[2] 東プロイセンからの脱出

 ダンツィヒでは人口が150万人に膨れ上がり、少なくとも10万人の負傷者がいると推定された。混乱の中でSSと野戦憲兵隊は落伍兵を手当たり次第に捕らえ、脱走兵として樹木に吊るして処刑した。その首には「総統を信ぜざりしゆえに、われここに絞首さる」といった類の札がくくりつけてあった。食料は絶望的に欠乏していた。2万1000トンの補給物資を積んだ運搬船一隻が機雷に触れてしまい、ダンツィヒとゴーテンハーフェンに配給されるはずだった6日分の物資もろともバルト海に沈んだ。

 ドイツ海軍は引揚の援護に並外れた粘り強さと勇気を発揮した。絶え間ない空襲とソ連バルト艦隊潜水艦の雷撃の脅威を冒して、支援艦砲射撃を続行した。2隻の重巡洋艦―「プリンツ・オイゲン」と「ライプツィヒ」、旧式戦艦「シュレージェン」は包囲するソ連軍に主砲で砲撃を加えた。

 3月22日、ソ連軍はダンツィヒとゴーテンハーフェンを結ぶ外周防衛線の中央を突破した。まもなく両港は際限ない空襲に加えて、砲火を浴びることになった。戦闘爆撃機が市街と港湾地区に機銃掃討を加えた。地上攻撃機シュトゥルモヴィクは民間施設と軍事目標を区別しなかった。まだ地面の上に突き出している目ぼしい建物を全て潰そうとしているのではないかと思われる程の猛爆を加えた。波止場で乗船を待っていた負傷者は担架に寝たまま、機銃弾をもろに浴びた。脱出の順番を逃がすまいと必死になって長い行列を作る数万の婦女子は絶好の目標になった。

 ドイツ海軍は給仕船、艀、艦載短艇、タグボート、Eボート(高速魚雷艇)などありとあらゆる船を利用して近くの半島の先端にある小さな港ヘラに民間人や負傷兵を運んだ。海上の駆逐艦が対空砲火でこれらの小型船に出来る限りの支援を与えた。

 3月26日、ポーランド抵抗組織の若い女性がゴーテンハーフェンの防備配備図を第1親衛戦車軍司令官カトゥコフ上級大将にもたらした。最初こそカトゥコフはこの図が謀略ではないかと疑ったが、後に本物だということが分かった。ソ連軍がゴーテンハーフェン近郊に迫るにつれて、ドイツ海軍は港が陥落する前に出来るだけ多くの市民を疎開させようとした。救出船が港を往復するテンポをますます速めたが、これらの小艦艇群に新たな危険が迫った。第1親衛戦車軍が海上目標に対して砲撃を加えていた。救出はますます危険な仕事になった。

 東プロイセン最北端のメーメルから最後に引き揚げてきた「大ドイツ」装甲軍団のある小隊はまたしても同じ体験を繰り返さねばならなかった。ソ連軍は戦闘を交えながら港に迫っていた。丸天井の地下室に避難した小隊は数個のカンテラが照らす中で、医師が分娩を介助している光景を見た。

「子どもの誕生は普通なら嬉しい出来事なのだが」ある兵士が書いている。「この異常な状況での出産は、全般的な悲劇にさらに輪をかけるものように思われた。母親の呻き声は悲鳴だらけの世界では何の意味を持たないし、赤ん坊の泣き声はまるでこの世に生まれてきたのを後悔しているように聞こえた」

 港に向かう道をたどりながら、兵士たちはいっそ死んだ方があの子にとって幸せではないかと考えた。地平線にもうもうと立ち込めた黒煙の中に、赤い炎がいくつも上がっている。ソ連軍による最後の攻撃が始まった。この日の夕刻、ソ連軍はゴーテンハーフェンの市街地と港を制圧した。その間、南のダンツィヒも西方から猛攻にさらされていた。

 3月28日、ダンツィヒも陥落した。第2軍は東方のヴィスワ河口に撤退してそこで包囲されたまま終戦を迎えた。国防軍将校でポンメルンと東プロイセンの出身者にとってハンザ同盟の建物が残るダンツィヒの失陥は大きな痛手となった。それはバルト海岸におけるドイツ人の生活が永久に終わることを意味していた。

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