[2] 混迷する戦争指導

 第三帝国の領土は今や本国と合わせてノルウェーとイタリア北部に至る狭い帯状の地域にまで縮小していた。後はその外側に点々と孤島のように取り残された地域が存在した。グデーリアンはノルウェーに駐留する大規模な守備隊とクールラントで包囲されている北方軍集団の残余をドイツ本国に戻したいと再三要請したが、その都度にヒトラーは却下した。領土が蚕食され続けているにも関わらず、軍事的常識を無視するヒトラーに軍の指揮官たちは絶望的な気分に陥った。

 ヒトラーはこの時期、以前から一転してベルリン軸心の戦線―オーデル河正面に関心を持つようになった。ポンメルン地方とオーデル河下流における防御陣地が崩壊したことに合わせて、2月27日以来の攻撃によりクールラントで包囲された部隊があまり長く持ちこたえられないことを悟ったのである。

 ここ数か月に渡って、ヒトラーは公衆の前に姿を見せていなかった。このことにゲッベルスは不安を覚えた。宣伝相に説得されて、ようやくオーデル河の前線訪問に同意した。主にニュースス映画に収まるためだった。

 3月13日、ヒトラーはオーデル河の前線に赴いた。この訪問は極秘にされた。SSがあらかじめルートを徹底的に調べ、総統一行の到着直前に警備兵を配置した。実際、ヒトラーは一般兵士とは一度も顔を合わせなかった。ヴリツェンの古い屋敷に指揮官たちが説明も無しに召集された。一同は老いさらばえた総統を見て驚いた。ヒトラーはオーデル河防衛線の維持は必要不可欠だと語り、第9軍に対してキュストリン南方にあるソ連軍の橋頭堡を撃滅するように命じた。だが、オーデル河の防衛線を守る第9軍の上級司令部―ヴァイクセル軍集団には信頼できる指揮官がいなかった。

 ヴァイクセル軍集団司令部はベルリン北方90キロ、ブレンツラウの南西ハスレーベン村付近の森の中に設置されていた。首都からこれだけ距離があれば、空襲の危険はまずあるまい。そう考えて安心していたヒムラーだったが、軍集団司令官にかかるストレスはあまりに大きかった。インフルエンザにかかったヒムラーはグデーリアンに知らせもせずに、ハスレーベンから西に約40キロ離れたサナトリウムに引きこもった。

 グデーリアンが司令部の混乱状態を聞きつけて、ハスレーベンに車で乗りつけた。SS出身の同軍集団参謀長ラマーディング中将までもが何とかしてくれと泣きついた。ヒムラーがサナトリウムにいると聞いたグデーリアンは一計を案じ、そこに赴いた。貴官はSS帝国指導者、ドイツ警察長官、内相、補充軍司令官、ヴァイクセル軍集団司令官とあまりに多くの職務を抱えているので明らかに過労なのだ。グデーリアンはヒムラーに言った。そして、ヴァイクセル軍集団司令官のポストを返上なさったらいかがとほのめかした。ヒムラーが自分から総統に言い出せないでいるのが見え透いていたので、グデーリアンは「貴官さえよろしければ、私から具申しましょうか?」と持ちかけた。ヒムラーは拒否しなかった。

 3月20日の夜、グデーリアンはヒトラーに対してヒムラーをヴァイクセル軍集団司令官から罷免するよう進言した。そして、後任の同軍集団司令官に第1装甲軍司令官ハインリキ上級大将を推薦した。ハインリキはラティボルで第1ウクライナ正面軍と戦った実績がある。ヒムラーを軍司令官に選んだことが間違いだったと認めるのを嫌がったヒトラーはさんざん渋った後で承諾した。

 3月22日、ハインリキはヴァイクセル軍集団を引き継ぐためにハスレーベンに赴いた。到着の知らせを受けたヒムラーは司令部に戻り、自己弁護だらけの戦況説明を始めた。ハインリキはいつ終わるとも知れぬこの長談義を拝聴せざるを得なかったが、そこで電話が鳴った。ヒムラーが受話器を取る。相手は第9軍司令官ブッセ中将だった。キュストリンでとんでもない事態が発生したという。ヒムラーは即座に受話器をハインリキに手渡した。

「あなたが新しい軍集団司令官だ。しかるべく答えてくれたまえ」

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