[5] ハイリゲンバイル包囲戦

 第1白ロシア正面軍は容易にかわすことができたが、ヴァイクセル軍集団による「冬至」作戦は「最高司令部」に対して早期にポンメルンからドイツ軍を掃討することを決定させることに繋がった。

 2月9日、「最高司令部」は第2白ロシア正面軍に対して第1白ロシア正面軍と協同してポンメルン地方のドイツ軍を掃討するよう西方への進撃を命じた。この命令に伴い、ケーニヒスベルクとその周辺に包囲されたドイツ軍の撃滅は第3白ロシア正面軍に委ねられることになった。第3白ロシア正面軍司令官チェルニャホフスキー上級大将はケーニヒスベルクを攻略する前に、同市の南西に広がるハイリゲンバイル孤立地帯を攻撃することを定めた。この地域にはこれまでの戦闘で損害を受けた第4軍(ミュラー大将)の残存部隊(20個師団)が撤退してきていた。

 第3白ロシア正面軍は兵力の再編を終え、180キロに及ぶドイツ軍の防衛線に対して攻勢を再開した。第3白ロシア正面軍の強力な砲撃にさらされても、第4軍の抵抗は粘り強かった。特に第5軍(クリュイロフ上級大将)が迫ったツィンテンでは激しい交戦が行われた。第4軍は第562歩兵師団と第24装甲師団の各1個連隊を送って反撃を実施したが、第5軍は第4軍の手強い抵抗を排しながら徐々に前進した。

 2月14日、第5軍はツィンテン=ケーニヒスベルク間の鉄道を遮断した。同正面軍麾下の3個軍(第2親衛軍・第31軍・第50軍)でも戦況は似たようなものだった。塹壕戦を一つ制圧する毎に緊迫した戦いを強いられ、大きく前進することは出来なかった。

 北方軍集団(レンデュリック上級大将)は撤退に必要な時間を稼ぐために後方部隊や国民突撃隊、警察部隊、さらにドイツ本土からバルト海を渡って来着した補充部隊を前線に投入して抵抗を強めた。フリッシェス・ハフにはシュテッティンから船で弾薬や装備が運搬された。これと並行して、東プロイセンの住民と第四軍の疎開作業が進められた。

 2月16日、第4軍はツィンテンの南で部隊が包囲されるのを避けるために撤退を開始した。第3白ロシア正面軍は勢いに乗って後衛部隊を排除しつつ敵を追撃した。しかし第3軍は北西にフリッシェス・ハフに向けて進撃するにつれて、絶え間ない戦闘で大きな損害を被った。第4軍は道路網の要衝であるメールザックを防衛するため、市街地への近接路にはトーチカやバリケードを張り巡らせていたのである。

 2月17日、第3軍は態勢を立て直してメールザックに突撃を開始した。守備隊はこの要衝を手離すまいと反撃を繰り返したが、ついに第3軍の猛攻に耐えかねて同市を放棄せざると得なくなった。

 2月21日、第3軍は撤退する敵を追撃してペテルスヴァルテを陥落した。後背をフリッシュス・ハフに追いつめられた第4軍は正面50キロ、縦深が最大でも25キロの限られた範囲に圧迫された。

 東プロイセンにおける激戦はソ連軍にも犠牲を強いた。1か月半もの間休みなく戦ってきた第3白ロシア正面軍では兵員の不足が顕著だった。ケーニヒスベルク南西で作戦行動中の戦力を合計しても兵員16万8000人であり、情報部の算出では包囲されたドイツ軍は兵員が最大で11万人と見積もられていた。犠牲者には第3白ロシア正面軍司令官チェルニャホフスキー上級大将も含まれていた。チェルニャホフスキーは常に軍の先頭に立って指揮していたが、メールザックで致命傷を受けて2月19日に死亡した。

 この予期しない損失を受けて、スターリンは調整官として現地に派遣されていたヴァシレフスキーを後任の第3白ロシア正面軍司令官に任命した。ヴァシレフスキーが自ら参謀総長を退いたことで、アントーノフが正式に参謀総長に就任した。

 2月24日、「最高司令部」は第3白ロシア正面軍に対してケーニヒスベルクの南西に包囲されたドイツ軍を殲滅するために新たな攻勢を発起するよう命じた。第1バルト正面軍(バグラミヤン元帥)は同日にザムラント集団に改称されて第3白ロシア正面軍の指揮下に入り、兵員と弾薬の補給が急ピッチで行われた。

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