するSS演習場で電話に叩き起こされた。この演習場ではポンメルン地方から撤退して以来、第33SS装甲擲弾兵師団「シャルルマーニュ」の残兵が宿営していた。電話はヴァイクセル軍集団司令部からだった。理由も何も告げず、相手の幕僚はただちにベルリンに向かうよう命じた。クルーケンベルクは集合した将兵に訓示し、志願して自分とともにベルリンに向かう者はいないかと問いかけた。圧倒的多数がこれに応じたらしい。クルーケンベルクは選抜した90名の兵員を伴ってベルリンに向かった。
クルーケンベルクが真夜中にベルリンの総統地下壕に到着した時、地下壕では皆が驚いた。誰かが外部から包囲を突破してここまでたどり着くとは予想していなかったのである。クレープスは自身の驚きを大っぴらに表明して、この48時間に多数の将校や部隊にベルリン来援を命じたが「やってきたのは貴官1人だ」と語った。
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