第49章:両翼の掃討(後)

[1] バルト海を目指して

「最高司令部」は第2白ロシア正面軍に対してポンメルンの掃討を命じ、増援として第19軍と第3親衛戦車軍団がフィンランドから到着した。第1白ロシア正面軍も協同してバルト海岸を目指して北方に攻撃をかけることになり、両両面軍の作戦目標はシュテッティンと定められた。

 ソ連軍の秘匿措置は万全だった。ヴァイクセル軍集団はきわめて大きな先入観―敵はベルリンへ進撃するという推測に囚われ続けていた。そのため2月24日にポンメルン掃討作戦が開始されるまでヴァイクセル軍集団は防御に関する準備をしておらず、充分な敵情も得ていなかった。

 2月24日、第2白ロシア正面軍はグルジャの西にあるヴィスワ河橋頭堡からポンメルンへの突進に乗りだした。第19軍(コズロフ中将)がノイシュテッティンとバルテンブルクの中間地帯を目指して北西に進撃したが、この攻勢は頓挫してしまった。ロコソフスキーは第5親衛戦車軍を投入して強引に進撃を続けた。第5親衛戦車軍と第3親衛騎兵軍団の連携した攻勢によってポンメルン防衛の要衝だったノイシュテッティンは早々に陥落した。

 攻撃の矢面に立たされたのは第2軍だった。第2軍は東プロイセンからフリッシェ・ネーリング砂嘴沿いにヴィスワ河口に至る最後の陸上連絡路をまだ維持していた。同軍の東翼はノーガト河東岸のエルビングにあり、マリエンブルクのチュートン騎士団の城塞を足がかりにヴァイクセル軍集団の中で最も広い戦域を担当していた。

 3月1日、第1白ロシア正面軍はバルト海岸に向けて攻撃を開始した。この戦域に集結した2個戦車軍(第1親衛・第2親衛)によってドイツ軍の脆弱な防御陣は破られ、弱体化した師団に勝ち目はなかった。先鋒の戦車部隊は不意を衝かれてこわごわ見守る市民たちを後目に町々を通過して突進した。

 3月4日、第1親衛戦車軍はコルベルク付近でバルト海岸に達した。最初に海岸に到達した第46親衛戦車旅団長モルグノフ大佐は海水を瓶に入れて、ジューコフと自分の直属上官である第1親衛戦車軍司令官カトゥコフ上級大将に送った。

 第2軍全体と第3装甲軍の一部はいまや第三帝国から完全に切り離された。第2軍司令官ヴァイス大将はこれ以上エルビングを保持することは不可能であると総統司令部に報告したが、ヒトラーは非情にも「将官どもはみんな嘘つきだ」と切り返した。

 3月6日、第1親衛戦車軍は一時的に第2白ロシア正面軍の指揮下に入ってダンツィヒまで海岸線の掃討を続行した。これは西から大きく回り込んでポンメルン東部とダンツィヒを掃討しつつ、南から第2打撃軍がヴィスワ河に並行して北進するという挟撃作戦を企図したものだった。バルト海上からの重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」の艦砲射撃に援護された第2軍は第2打撃軍の攻撃によって孤立した。

 3月8日、第2軍はマリエンブルクの城塞を放棄せざるを得なくなった。ヴァイスが警告した通りにエルビングも2日後に陥落した。西と南からソ連軍に挟撃された第2軍は後退してダンツィヒとゴーテンハーフェンの防衛に回った。ヒトラーはエルビング陥落の責任から第2軍司令官ヴァイス大将を解任した。後任の同軍司令官には前「大ドイツ」装甲軍団長ザウケン中将が命じられた。

 3月10日、第1親衛戦車軍と第19軍がラウエンブルクに到達した。

 3月12日、ザウケンは新しい任務の説明を受けるために総統官邸に呼び出された。ヒトラーはグデーリアンにダンツィヒ周辺の戦況を説明させた。ヒトラーは大管区指導者から今後の指示を受けるよう命じたが、ザウケンはこれを拒否した。日ごろヒトラーにたてついていたグデーリアンもザウケンの態度に驚いた。会議に出席していた者たちをさらに驚かせたのは、ヒトラーが黙ってこれを容認したことだった。

 3月13日、ザウケンはダンツィヒに航空機で向かった。その胸中では難民で溢れているはずであろうダンツィヒとゴーテンハーフェンの両港から出来るだけ多くの民間人と負傷兵を避難させようという決心を固めていた。

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