第15話 ◆ 第3接触 生光 〜 呪文対決 麻衣 vs 団長マグレ 〜




◆ 第3接触 生光 〜 呪文対決 麻衣 vs 団長マグレ 〜


 麻衣はフナ神社の娘だ。

 詳しくは麻衣自身も知らないが、航海の神様、海の神様を祭るのが代々の仕事らしい。麻衣の苗字の風那(かざな)も、元は舟=フナ=風那からで、それを「かざな」と読み変えたのだそうだ。


 麻衣には2つの考えが浮かんでいた。

 一、「海へ吹き流し海底へ呑み込み黄泉へ散り散りにしてしまう」姫神様の唱詞(となえことば)。

 二、「土へ還し再生を願う」桜の花神の唱詞。


 悪霊なら再生させるわけにはいかない。

 しかしこの人たちはみんな、元々はサーカスを見に来た観客やスタッフたちの様で、麻衣は同情をも既に感じていた。だから、パン! とまずひとつ柏手(かしわで)を打ち注意を引くと、

「カケマクモ……マシマス、コノハナノ…」

 と土へ還す事を願う詞を唱えはじめた。

 巫女が神楽で舞う時に用いる五十鈴(いすず)という呪具がある。邪霊を祓う音色を響かせる鈴だが、どんな雑踏喧噪の中でも良く通る澄んだ麻衣の声は、その祓への鈴のごとき役割も天分として果たす力を宿していた。現代では「巫女」の充て字からアシスタントのようなイメージを抱く事も多いと思うが、本来は「御子(みこ)=神子(みこ)」として、日彌呼(ひみこ)の古来より神事や神通力は乙女が本領だった。


 ニセモノの夜が囲むこのドーム内でも、教室にいる時同様に麻衣の声はよく響き、黒く立ち上がった灰燼たちの動きを止めさせる威力を発揮した。この黒ずんだ濁り汚れた灰燼をなんとか浄化し、春には芽吹く花に吸い上げられ再生を繰り返す土のように、魂を還元する呪(まじない)でなんとかしてやれないかと、麻衣は語りかけてみる事にした。


「まじかよ」

 真司がますます惚れ顔になっているのは言うまでもない。

「すげえもんだな」

 京市も竹刀を構えたまま呆けたように感心した。

 しかし、

「そうはいかん」

 塩をたくさん飲み込んだようなしわがれ声が、麻衣の声へかぶさった。

「…ヨニナキモノ、カエラントホッスソノスベテノイキ、ココニフキカエサン」

 マグレが麻衣の反対側、黒い灰燼たちの向こうから、まるで麻衣とは反対の呪文を唱えているかのような対抗姿勢を見せて、水晶の杖を構え麻衣を睨んだ。

「おっし!」

 それを見た途端、真司が自分にもできそうな事を発見したような顔になって走り始めた。

「…わっかりやすいやつめ」

 そう言った京市も、真司を追い走り出した。


       †


 真魚は暗闇に飛び込んだのは良いものの、マオルのように夜目が効くわけではなく、まるで光のない縦穴に落ちたようで何も見えなかった。不思議とここでも人魚姿の真魚は泳げるようで、自在に動けはした。

「シュンちゃん!」

 しかし呼んでみた声は反響もせず、闇に吸い込まれてゆくだけでどこへも届かないようだった。

「シュンちゃん!!」

 何度呼んでもやっぱりそうだった。飛び込んで来た穴は塞がり始め、どんどん狭くなってきている。

(時間がない)

 真魚は焦った。

(底で待てば良いの?)

 落ちていく以上のスピードで飛ばし、舜の落下を追い越してやろう! と、激しく尾びれを振り動かした真魚だったが、どんなに焦っても全然底には辿り着かないようだった。

 まったく動いていないようにも思えるほどだったが、月の様に見える飛び込み口がどんどん小さく心細くなっていくから、入口から遠ざかっているのは間違いなかった。

(どうしよう……)

 どうしたら? と、真魚は下降しながら考えを巡らせた。

 このまま日本海溝なみか、それ以上の深海かわからない底を目指し潜ったところで「戻る」時間にはきっともう間に合わない。入口は塞がってしまうだろう。

(……ループ)

 それじゃあ、穴の中心を想定して、一定の深さの所で待ち、旋回し続けるのは? そう考え、輪を描いて泳ぎはじめたが、今度は穴のひろがりがどこまで広大なのかわからなくなった。

 真魚が一定の深さで軌道を描き続け待っていても、彗星のように落ちて来る舜とぶつかるのは? ありえない確率の偶然としか思えなかった。

「シュンちゃん!!!」

 音、匂い、光、熱……風圧……なにかないか? 落ちる舜を見つけられる手がかりが、なにかないか? 真魚は持っている感覚をみな研ぎすませて、舜を感じられるように全神経を張りつめさせた。


(どうして…… どうして昨日の雨の中…… あたしは足を戻さなかったんだろう……)

 昨日は舜が見えていた。

(だから足をとられちゃったのかな)

 真魚は今、人魚の足にされて、ここにこうしている事を、ふとそんな風に感じた。昨日、傘をさして歩いていると、背後から走って来る足音が聞こえた。

(シュンちゃん?)

 最初、そうとは思わなかったけれど、どこかで、そうかも知れない? とも思っていた。そう期待して? 真魚は振り返ったのかも知れない。

(だけど……)

 昨日の真魚は、もう舜と一緒には歩けない。これから一緒に帰ったり、会ったりもできなくなるんだという悲しさに、一緒に歩くだけで辛くて泣いてしまうかも知れない。もっと舜に心配をかけ、そんな苦しい想いをさせる自分にもっと苦しむ怖さに、敢えて舜から何も感じないようにするために、気持ちもなにも受けとらないように心を閉ざし、舜との幼い記憶や慕う気持ちさえ、あの隠ヶ淵(こもりがぶち)に置き捨て、忘れてしまおうと試みていたのだった。

 けれど無理矢理ひきはがした気持ちは涙を流し彷徨い出て、結局こんな姿になってまで追いかけて来てしまった。


 昨日みたいな息づかいがわかるかな?

(なんだろう… 熱いものが近づいて来る気配。いとしさが、迫って来る圧力みたいな…… この方向……)

 一定の深さで旋回しながら、とにかく舜を感じられるものすべてを探して真魚は待った。


       †


 舜たちの落ちた地上に開いた穴は、皆既日蝕の終わってゆく太陽を映すかのように、その暗い部分を狭めている。

 閉じて元の地面に戻った部分に次々と立ち上がる黒い魍魎たちを、真司はサッカーのフォワードよろしく次々と避け、マグレ目指して駆け進んだ。

 とにかく元をやっつければ、こんな次々とわいて出てくる黒いのなんてみんな無くなるはずだ、テレビでも大体そうだ! と真司は信じ込んで突進した。サッカーの様にドリブルするボールがない分、立ち塞がる障害を避けて走るだけなんて真司にとって容易い事だった。

 麻衣の唱詞(となえごと)の邪魔をマグレが唱えているのだと思った真司は、それをどうにかしようと走り出したのだ。京市もその意図を察し、剣道のすり足でさばくように灰燼たちを避け、ついて来た。

 この競り合いにもし麻衣が負けたら、せっかく灰の中から解放された自分たちも再び生け贄になるんだろうと真司たちは思った。

 地下に落ちていった舜や、中に飛び込んだ真魚に士朗の事も気がかりだが、真司たちは今この地上戦で、舜たちが上がって来れた時に、安全でいられる状況を確保しておかなければならないと思った。

 それになにより、真司にとってはまず何よりも、麻衣を守りたい。

 麻衣だけは、なんとしても最優先で守りたい。それが今の真司の本音で、向き合える精一杯の事だった。


(好きになっちまったあと、て…… いったい何すりゃいいんだ?)

 真司の答えのひとつが、今やろうとしている事なのかも知れない。


 今は、マグレに麻衣の邪魔をさせない事に賭け、走って来たのだった。そして、

「おい爺さん!! つか士朗先生のお父さん? その、なんか死んだやつ蘇らそうとかやめろよな!!」

 近づいて行って跳び蹴りでもかますのかと思いきや、真司はいきなりそう言って説得を始めた。

「ぶっ!」

 京市が思わず吹き出した。

「バカやろ! 笑ってんじゃねえ」

 真司は京市に向かって顔を赤くした。

 真司は昼休み、麻衣に怖がられた表情が忘れられなかった。

 京市にも、真司がその事を気にしているのがわかった。


 麻衣の声に動きを止め、土のように崩れる灰燼たちと、マグレの声に立ち上がり動こうとする灰燼のせめぎ合いの中に、白い砂、いや白い灰から立ち上がろうとしている姿が4体、別にあった。それは羽ばたこうとする白鳥のようにも、立ち上がろうと手をつく人の上半身のようにも見える。

 真司は殴ったり飛びかかったりしてしまいそうな自分を制するために、暴れ出しそうな両腕を力いっぱい組んで脇に抑え、マグレの正面で大声を張った。

「なんとなくだけどよ! 爺さんの気持ちもわかるよ!」

 真司は灰燼に捕り込まれていた間に聞いた士朗とマグレの会話や、灰燼そのものの記憶なのか? シンパシーというか、共感めいたものを受けとっていて、ただ悪の怪人を倒しに行くようなシンプルな闘争心にはもうなれなかった。

 しかしマグレは唱えるのをやめずに、水晶の杖で地面を叩いた。

 すると、ズン! っと、地面からツノが生えるように一体の灰燼が立ち上がった。黒い袴に道着のようなものを着て、そして手には、長い棒を持っている。

「お…」

 京市の全身に鳥肌が立った。

「今かよ」

 ずっと会えそうな気がしていた相手だった。


       †


 ドギュン! 

 落ちている舜の横を、なにかが弾丸のように通り過ぎて行った。

 暗闇に一瞬、目をそむけ見てはいけないものと遠慮していた白い裸体が走り抜けた気がした。

(マナナ?!)

 まさか? と思いながらも舜の胸の中に、わっ! となにかが吹き込まれふくらんだ。それはもしかしたらと期待してしまう「嬉しさ」と、信じたいだけで内容を間違えているかも知れない「不安」だった。その気持ちは急激な勢いで舜の中にふくらみ、指先まで震えた。まだ、開けていないメールを受信しただけなのと同じだ。

開封するためには、今通り過ぎていったかも知れない真魚をつかまえられなければわからない。


       †


 一角のように突き出て来た黒袴の灰燼は蹲居(そんきょ)を見せた。

 蹲居(そんきょ)というのは剣道や相撲などで、立ち会い前にお互いつま先立ちのまましゃがみ、見合う姿勢だ。京市も応じた。

「なにやってんだ?」

 人がセットクに頭使おうとしている時に、と真司が思っていると、

「たぶん、いやもしかしたら…… 親父かも」

 そう言って、京市はなに食わぬ顔で立ち上がり、

「えいやぁあーーーーーっっっ!!!」

 と、すごい声で気合いを入れ灰燼へ打ち込んでいった。

「はあ?!」

 京市の父親も10年前のこの場所の火事で、犠牲となった1人だった。4才だった京市は、父親の事はなにも覚えていない。初めて竹刀を持たされた時、いきなり父をマネて上段に構えた京市を喜んだと…… それが記憶なのか? 兄たちから聞いた話で京市の中に構築されたものなのかも定かではない。もしかしたら…… 士朗のように、自分も父親に会えるかも知れないと、ここに巻き込まれた時から少しそう思っていた。

(この黒袴がそうなのなら……)

 一見アスファルトのようにも溶岩のようにも見える長棒と体に、たかが竹刀で打ち込んでもすぐに折れるだろう。京市は竹刀が折れにくい「突き」に徹する事にした。

「三段突」。新撰組の沖田総司は突きが得意だったそうだ。同時に3本の刀で突かれたと思わせる程速い突きは、避けたと思ったのにまだ喉元に突きつけられている。それも避けたはずなのに刀は喉元に残っているという神速だったとか。沖田総司は鉄の刀でやってのけていたわけで、軽い竹刀なら中学生の京市だって神速に近いスピードを繰り出せる自信があった。しかし、これは試合ではない。

 一本! と判定の旗が上がり決着をし引き下がってくれるわけではないだろう。

 どんなに速い突きでも、喉元狙いの一点張りと知れると、黒袴はすぐに読み捌(さば)き、軽く首を傾け、わずか一足分横へ移動し、上体を反らすだけで京市の突きを全てかわした。

(せめて木刀だったら……)

 攻撃力に不足を感じ、かかっていく手を思い浮かべられなくなった京市に、

「京!」

 偲がバイクで走って来て何かを投げてよこした。

 思わず受けとった手のひらを確認すると「必勝」とフェルトで縫いつけられた手づくりのお守りを握らされていた。

(なんだこのファンシーな……)

 ぬいぐるみみたいなもんは、と京市は一瞬思ったが、

「それつけてみたら!」

「なんだそれ?」

 真司も京市の手元をのぞき込んだ。

「手づくりじゃん」

 真司が言った。

「こんなのシノが縫っただけで、神さまのご利益もお祓いも何にもないんだろっ?」

 そう言う真司に、

「バカね! これはこんなの無くても京なんてどうせ勝っちゃうでしょ、て、今まで渡さなかったんだけど…… 一応頑張ってね! とか、怪我しないでね! とか、想いがこもったもんなのよ! そういう想いが! こういう系には効くんじゃないの?! ねえ麻衣やん!」

 偲が珍しく赤くなりながら真司に吠えた。

「そんなの、オレにはくれた事ねーくせに!」

「あったりまえじゃない! 幼なじみと、好きな人とは違うでしょ!!」

「えっ?!」

「えっ!!」

「えっっっ?!!!」

 京市も真司も、麻衣もびっくりして偲を見つめた。

「わぁーーーっっっ!」

 偲が真っ赤になりあたふたとしているところへ、京市が黙って竹刀のきっ先へそれを結びつけた。


「おまえ、シロウちゃん呼ばわりのヘッド狙いじゃなかったのか」

 兄として、十児の京市を見る目つきが急に厳しくなった。


(お…)

 ふだんから冷めた態度しか見せない京市の胸の奥で、何かがふくらんで来るような感覚が湧き起こった。

「むん」

 剣道の試合なら、容赦なくなんの怖さも感じず、相手との間合いを詰められる京市だった。それなのにどうしてか偲にだけは、どう接して良いのやら今までわからず、練習で竹刀を向け合い対峙している時でさえ、打ち込みたくないし、向かって来られるとどぎまぎするわ、目を見れなくなるわでどうにもやりづらく、なんと言ったら良いのかどうしてもわからなかった。そんな距離感を、偲の方から詰めて来てくれたのだ。京市も、

(オレどうも…… このポニーテール、じゃなくてマーメードテールか、が好きらしいわ…… けど、それで何をどうすりゃ良いんだ?)

 と、わからずにいた一人だった。

 しかし京市は、今の偲の一言で、ふいに強く心が決まった。

(あいつを、外に帰してやる)

 偲をこんなわけのわからない空間に閉じ込めたまま終わらせてたまるか! むっとべたつく潮風の吹く通学路。イスと机をひきずる音が木霊する夏の教室。部活帰りに見渡せる夕染めが藍に変わる大空。帰りがけの校門からいつも見上げられたあの空の下、「またな」「また明日な」とあたりまえに再会の約束がされたさよならを交わせたあの日常へ、きっと偲を帰してやる! そう決意し、偲の想いがこもったお守りを結びつけた竹刀を一閃した。

 すると、それまで折れそうに不安だった竹刀に芯が入り、攻撃力が増したように感じられた。黒袴の灰燼へ放った薙ぎ胴には、しっかりとした手ごたえ、打ちごたえがあり、竹刀が折れそうな不安も感じなくなっていた。

「効いてんじゃん!」

 真司が感心したように、口笛を吹いた。

 偲は胸の前で両肘がくっつきそうなほど力んで両手を組み、ただ京市の無事を祈った。頑丈なアスファルトのように見えた黒袴の胴の闇(くら)がりが、京市の一閃で砂利の様に飛び散った。

「おおっっ!!」

 黒袴が青白い鬼火の目を燃やし、京市に向き直った。


       †


 ドクン! 

 鼓動が早まるのは近づいて来る期待感からなのか、逃してしまう焦りの不安のためか? どちらかわからない焦燥感が真魚の鼓動を早めた。

(だめやわ…… 会えるはずないもん)

 この底なしの深さと無限にも思える広さの奈落に真魚は絶望に陥りそうになっている。さっき見逃し、通り過ぎてしまった事にも真魚は気づいていなかった。

(いやあかん! きっと会う!!)

 しかしわずかなミルクのような匂いがした。

 絶対ムリ。確率的にも無理、などとつい思える状況を今は無視する事に決めて、マイナス思考を自分の中から追い出し、全運勢も味方に引っぱりこんで全力で祈りながら、真魚はできるだけ両腕をひろげて旋回を続けた。


 舜の胸で、落ちていくマオルは闇に目を光らせ続けていた。

 このままじゃ舜と落下してゆくだけだ。はねられ車道に捨て置かれていた銀毛の仔猫を、この少年は往来する車から自身もはねられるかも知れない危険を冒してまで、庇って救おうと近づいて来てくれたのだ。小さなマオルにとって、その時の舜がどれほど心強く、頼もしく、嬉しかったか知れない。

 マオルは舜を大好きになって、絶対にこの人間がピンチの時には、今度は自分が救い返してやるんだと、いつも身近で見張っていたのだった。けれど飛び込んでみたものの、自分には引っ張り上げる力なんてない。

「ミャアロゥウ〜……」

 マオルは闇に目を凝らし、さっき通り過ぎて行った大きな魚を見失わないように目に焼きつけその位置を追い続けていた。


「真魚!!」

 舜も叫んでいた。

 しかし声はどこにも届かず、反響すらしないで消える。

 少し長めに呼ばなきゃダメだ。


「マナナーーーーーーッッ!!!」


 それでもやっぱり、声は闇の中に吸い込まれるだけでどこにもとどかない。真魚が「マナナ」と呼ばれる事を、恥ずかしく感じ始めたのはいつからだろう?

(バナナみたいやし)

 真魚に初潮が始まった頃からか? バナナを男の子たちに例えた冗談を耳にしてからか? それに幼い呼び方やな、もう子どもやないねんから、となにか今サナギからメタモルフォーゼする思春期の心境がそうさせたのか、とにかく真魚にとっては「ナナ」を連続し

て呼ばれる事がふいに恥ずかしく感じられるようになった。


「シュンちゃーーーん!」


 そういう真魚は、舜のいやがる「ちゃん」づけをやめようとはしなかった。自分は幼い自身から少し離れたかったくせに、舜には前と同じ距離にいて欲しかった。自分が地球で、舜を月のように想っていた。


「マナナーーーーーーーッッ!!!」


 舜は自分の事は、いつも彗星のようだと感じていた。

 どこからどこへ飛んでいるのかも自分じゃ決められない彗星は、ある時強力な星の引力に惹かれ、その軌道を変える。

(おばあちゃん…… ママ…… マナナ…… シン……)


 だれかに気持ちを惹かれて軸が定まり、その星を想っている事で軌道、気持ちが安定する。自分も同じくらいに想われていると信じられる事で安心する。だから、

(そうじゃないの?)

 と不安を抱いた時から軸がぶれて、軌道を見失って心細くなってしまう。


 昨日なくしたと絶望したもの。

 今日は、ぼくを探しに来てくれたの?

 舜の心細い胸の中に小さな火が灯る。


「マナーーーーーーーーッッッ!!!」

 だけどその声は、今日もとどかない。


       †


 京市はまだ、真剣勝負をした事がない。そんな機会生涯に何度あるだろうか? 一度でも、これからする事があるだろうか? 受験に落ちても命は失わない。失恋したって命は消えない。

(…さっき、あの灰の中にとりこまれっぱなしだったら、「死ぬ」て事になっていたのかな?)

 実は、面白かった。

 とりこまれて死んでしまうのかも、なんて心配よりは、本当に体感型遊園地のアトラクションを体験しているかのようで、自分で空中ブランコを飛んでいるように爽快だった。ありえない高さで放り出され、宙でバーを受けとって次のブランコへまた飛ぶ。絶対自分ではできない芸当をやりこなしている体感は、とてもスリリングで面白かった。それはもしかすると、この自分を包む灰燼の「ウレシい」感情とシンクロしていたのかも知れない。


 宙から、下で自分を見上げている偲が見えた。

(あいつ、バイク運転できるなんてすげえな)

 いつも元気で積極的で、思った事をすぐ口にできる偲は、自分に自信があるからなのかな? と京市は思った。反して京市が無口なのは、何事も言う前にやってみなくてはわからない、と思っているからだった。口にしてできなかったら恥だと思うから、簡単に口にはできない。話が苦手で、黙ってやるタイプだった。

 反して偲は、京市にはなんでも口にするタイプのように見えた。

 士朗へのからかいにしても、部活でも、先輩らに対しても怖じけず言いたい事を言うし、女子友だちの中でもそのように見えた。

 しかしそんな偲でも、去年剣道部へ入部してから、同じ新入生のくせにもう段持ちで、上級生でも敵わないほど強く、今年、中2のクラスで同級生になれた京市には、実は思うように話す事ができないでいた。練習中、面がずれて頭に巻いた手ぬぐいが下がって目がふさがれ、前が見えなくなってしまった事があった。

「へたくそ」

 それを有段者の京市が手際よく直し、面ひもまできゅっ! と結んでくれた。たったそれだけの事だったのだけれど……


(あたし、このぶすっとした大男の事…… 好きなのかも?)


 それから京市に話しかけにくくなってしまった。

 偲は去年の新人戦前に、手づくりの「必勝お守り」を作っていた。

 しかし京市に渡しそびれたままタイミングを失い、それをずうっと1年越しに持ちっぱなしでいたのだ。偲は灰にとりこまれた京市をずっと見上げ続けていた。

(返して!)そう念じていた。

 士朗へ目をやる時間よりも、麻衣や幼なじみの真司よりも多く、京市を目で追っていた。 その見上げてくれる目を、京市も灰の中から実は見下ろしていた。


 黒袴の灰燼が、溶岩を竹刀にしたような長い棒を半月を描くようにして頭上へ振りかぶった。


(おお…)

 京市は思わず首をすくめた。

 気がつくと数歩後ずさりし、間合いをとっていた。

 気圧された。

(これかあ・・・)

 写真でしか見たことが無い。兄たちから聞いた事のある父親の構え方だった。胸を堂々と張り、踏みしめた大地から持ち上げた剣のてっぺんまでが一体となり、天を支えているかのように見えた。それを振り落とされたら、空ごと落ちて来そうだ。

 まるで災害級の上段の構え……


 ゴロゴロ……ゴゴォン……


 テントの外では、獰猛な雷獣が黒雲の中で喉を鳴らし金色に目を光らせている。獲物を狙い暗い雲の中で爪を研ぎ、雷光を落とすスキを窺っていた。

 京市は居すくんで、一足も前へ出られなくなってしまった。

 数ミリ…… 爪先をすすめただけで、落雷圏内に頭を突っ込むような気持ちになった。上段から頭上へあれを振り落とされたら、防具もかぶっていない京市の頭蓋骨など粉々に打ち砕かれて、首も頭

も、亀のように体にめり込んでしまいそうだ。


(あれを薙いだら、両断できるか?)

 さっきの薙ぎ胴で削り、細くなっている胴を京市は見た。

 黒袴の上半身と下半身は、左脇から腰、足へと左半身だけでつながっている。

 この半側面を断つしか、黒袴を停止させる有効手段はないように

思われた。大人と子どもの身長差で、黒袴の頭には、京市の竹刀じゃ飛び上がっても届きそうにない。


(これは試合じゃない)


 どちらが先にあたるか? そういう判定で決着がつけられる立ち会いではない。動きを完全につぶさなければ、終わらない立ち会いだと京市は感じていた。胴を断って両断できるか? 頭を砕かれるか? お互いの構えから打点まで、どちらの距離が短いか? 薙ぐ事を考える京市と、上段からおそらく……


 ぞっ! と、鳥肌が立った一瞬、


 京市のヒザが抜けた。今居た場所に、溶岩でできた柱のような黒袴の一太刀が振り落とされた。稲妻が落ち、地響きが轟いた。

 ヒザが抜けて上半身の傾いた京市は、そのまま足をすべらせて大股に開き、その姿勢はもう前へ出るしかなくなっていた。つんのめるのを支えるように、かろうじて伸ばした剣先が突きになった。カウンターになった京市の反撃だったが、勢いは届かず空を突き、また互いに距離をとり直した。

 京市の脳天打ちに狙い落とされた切っ先は、次の攻撃に向け、また不気味に円を描き持ち上げられた。その攻撃範囲は京市が思っていたよりももっと広範囲で、落とされるスピードは稲妻よりも速かった。

 京市の狙う黒袴の左半身は、相手の攻撃が自分に届いてしまう範囲へ踏み込んだ上で、そこからまだ遠くだった。

(踏み込んでから……さらに2歩半くらい)

 そこまでいかないと自分の攻撃はとどかない。京市は距離を読んだ。黒袴の思わぬ攻撃スピードと、溶岩刀の振り落とされた衝撃の凄まじさで、ますます体が萎縮し、かたくなっていた。


「ふうっ!」

 相手の眉間へ竹刀を向ける正眼の構えから、京市は、黒袴と同じ上段へ構えを変化させた。狙いが胴打ち限定のように見透かされないためもあったが、相手に呑まれていないと虚勢を張り、自分を鼓舞するためでもあった。思いがけず、鏡写しのような姿勢で互いに向き合うかたちとなった。


 マグレの目的は時間かせぎにあった。

 兄姉弟たちを黄泉返らせる魔術の完成が本意で、それまで邪魔を

させないように足止めができれば良い。必要な生け贄を、この間に逃さなければ良い。だから京市に邪魔をされないように足止め策を講じても、命をここで断つわけもなかった。ここで京市を食い止め、且つ殺してしまわない加減を持つ灰燼を黄泉から召還したら、その最適者として…… 士朗と自分と同じ関係の、どうやらここも親子であるらしい魂が呼び戻されたのだ。これにはマグレも驚いていた。


 二人は何度かフェイントを掛け合い、間合いを取り直し距離を保ち直す事を繰り返した。黒袴が重たげに首を振り、ちょっとひじを上げる仕種を見せた。

(ん? 今のは……)

 フェイントじゃなく、京市の腕が下がっているのを教えるような仕種? 京市は知らず知らず、黒袴の構えを身に写すように真似ていた。


「なあ! 士朗先生のお父さん!!」

 真司が意外にも根気強く説得を続けていた。

「亡くなったもんを呼び戻すとかなんかすげーおっかない事できるの本当に勉強したんだな、研究? 頑張ったんだなってオレ思うんだけど」

 必ずしも説得を成功させようとするのではなく、マグレの暗唱の邪魔になれば良いと思って声をかけはじめたのが元々だ。

「10年も? ずっと死んだ人の事ばっかり思ってたなんて、なんか辛いよな。だけどよ爺ちゃん。そんなに家族の命を大切に考える爺ちゃんがよ! その士朗先生と双子だったっつー舜にとり憑いた人? そいつと同じ年の俺らを4人も、生け贄として命を奪って、平気でいられるはずはねえ、って俺思うんだ。」

 

 効いた。

 思わず、マグレの唱える声が途切れ、黒袴の動きもぎこちなく石像のように一瞬固まった。その機を逃さず、京市が突進した。

 まず自分の手は届かないが相手の攻撃だけが自分に届いてしまう「相手の間合い」に踏込む! そしてそこから! 自分のリーチでも攻撃が相手に届く「自分の間合い」に更に踏込まなくてはならない。しかし、動きが止まったのはほんの一瞬だけで、黒袴はあの落雷を起こすような動きで腕を振り降ろした。

(ダメだっ!)

 京市には自分の踏込み速度、この足では間に合わない事がわかった。このまま脳天を叩き砕かれる。終わった! あの稲妻のような打ち込みが頭上に振り落とされたら生きてはいない。完全な死を自覚し、恐怖に身がすくんだ。しかし……


 ぽん


(……は?)

 その落雷は、どうしたのか? 頭蓋骨どころか髪の毛に優しく触れた程度の衝撃しか……まるでやさしく息子を注意する父親の手そのもののように、軽く、やわらかく、京市の頭に直撃する寸前で勢いを殺し落とされた。

 驚いた京市だったが自分の発動させていた攻撃は止まらず、当初の狙い通り、偲のお守りの結ばれた竹刀で、担ぎ胴のようなかたちになって黒袴の残った半身の胴を薙ぎ断っていた。


 分断され、崩れてゆく黒袴は不思議と安らかで嬉しそうにすら見えた。


「それで士朗先生の兄弟たちならよ! 爺ちゃん! 余計に自分たちの弟の教え子の命をパクったおかげで蘇ったなんて知って… 士朗先生と喜びの再会、うれしいハグなんてできるかよ?!!」


 途切れたマグレの声は止み、その口はすっかりつぐまれてしまった。


「まったく…… なんて事だ…」

 構えていた水晶の杖が、だらりと下がった。


 息子の名前に「先生」をつけて呼ぶ子どもが目の前にいて、マグレの悲しさを想像してしまったのか、シンクロしてしまったのか…… 自身でも汗か何か気づいていないんだろう。自覚のない涙をぼろぼろとこぼし、真っすぐにマグレを見つめているのだ。

 マグレを止めに来た、あの日の士朗と同じ年だ。

 凍てついた老人の瞳の中に入り込んで来た中学生から、マグレは目をそらせなくなっていた。

              †


 舜と落ちているマオルが、さっきの大きな魚の匂いが近づいて来るのを小さな鼻でかぎとった。

「フウゥーーーーーーーーーーッッ!!!」

 ここだ! というタイミングでマオルは毛を逆立てた。

 小さなプラズマ粒子が走り、銀毛が光ファイバーのように青く光

り始めた。


(灯り?)

 深海の暗闇で、カンテラのような、チョウチンアンコウのような灯火が降りて来るのを真魚が気づいた。

 深海で光を見たら近づいてはいけない。

 それは、光で誘い捕食するためのワナだからだ。

 しかしもしかしたら、遭難者を助けに来た救助のサブマリンかも知れない。いや逆に遭難者のSOSかも知れない。深海で人魚姫の魂を奪い泡に還してしまう魔女かも知れない。警戒心も働いたが…… 真魚の目に、青く光を帯びた仔猫の姿が見えた!


「シュンちゃん!!」

「マナナ!!」


 バチン!!

 互いに伸ばし合った手が打ち合うように! 落ちてきた舜と、旋回する真魚の手が触れ合わさり音を立てた。がっし! と掴んだ舜の手は冷たく、真魚の手は温かかった。ふたりの手がつながると、マオルは安心して光を消した。


「!!」

 ぐっ! と真魚が力強く舜の手を握り下唇を噛んだ。

 よかった! 安堵した一瞬、しかしとたんに、舜には昨日の恐れが蘇って、聞きたくない、確かめたくない気持ちから真魚を突き放し逃げ出したくなった。

「ダメ!!! 待って!!!」

 離れたらもう今度こそ二度とつかまえられない! 舜を抱きかかえるように体を合わせてきた真魚の柔らかな体に、舜は暗くてわからないが真っ赤になった。


「シュンちゃん、どこゆくの?」

「ど、どっか行っちゃおうとしてんのはマナじゃんか」

 真魚に向けて出した声が、自分にもすねたように聞こえて、舜は恥ずかしくなった。

「しゃあないよ、お母ちゃんの地元やもん…」

 真魚は舜の背中にぴとっと胸とお腹を合わせてくっつき、後ろから支え抱くように舜のお腹に手を回して尾びれをはためかせた。オートバイの後ろに乗るようなかっこうだけれど、この場合運転しているのは真魚の方だ。


「ぜんぜん知らない叔父さんと、親子になるんだろ!」

 すねて聞こえないように張った声は、今度は怒ったように聞こえた。


「一回だけ会うてん……」

 上昇しながらうつむいた真魚の唇が、舜の首に触れる。

 真魚は舜の肩を噛みそうな位置で、唇を動かした。

「お母ちゃん、笑てた…… 子どもはついてかな、しゃあないやん」

 舜はマオルさえ抱いていなかったら、振り向いて真魚を抱きしめたい衝動に駆られた。


「行きたくないから! ここにいるんじゃないの?!」

 精一杯、自分の事は気取られまいと強がって話す舜だった。昨日の本心も避け、真魚に言葉を投げつけた。


「そうやね……」

「だったら!」

 感情をあらわにする舜とは対照的に、真魚はもう決め込んでいるような、飲み込んでいるような声を出し、舜に語りかけた。尾びれだけは、早く上昇しなくてはと忙しく動かし続けていて、さすがに息が切れてきた。


「シュンちゃんは…… はっ… はぁ… おれへんもんや、ウソかもしれん事も…… んっっ…… はぁ…… そんなん、考えるだけムダやなんて、言わんやんなぁ」

 真魚の荒く熱くなった吐息が首元や耳にかかって、舜の顔はますます赤くなっていく。知らず知らず、マオルを必要以上の力で抱きすくめていた。


「な、なんの事?」

「人魚と河童の事やん」

 はぁっ、はぁっ…… 

 半月のように明かりを落とす出口が、より痩せ細ってゆく。穴が塞がってゆく様は、見上げる真魚たちからすれば月蝕の様に見えた。しかし黄泉の奈落から見上げるそれは「朔」を迎えたら二度と満月に戻らない「蝕」だ。舜と仔猫を抱きかかえ、持ち上げて泳ぐ真魚は、どんどん息が荒くなった。

「ふつーはな、はっ… そんなおれへんもん、て先言うもんやん。はぁっ、はぁっ… やのにシュンちゃんは」

「だ、だいじょうぶ?」

「うん。ふっ… うちは、はっ…… 平気♪」

 気丈に笑う真魚だったが、体力の限界を感じ始めている。

「はぁ… でな、魚か足か? て、うちの疑問、はぁ…… ちゃんっと、はぁ… 考えて、答えてくれたやん」

 はぁっ、はぁっ、はぁあーーー… ふうっ!

 真魚は大きく息を整えた。昨日は舜が全速力で息を乱し走って来てくれたんだった。今は、真魚が全速力でとにかく舜を抱えて尾びれを振らなくては!

「そんなシュンちゃんのなぁ」

 はぁ、はぁ…

「うん」

「やらかい頭の使い方、はぁっ… うちは好きやねん」


「好きやねん」てとこだけが、舜の頭の中で大きくエコーし何度もリフレインした。


「この先の時間もなぁ… はぁっ… 河童や人魚と、ふぅっ… 同じ事やと思うねん」

「はあ?」

 舜は真魚の言おうとしている事の意味がわからなかった。


「まだあるかないかわかれへん時間なんて、はっ…… はぁっ…… おるかわからん河童や人魚と同じやんか」

 話すのもきつそうなのに、真魚は今しかないみたいに舜に言葉を継いだ。

「ふぅっ…… んっ…… 行ってみーひん事には、はっ…… どんな時間を過ごせるかわからへん」

 舜の肩に後ろから乗せたあごと、お腹に回した真魚の両腕にいっそう力が入ったのは、もう力がなくなり、つなげた自分の指をはなしたら落としてしまいそうだったから。

「やのになぁシュンちゃん」

 それでも懸命に、とにかく真魚は泳ぎ続けた。出口はもう、三日月から新月ほどにも細り、穴は閉じようとしていた。あれが閉じてしまったら、もう上を向いているのか下を向いているのかすらわからない暗闇に落ちる。


「ここ出られんかったら、はぁっ…… たぶん、もう…… はっ、はっ…… そんな未知の時間には、ふたり2度と会われへんで?」

 必死に泳ぎながら、真魚は精一杯、舜に伝えようと続けた。

 それに対し、舜の声はますますスネたようになってしまった。

「出たって、会えなくなるだろ!」

「わかれへん。でも子どもは… はぁっ… うちらずっと、ふっ… うん、子どものままの時間を続けられへんやんね」

 真魚も迷い迷い、口に出て来る言葉は自分でも思いがけないものだったけれど、舜に話そうとする事で、だんだん自分の考えている事も並べられ、整理できるように思えてきた。


「この先、はぁ、はっ… んっ… 河童も人魚も、ふっ… もう少し、うちらわかるようになるかもしれんやん。はぁ… 他のもんを、見つけられるかも知れへんやん?」

 舜の見えている時間と、真魚の感じている時間の長さが、随分ちがう事に舜は気づかされた。


「このまま… はぁ… 子どものまま、はっ、はっ… 落ちて穴ん中に呑み込まれたら… 今はなんだか、はっ… ふたりでいるみたいに思えて沈んでいけるんかも知れんけど」

 真魚は見上げ、長い髪をゆらめかせて、次に伝える言葉をさがした。

「それで明日は、どうなんやろか?」

 舜が下を向き、返す言葉が見つからなくて黙っていると真魚は続けた。

「明日はもう、ふぅ… 子どもじゃあれへんよ」

(真魚……)

「この先の時間で、シュンちゃんの見つけるもんを、うちは知りたいな」

 新月ほどにも細くなった入口が近づいて来たところで、ぶらさがっている士朗の姿が見えてきた。


「大人になった時、子どもの今わからん事が、わかるようになったらええやん。そう、なるように、明日をつくるように、いったらええやん。…はっ… はあっ… うちもスネててんけど」

 大人になる時間を受け入れる、準備を始めたような真魚の言葉に、舜はどきっとした。

「せやからなぁ」

 息を整えた真魚が舜を後ろから抱きしめ、頬がくっついた。


「大人になる、ヤクソクしよ」


 そう言って、真魚は舜の頬に手を触れ自分の方へ向かせると、舜の背中から肩越しに、ちゅっ、と… 真魚自身はじめてのキスをした。


(うっわ…)

 そのまま頬ずりされ、ぎゅうっと抱きしめられた舜の心臓のバクバクが頂点に達し、顔から火が出てなにかが噴火しそうなほどになった。

 バーーーン! 真魚と舜の体がなにかにぶつかった。

 真魚はもう動けなかった。ぶつかったのは、士朗が投げ落としぶらさがっていた蜘蛛のネットだった。


「柚葉!!」

 ネットにぶら下がった士朗が、ネットに飛び込んで来たふたりを抱きとめた。

 士朗の姿を見てほっとしたのか、真魚はフルマラソンを終えたようにどっと力つき、士朗の腕の中でだらりと体をあずけると、だんだん薄れ、その姿は消えてしまった。

「あれ? お、おい!!」

 士朗はとにかく、まずマオルを抱いた舜をネットへ登らせた。

 しかし……

「太陽が出る!」

「穴が消える!」

 舜を押し出したところでゲートは新月のように細まっており、子どもは通れても、もう大人の出られる大きさではなくなっていた。

「ヘッド!!」

「士朗ちゃん!!」

「先生!!!」

 士朗だけが穴の中にとり残され、ゲートが塞がる。

 そこへ、ガツッ!! と、何かが飛んで来て、閉まってゆくゲートの狭間にはさまった。

「早く来んか!!」

 マグレの声だった。飛んで来たのは、ずっと手放さなかった水晶の杖だ。杖がつくった隙間から士朗の手をひくマグレの体を、思わず十児も沙羅先生も、真司ら子どもたちもみんなで支えて、士朗を引っ張り上げるのに力を合わせた。


 しかし、バッキィイイイーーーーーーーン!!! と、水晶の杖は閉まるゲートに折れ砕け、粉々になって散ってしまった。


「うをぉおおおいい!! ヘッッド!」

 十児が夢中で地面を叩いた!

「先生!!!」

 真司も京市も麻衣も、

「士朗ちゃん!!」

 偲も、夢中で思わず地面を叩いた。

「バカっ!! 士朗さん!!!」

 沙羅先生もネイルが割れるほど地面を叩いたが、そこはもう砕けた花崗岩の白砂が撒かれたいつもの公園の地面だった。しかしあきらめられず、みんな必死で地面を叩き続けた。

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