[3] キュストリン攻防戦

 第1白ロシア正面軍はオーデル河の西岸に2つの橋頭堡を築いていた。2つの橋頭堡の間にあるキュストリンはベルリンへの門として知られていた。ベルリンから東に80キロ、オーデル河とヴァルタ河の合流点に位置し、ベルリンからケーニヒスベルクに至る幹線道路―国道1号線にまたがっている。キュストリンは独ソ両軍にとって作戦上の要衝だった。ジューコフは2つの橋頭堡―第5打撃軍が確保する北の橋頭堡と第8親衛軍が確保する南の橋頭堡を一体化して、来たるべきベルリン攻略に備えて戦闘序列を整えるために広い地域を作ろうとした。その間にヒトラーはフランクフルト・デア・オーデルから5個師団をもって反撃に出て、南から第8親衛軍を包囲する案に固執していた。

 オーデル河の橋頭堡における戦闘は熾烈を極めた。ある村を占領したソ連軍は家の中にナチSA(突撃隊)の制服や鉤十字旗スワスチカを発見すると、しばしばその家にいた者全員を殺害した。それでもソ連軍が占領したある村をドイツ軍が奪還した後、その村の住民は「ロシア軍について否定的なことは何も語らなかった」という。

 オーデル河西岸の状況は悲惨だった。オーデル湿原は半ば耕作された湿地であり、塹壕を掘るために1メートルも掘り下げないうちに水が湧き出てくる場所も多い。熟練した兵員の欠乏もさることながら、弾薬と車両用燃料が不足していた。どの砲兵隊も許可なしには発射できない状態で、1日の割当量は砲1門当たり2発だった。

 3月22日、第8親衛軍はオーデル河西岸の橋頭堡を拡大するためにキュストリン要塞を攻撃した。第9軍は反撃を行うために序列変更中だった。交替兵力が到着しない内に、第25装甲擲弾兵師団がキュストリンに通じる回廊から撤退した。第5打撃軍と第8親衛軍はキュストリンを孤立させた。

 3月27日、第9軍はフランクフルト・デア・オーデルから北のキュストリンに向かって反撃を開始した。2個装甲擲弾兵師団(第20・第25)、総統警護師団、「ミュンヘベルク」装甲師団が第8親衛軍を奇襲し、キュストリンの郊外まで到達した。チュイコフがドイツ軍に夾叉されていることに気づいた直後、先任参謀が負傷し、副官の1人が戦死した。しかし第9軍の攻撃は急速に弾みを失い、開豁地ではたちまちソ連軍によってなぎ斃されてしまった。

 3月28日、総統官邸地下壕の雰囲気は張りつめていた。ヒトラーはブッセが報告しているにも関わらず突然、「なぜ攻撃に失敗したのか?」と尋ねた。ブッセや他の誰かに答える暇も与えず、またしても陸軍将校と参謀本部の無能ぶりを糾弾する長広舌をふるい始めた。グデーリアンはヒトラーに対して、キュストリン攻撃に加わった指揮官―ブッセとハインリキを擁護した。2人のやり取りは次第にエスカレートして爆発寸前の様相を呈した。会議に参加していたグデーリアンの副官はこう記している。

「ヒトラーの顔はますます青くなり、グデーリアンの顔はますます赤くなっていった」

 ヒトラーはスケープゴートを探していた。自身をドイツ国民と完全に同一視したヒトラーは自分に逆らう者はすなわちドイツ国民に逆らう者であり、国民は彼なしには生きていけないと信じ込んでいた。カイテルとグデーリアン以外の一同に席を外すように求めた後、ヒトラーは健康回復のためベルリンを離れるようグデーリアンに命じた。事実上の解任である。後任の陸軍参謀総長に就任したのは参謀次長クレープス大将だった。

 陸軍総司令部とヴァイクセル軍集団の参謀将校たちはこの日の出来事にショックを受けた。独裁者と将軍の関係は1本の藁によって繋がっているに過ぎないことをキュストリンの攻防戦は証明したのである。

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