第14話 ◆ 兄姉弟のブランコ

◆ 兄姉弟のブランコ


 ブランコを吊った五芒星(ペンタグラム)の光は、変わらず青い光を重く落としたり明るく浮かせたりして明滅を繰り返している。


 士朗は、空中ブランコのどの位置に自分の生徒たちがいるかを改めて確認した。

 灰燼に取り込まれた赤い髪の真司が見える。体の大きな京市、ショートカットの麻衣と舜は体つきも髪型もよく似ていた。

(あれ、橘か? 山岸京市、風那(かざな)麻衣……柚葉舜)

 士朗は降ろす順番と登る手段を、とっさに考え始めていた。


「ど、どうなっているんですか??」

 沙羅先生は空中ブランコを見上げ足をすくませた。


 人魚の姿は、大人たちには見えていない様子だ。


「どうなってんの、マァちゅん??」

 偲だけが、童女の手をとった真魚に似た人魚へ声をかけた。


(どうやってあそこに上がる?)


 五芒星そのものも回転していて、5台のブランコは星型の5カ所の尖端からそれぞれ揺られ回転し続けている。ネットはブランコの動く範囲のすぐ下にだけ張られていて、中央にぽっかり大きな穴が空いていた。


 士朗は広場中央のシーソーに目をつけた。

(あれが早いか……)

 そう思った矢先、ツカッ、ツカッ、とマグレが歩き始めた。


「十児!」

 士朗が偲の兄の名を呼んだ。

「おう!」

 十児もシーソーに足をかけた士朗が何をしたいのか? とっさに悟った。


 カッ、カッ、カッ……

 そんな士朗に、青いマントをなびかせ、長身の老人が近づいて来た。

 士朗も気づいた。

 元より、このドームに突っ込んだ時から、もう士朗にとっては懐かしさに包まれる光景で疑いようがなかった。

 プラネタリウムのようなニセモノの夜。青いテントの内壁に描かれたたてがみが太陽のようなライオンと夜の黒豹。焚かれたユリのような香の匂い。そして、五芒星から吊り下がる5台の空中ブランコに、背の高いシルクハットとマントの男。

 老人が士朗の横に立った。背丈はふたりとも同じくらい。銀縁の片眼鏡をはずし、マグレはまじまじと士朗を見た。シャープな頬に切れ長の目、金色の瞳。ふたりは顔だちまでよく似通っていた。士朗はシーソーを踏み、若干下を向きつつ、近づいて来たマントの男を横目で確認した。


 十児は、前にもこんな光景を見た覚えがあった。


 中学生の頃、夜の歩道橋の上で見た光景はしかし、近づく士朗から目を反らしてうつむくマントの男で、今とふたりのポジションは逆だった。


 まさにその時以来、バイクのタンクを燃やし爆発させ、消防車とパトカーに追われ闇にとろりと消えて以来……


「どこいたんだよ?」


 目を合わさずに、士朗が努めて静かに言った。


「なんと! わしと…… 身長がこんなに」

 マグレはまず身長に驚いたようだった。


「た! そこかよ! 何年姿消していたと思ってんだ!」

 士朗は食いつくように声を返した。

「ふっ、はは」

 マグレが枯れた笑いを洩らした。そして、

「今は、いい」

 士朗だとわかったなら、マグレはそれだけで良かった。


「うち、ほんまは…… シュンちゃん、まっててあげなあかんかったのに」

 傷つき横たわる仔猫が、昨日の雨の中の舜と重なった。

 泣きじゃくる童女へうなずき、人魚が抱きしめた。

 

 ハンドルを握ったまま見つめる偲の前で、仔猫を抱く童女を抱きしめた人魚が、柔らかな光に包まれてゆく。ふたりに抱かれたマオルも、その光に包まれた。


「マァちゅん?」

 

 実体から抜け出すほど…… なにかを強く慕っているのに、

 いったいなにを慕っていたのか忘れて?

 いや、目をそむけても、彷徨い出てきてしまうほど慕う気持は消せないのに、そうして泳いできた人魚は、ほんとうの気持ちをむき出して泣く真魚が隠ヶ淵(こもりがふち)で切り捨て置いてゆこうとした幼い心を今抱きしめていた。


「おいてけ坊にして、かんにん……」

 人魚がはじめて言葉を口にした時、童女が流していた涙は、人魚の目からこぼれ落ちていた。人魚にしがみついていた童女は、還るべき胸に戻ったかのように消えた。


 昨日、真魚が隠ヶ淵へおいてけぼりにしてきた想い慕う気持ち。

 それを忘れようとして切り離しても、探し追いかけてきてしまった気持ち。

 それが真魚の童女と人魚だった。


 古代祭祀の行われていた瘴気噴き出す隠ヶ淵の不思議のせいか?

 持って産まれたものか? 想いの強さなのか? だれにもわからない。


 14才の特別な時期に顕われる幼い気持とそうでなくなってゆく大人へ変化する気持ちが、まるで淡水と海水が入り交じる汽水域(きすいいき)のように、刻一刻、心の中で変化する。


 童女が抱いていたマオルは人魚に抱かれ、まるで昨日へ時間が逆戻りしたかのように、傷ついたケガも、血のついた毛並も最初からないように、綺麗な銀色のつやを取り戻し翡翠色の目の輝きも取り戻していた。


 マグレは自分の背中でそんな事が起こっているとはつゆ知らず、

「この結界に割って入って来られる者は、我が導き入れた生け贄と同じ血縁者のみ……」

 テント内で起こる事は、すべて自分の計算の中で用意され、想定できていると思い込んでいた。


 士朗は耳でマグレの声を聞いて、やっぱりまだ目を合わせていなかった。顔を見るのが恐かった。変わってしまった相貌を直視するのが嫌だったのと、父親の目の魔力を知っていた。あの時も、まんまと幻術にかかって、歩道橋の上から闇にとろりと消えたのを見逃したのだった。


「もう準備はしているようじゃから言う事もないが」

 マグレはシーソーを踏む士朗の横顔へ向かって言った。


「あの空いた1台はお前が漕げ、士朗」

「は??! オレが?! なんで?!!!」


 上に登るのは登るつもりだったが、それは4人を降ろすためであって、まさか自分が演目に参加するためではない。


「わしがやるつもりだったが、まさかおまえが来るとは…… 

 天啓じゃ。もう、おまえ以外にはおるまい」


 マグレが凍った息を吐いた。


「1人ずつ、ロープを飛び伝って降ろすつもりだったか? 見ろ!」

 マグレの声につられ士朗が見上げると、少年少女を取り込んだ灰燼たちはみなブランコに立ち上がり、そして地上の士朗を見下ろしていた。

 正直、士朗はその4体の姿勢、体格や仕草、立ち姿に、もう何とも反論しがたい説得力を感じてしまっていた。

(くっそ…… ありゃ、どう見たって)

 京市を取り込んだ肩幅の広い大きな体の灰燼(かいじん)は長兄の一夜(かずや)。

 真司を取り込んだスリムな灰燼は次兄の星二(せいじ)。

 麻衣を包み込んだ女性の体型がわかる灰燼は長女の月夜美(つくよみ)。

 そして舜とほとんど変わらない身長と体型の灰燼は、今の舜と同じ14才で亡くなった士朗とは双子の聖午(しょうご)にしか見えなかった。


「なにをやろうってんだ! おれの生徒たちだ!! あいつらをどうするつもりだ?!」

 士朗は苛立ち、マグレの顔を見ずに叫んだ。


「おまえの、生徒たちだと? おまえ、教師にでもなったのか?」

 マグレは怪人から、時々父親に戻る。

「そうだよ! 朝(とも)叔父んとこで、中学生の教師だ!」

「おお、トモシんとこの」

 うっかり、酒でも酌み交わしたくなる衝動を打ち消し、マグレはこの十年、最も執念を燃やした秘術を士朗に打ち明けた。


「今引っ張りだした仮の体がお前の兄姉弟たちだ士朗! 見ろ! あの燃えた炭のような体を!」


 士朗は直視できない。


 あの火事を、ひょっとしたら免れて、どこかで無事でいるかもしれないなんて幻想も捨て切れずにいた士朗だった。それこそ父親の得意なイリュージョンで別の場所へ移したのかと、信じ込みたい部分もあった。しかし火事の日、あの時間、父親はその場にはいなかったのも一緒にいた士朗が一番わかっている。いたとしたって、別の場所へ移すイリュージョンができていたのなら、あの後あれほど暴走族を追いつめていく復讐に出るはずもなかった。

 その行動が、兄姉弟たちを失ったという証拠だった。

 その現実が、燃える炭のような粉々の体で、こんなカタチで突きつけられようとは誰が想像できただろう?


「十児! 頼む!!」

「おうっ!」

 どのみち上には飛ばなくてはならない。成り行きから流されずに、どうやって生徒たちを救い出すかは、宙で飛びながら考えるしかない。

 バオッ! バォオーーーオオオンン!!!

 ホンダVFR800P 750ccのエンジンが回転を上げる。

 士朗は頭上の五芒星を見つめ、自分が飛ぶ位置へちょうど空中ブランコが回ってくるタイミングを計って、くいっと親指を立てた。

 十児の白バイが士朗の踏むシーソーへ突っ込んで来た。これから士朗が宙へ躍り上がる時間も計算づくだ。


 ダン!!!


 士朗の踏む反対側、上がったシーソー目がけ、広場に埋められたタイヤを踏みバウンドさせた十児の白バイが宙高くジャンプした。そして着地の勢いを利用し、前輪をジャックナイフの刃を落とすようにして上がったシーソーの端を踏みつけた。

 どんっっ!!! と、まるでロケットが発射されるかのように士朗が跳ね上げられた。


(この勢いで稼げる滞空時間なら……)


 士朗は勢いがあるうちに、一度腰にひねりを入れて前転し、真っすぐ上昇していただけの軌道を斜めに曲げた。それから勢いが失われていくのをキープしようと手足を縮めひざを抱き込み、くるくると回転しながら五芒星の回ってくるブランコへ近づいた。

「うおっ!」

 そして空中で回転を解くため、ダンゴムシ状態の体を開き(ここだ!)と思っていたところへ手をのばした。しかし、三半規管がぐるぐると不安定になっていて、思う目当ての先にロープはなく掴みそこねた。 

(やっぱりね)

 ネットに落ちて、もう一度か?

 もしくは……ひざのウラにブランコのバーが当たる感触に気づきひざを曲げた。かかとにロープが当たるのがわかって、咄嗟にくるくるっと足首をロープに巻きつけた。


(ふーーーー……)

 逆さ吊りになった状態で、なんとか士朗は、目当ての空席ブランコをつかまえる事ができた。

(やっぱ、こうなったか。上出来な方だ……)


「す、すごい……士朗さん」

「シローちゃん♪」

「よっしゃ! さすがヘッド!」

 地上では沙羅が目をまるく見開き、思わずよく校長先生がつぶやく名前の方をつぶやいていた。偲は目をますますハートに❤❤ 十児は胸の前で拳をぐっと握り込んだ。

 体操部コーチで模範演技も披露している士朗だから、多少の勘の狂いは感じつつも、運動機能の衰えを感じる事は幸運にもまだ少なかった。


「ふん」

 マグレが、士朗のブランコへの取りつき方を見上げて鼻で笑った。

 パチり、指を鳴らすと、あの透明な子蜘蛛たちが現れ、ネット中央の穴も塞いだ。


 士朗には、納得できている事が何ひとつなかった。


 なにより肉体を見ていない。焼死体も遺体もなく、死んだ痕跡も確認していなかった。士朗は、みんな長い巡業へ出かけているようなものだ、と思い込んでおきたくて、亡くなった実感を持たず今まで過ごして来たのだった。その再会が、あんな燃えた炭のような体で……直視に耐えられるわけがなかった。


「良いか士朗! わしが探し続けたこの十年の時間。今日この日、ここで生死の境界がつながる日蝕が出現するというこの天恵! これを呼び戻しの機会に使わずして何とする!」

 マグレは『反魂法(はんごんほう)』や呼び還(かえ)し、存在周波やFの揺らぎ、魂との同調や量子力学、肉体の持つ磁気の引力など研究を重ね、特異点として今日の皆既日蝕の日ほど、実現確率が高い日はない、と算出して臨んでいたのだった。数日前から火事の日と同じセットを同じ場所に再現し、魂が居着きやすく呼び戻されやすい空間をつくる事に心を砕いた。


「この同じ空間と、彼岸と此岸をつなぐ日蝕の時空帯に作り出した強力な電磁コイル! 現実と異空間の交差に幽世(かくりよ)と現世(うつしよ)が結びつくわずかな周波数と磁気のズレで、反魂法、呼び還しは成せる!」


 オーケストラが流れた。幻想弦楽四重奏『エクリプス』

 人魚の胸に抱かれていた銀色の仔猫が目覚め、あわてた様子で下へ飛び降りた。そして四方上下に首を振り、仔猫の姿のまま舜の姿を探した。4台のブランコが目にとまり、前足で宙を数回かいたあと、マオルは壁へ向かって駆け出し、柱へからんだネットを伝い登りはじめた。

 士朗は、月夜美(つくよみ=麻衣)の後ろ、聖午(しょうご=舜)の前に挟まれるポジションにいた。


 どのみち追いつかなくてはならない。兄姉弟たちが飛び始めたら、士朗だけがここで塞き止めてしまうわけにもいかない。しかも


「日蝕の時間が終われば黄泉平坂(よもつひらさか)の門も閉まる! それまでに術を成さなければ、灰燼はそのまま燃え尽き、捕えた子どもたちも同じく焼け尽きるか、どうなるかわからんぞ!」


 マグレがそう告げた。


「めちゃくちゃだ! ヨモツってなんだよ?!」

 黄泉平坂とは、日本神話でいうところの黄泉の世界、あの世へ通じる坂道の事だ。

「なんじゃ、教師のくせに記紀も知らんのか。古典も学べ……」

 ぼそりとマグレがつぶやいた。

 兄姉弟たちが揺らすのに合わせて、士朗も不本意ながら大きくブランコを揺らし始めた。しかしそうすると、たちまちサーカスのファミリーチームだった感覚が蘇ってきた。士朗は、生徒たちをこの状況から救出する事を第一に考えていたのだけれど、ブランコを兄姉弟たちと一緒に合わせ揺らし始めると、なんとも言えぬ、忘れていた感情を呼び起こされ、懐かしい気持がこみ上がり¬辛くなった。


「ペンタクルズ!」

 マグレの指示が飛ぶタイミングよりも、曲の転調に合わせて5兄姉弟たちはすでにその体勢に入っていた。士朗も、慣れたはずの演目導入で、曲を聞くと体が覚えていて反応していた。


 ペンタクルズというのは、一筆描きで五芒星を描くように5人でポジションを入れ替えて飛んでいくものだ。身長も体重も違う5人が、同時に同じポジション替えをするには各自のタイミングをわかった上で微妙に調節をしなくてはならない。

 麻衣をとりこんだ灰燼月夜美(つくよみ)が後ろ向きにブランコに座った。

 そして士朗の方をじっと見ている。

 揺れるブランコを合わせながら、月夜美は右手を長兄の一夜の方に伸ばした。

 京市をとりこんでいる一夜がなにかをカウントし、指を3本立てて見せた。

 次兄の星二が真司をとりこんだしなやかな体をのばし、ブランコの揺らし方を変えた。

 それを舜をとりこんだ末っ子の聖午(しょうご)がじっと観察して…… そしてうなずいた。

 4人がうなずきあって、ブランコの上に立ち上がった。

 4人が士朗を見た。


「時間がない! 跳べ!! シロウ!!」

「くそっっっ!!! 馬鹿野郎!!!」

 マグレに叫び返し、士朗は囚われた生徒たちを灰燼越しに睨んだ。

 当時、聖午と同じ身長と体重で披露していたペンタクルズだ。

 今の身長とリーチなら、もっと楽にできるはず。しかし、聖午に渡すブランコのスピードは……

 士朗はさっき、打ち上って飛びついたこのブランコへの滞空時間と、手をのばしつかまえられなかったズレをもう一度自分の中で噛み含んだ。14才の時は聖午がつかみやすいように、早く後ろへ送れるように力を加えて振り送っていた。今、あれほどの力を入れてしまえば聖午の顔にぶつけてしまうかも知れない。

 月夜美から受けとるブランコの方は大丈夫だろう。士朗は兄姉弟たちとブランコを送り、受けとる、10年ぶりの交感に戸惑いよりも信頼と絆とを思い返していた。


 それで、とにかく……

 曲のタイミングであの日と同じように、掴んでいたブランコから思い切って手を離し、足を振り上げて宙へ飛びざま、つかんでいたブランコを背後から来る聖午へ送った。


 なにともつながっていない、宙へ放り出された一瞬の不安。


 家族をすべて失った10年間の心細さが、改めて士朗の胸中を刺した。しかしその士朗の手元へ、月夜美から送られたブランコが届く。


 ぱしっ! 


 とつかむと、士朗はとたんに安堵に満たされ、前方には、本当にあの姉がいるんだという実感がふつふつと湧いて来た。背後を振り返ると、聖午が士朗の送ったブランコにひじをかけあごを乗せたカタチでぶら下がっていた。大人の士朗の加減では、まだ力が強かったようだった。灰燼の中に舜が透けて見える聖午のシルエットが、両脇をブランコに乗せ、右手を押すように前に出す仕草を士朗に見せた。士朗はうなずいた。

 そんなに力を入れて後ろへ飛ばさなくとも「つかめる」という、聖午からの合図だ。何度か同じフレーズが楽曲の中で定期的に演奏される。そのタイミングで、兄姉弟たちは手を放し、送り、そして受けとり合った。

 何周も回れば回るほど、そのタイミングは自然に流れ、士朗と聖午(舜)の間の送りと受け取りもつかえずスムーズになっていった。

 何周もするうちに、ふと、焼け炭ではなく、士朗の目に、生前の姿が見えるような気のする瞬間があった。

(どうする?)

 1人1人に飛びついて、灰燼を「破壊」すれば中にいる生徒を救い出せるのか? 兄姉弟たちが復活できるかも知れない灰燼を砕い

て? 兄姉弟を「砕く」?

 タイミングをつかんできた士朗の中で葛藤が渦巻いた。


(背後へ連続で飛んで、ひとつひとつ突き崩しネットの上に落としてしまえば、囚われた生徒たちは灰の外に出せるんだろうか?)


 そう思った時、士朗の目の端にネットを登る仔猫の姿が見えた。


 そして横を通りすぎた時、仔猫は士朗の背後へ、舜を取り込んだ聖午の灰燼へ飛びかかった。


「あっ!」


 思わず声が出た士朗の背後で、聖午の頭部へ飛び移った銀色の仔猫の足もとが燃え出したのが見えた。

「フニャニャニャッ!」

 炭に空気が送り込まれたように、黒かった灰燼が仔猫の踏んだところだけ赤く火が起き上がり、思わず高速タップを踏んだ仔猫は下へ落ちていった。

(なんだあの仔猫は?)

 落ちていく仔猫に同情しながら、飛びついて救出する事は不可能なのだなと士朗は悟った。


(ヘタすりゃ全身が燃えるだけ、て事か)


 兄姉弟たちがポジションを変え合い、繰り返しブランコを飛ぶごとに、灰燼にはキラキラと雨粒のような、星屑のような輝きが見えるようになった。まるで黒い衣装にスパンコールを光らせているかのようだ。


 ネットでバウンドし、地上まで落ちたマオルは、宙返りをして着地すると足の肉球を冷やすように、白い石英の混じる湿った土をばたばたと踏みにじった。


 偲は沙羅と人魚の間へ落ちて来た仔猫に驚き、宙を飛ぶ士朗を見上げていた。


「篠月さん? なの?」


 童女をとりこんだ事で、半透明な体から実体化がすすみ、大人にも見えるようになったのか? 沙羅が人魚に声をかけた。


 しかし人魚はブランコを見上げるばかりで返事はしなかった。

 おいてけぼりにした童女(きおく)を取り戻し、その目ははっきりと舜を追っていた。


 オーケストラの奏でる音楽を指揮するようにマグレが水晶の杖を振るった。するとニセモノの夜に、いくつもの流星が降りはじめた。

 流星は五芒星をまわり飛ぶ兄姉弟たちにそれぞれ降(くだ)りぶつかると、

灰燼の亀裂が星の光で輝き、囚われた少年たちの姿が見えなくなってしまった。 そして、

(月姉?!)

 前を飛ぶ灰燼の姿が、星の光に輝いて変わった。

 乳白色の髪をなびかせ、背中にファミリーのトレードマークだった十字架に重ねた剣の刺繍までが見えるようになった。

 白い上着の背に「来栖=クルス」→クロスという士朗たちの名字を象ったものだった。中学時代、もちろん士朗も5人そろって着ていた。

 すれ違う長身の影たちも、流星を浴び姿が変わっていた。

(鷲が羽ばたくような、肩幅の広い飛び方のカズ兄ぃ)

(輪をくぐるような正確な足の伸ばし方、星兄ぃか?)


 士朗は、会いたかった。


 会いたかった。本当は……

 マグレが暴走族たちを燃やさなければ、士朗がやっていただろう。

 金属バットを持って、高速で自転車を走らせ、トレーラーにたかったバイクたちをさがす夜だけが生き甲斐に変わってしまった中学時代があった。


(会いたい)

 つぎつぎに空中ブランコへ飛び移る背中を追ううちに、士朗の胸中に、失った兄姉弟たちに会いたいという追慕の気持ちが湧き上がって来た。


(会えるってのか? そんな事が…… )

 十字架をひるがえし飛ぶ背中を追う士朗の目に、5兄姉弟たちの当時の衣装がよりはっきり見えるようになった。背負ったクロスは真ん中に螺鈿装飾の百合を咲かせ、4本のサーベルを交差させ囲んだものが十字架に見えるよう組まれた紋章だ。百合は開いた花びらが、耳を立てた狼のようにも見える。


 10年前、バイクの事故画像がネットで流れる中に、夜にとけ込んで見えない車体を駆る、線の細い少年の背中が写っているものがいくつか流出していた。あるものは炎上し折り重なったバイクの事故現場の横をすり抜ける画像。またあるものは歩道橋から写された背中で、ペダルに足をかけ事故現場を見つめているような背中。


 いくつかの現場に映り込んだその背中に象られた百合と4本のサーベルが、狼と十字架に間違われ拡散された。


 そして事故を起こさせているのだとしたら「狂っている」という批判と、いや、あれは交通マナーの悪い集団を退治している「聖なる行為」だという賛否両論が騒がれ、いつの頃からか「狂聖12(クルセイダース)」だ! 十字軍だ! と煽る連中が現れた。実際は、士朗ひとりと父親のマグレ2人の行為だったはずが、時にはただの事故まで魔術だとか「狂聖12(クルセイダース)」の呪いのように噂が走った。

 それが抑止力になったのか、この街でチームで走るバイクの数はめっきり減った。自転車で近づきヘルメットをいきなり殴られる。バイクを壊される。

 父マグレにやられるよりはましなはずだった。

 士朗にやられてバイクを降りた連中は命まではとられない。

 走行中でも幻術にかけ、催眠術をかけた状態で走らせるマグレのやり方では、多重事故も起こしかねない。士朗は父親を殺人者にはしたくないという気持ちと、兄姉弟たちの仇を許せない気持ちの葛藤に苦しんでいた。


 衣装が見えるようにはなっても、まだ顔までは、星空を切り取った暗い影のまま表情は見えなかった。しかし士朗には、もうどの影もダレなのかがはっきりとわかる。

(ちきしょう… 聖午… 月姉… カズ兄ぃ… 星兄ぃ…)

「士朗!」

 マグレの激が地上からふいに飛んで来て、びくっとした士朗は、掴み損ねていたかも知れないブランコのバーへもうひと伸び手を伸ばす事で、落ちずにすんだ。

(そうさ… いつも、俺が落ちていた)

 思い出していた。このペンタクルズに回る空中ブランコの妙技、最終段階に向けての練習でいつも落ちていたのが士朗だった。中学生当時、叔父の家からトレーラーに通った。デビューのため聖午と姉と兄ふたりとテントの中で練習する時、今と同じ声で父親に激をとばされた事を、兄姉弟たちを追いかけながら士朗は思い出した。


(本当に?)


 氷のような姿になったマグレが、本当に父親なのだ、と士朗に実感が強まってきた。連続跳びはブランコから手をはなして次を掴む間に、宙返りを増やす段階に入った。士朗も昔とった杵柄というのか、状況記憶が体の動きを呼び覚ますように思い出していた。


「士朗さん… すごい」

 沙羅が両目へあてた手を下げつぶやいた。


「リバース!!」

 マグレが号令を出した。

(げっ! アレかよ…)

 士朗が中学時代、兄姉弟たちと演舞稽古をしていて、とうとう火事の日まで上手くいかなかった演目だった。


 今、跳び続けていたペンタクルズを、逆再生する。


 みな背後を見ないで、いっせいに後ろ向きに跳ぶのだ。前向きに跳ぶペンタクルズと違い、近づいて来るブランコを目で見て確認し、つかむ事はできない。

 後ろ向きに跳んで、つかんでいたバーを背中の見える前方の兄姉弟へ送り飛ばす。しかもバーを放し宙にとり残される間にバック宙も加え、半回転の状態で背後から送られたバーをつかみ、一回転を完成させるのが「リ・バース」だった。

 送られたバーを確認できるのは、そのバック宙時に下を向く一瞬だけ。そこにバーが来なければ、それをつかむ事はできない。

 5人兄姉弟たち全員が、成功を続けなければ演目は完成できない。


 いつも、士朗がネットに落ちた。


 聖午の投げたバーを、どれだけタイミングを変え手をのばしてみても、当時の士朗にはうまくつかめず、月夜美へ投げるバーもうまく届かなかった。

 それはちょうど、実の姉への恋慕が成せないものと同じくらい、うまくいかないもどかしさがつきまとうものだった。少しウェーブのかかった髪は天然の乳白色で、夜に輝く月のように白い肌、士朗たちとは違う碧色の瞳の美少女が月夜美だった。母親が、士朗たちとは違うのだ。マグレと他の団員との間にできた娘で、その母は月夜美を産むとすぐに亡くなった。


 弦楽四重奏が流れる中、兄姉弟たちがまた士朗へ顔を向けていた。


「できるわけねーだろ!! そんなもん!」

 士朗が天井で叫んだ。

「まず! やれ!」

 マグレはただそう返した。


「皆既日蝕のこの間のみ! 再現の一致を成す事である現象を引き起こす事ができるはずじゃ!!」

 そういうマグレに、

「外の嵐じゃどのみち、日蝕なんか見えねえよ!」

 士朗が叫ぶ。

「バカモのが! 雲で見えなくても、現象は起きている! 教師がそんな事で何を生徒に教えられるんじゃ!」

「ぐを…」

 まさかの正論を言われ、士朗は言葉を詰まらせた。


「まずはやれ!」

 父親の口癖だった。

(ムリだろ… こんなもの)

 曲のタイミングが耳に聞こえた瞬間、兄姉弟たちが動いた。

 士朗も、14才当時とはちがうリーチで飛ばざるを得なくなり、後ろへ飛び様、聖午から送られているハズのブランコバーをつかもうと手を伸ばした。

(ダメだ!)

 10年前と変わらない。士朗はネットへ落ちた。

「もう一度じゃ!」

 すぐさまマグレから激が飛び、士朗はネットを走り、7歩、8歩かけ登って空席のブランコを再びつかんだ。


「お兄ちゃん! なにかできないの!!」

「なにができるってんだよ?」

 紘川兄妹が言い合うそばで マオルはまた駆け上がろうとネットへダッシュし、人魚は変わらず舜=聖午の位置を目で追っていた。


(さっきは見えなかったバーが見えるところにあった)

(ナナメに見えていたバーが真下に見えたから、宙位置は良い。高さがダメだ)

 何度も落ちては飛び、また落ちては修正を試みる士朗だったが、やはり落ちた。落ちるたびに走りにくいネットを踏み、空きブランコを追い、かけ登った。しかし何度飛んでも、巧く成功イメージがつかめなかった。

 汗だくになってまた落ちた。

 士朗は仰向けに宙を見上げたまま、マグレに叫んだ。


「死んじまった者を生き返らせてまで、何をやりたいってんだ!」

 苛立ちだった。


 それは、「振動」だという人もいる。

 強烈に思い込むその執念が強力な振動を思念に発し、強制的にいくつもの共鳴を起こさせて思い通りの状況を呼び込む。

 その能力が魔術だと……


 士朗はそんな父親の執念を振り払う様に叫んだ。


 できるわけない事を!

 ムダな汗だ!

 つきあってらんねえ!! 


 そう吐き出したが、本当に一番ツラい事は、声にできなかった。

 認めたくなかった。声にできなかった本当に辛い心のうちは……


「オレには、できねえんだよっっっ! できた事ねえだろ!!」

 これが一番悔しい事だった。

 

 これが成功できれば? 兄姉弟たちが蘇るっていうのか? そうしたら、蘇らせられないのは、オレが失敗を今繰り返しているからか? オレのせいでみんな死にっぱなしでお終いって話になんのか? 冗談じゃねえ!

 しょうがねえだろ? 出来た事ないものをやらされてるんだ!

 士朗の中でそんな自分の声がぐるんぐるんと回っていた


「シロウ! オマエは兄たちを見捨てるというのか?!! 一夜を! 星二を!! 月夜美を!!! オマエと双子だった聖午までも!!」  

「違うっ! 俺は! くっそ…… 俺はもう、眠らせといてやりてえだけだ!!」

「兄たちは眠りたかったわけではないぞ!! あの火事さえ起こされなければ! 月夜美も美しい盛りだった! 聖午もお前と中学に上がったばかりだった!!」


 暴走族たちが面白がってサーカス団のトレーラーを囲み起こした事故を、中学生の士朗も当時怒りに燃えた。双子の弟、聖午を失くした事、母親の違う姉に初恋をおぼえていた事、色んな想いが士朗を復讐に走らせた。修理中の自転車をとりに行った士朗とマグレだけが、家族の乗るトレーラーに乗っていなくて火事を免れたのだ。

 すぐさま父親のマグレは姿を消し、それから次々と街の暴走族が連続事故を起こしていった。士朗は自転車で、おそらく父親の仕業では? と疑った連続事故を未然に防ごうと、暴走族のたまり場をさがし夜の街を走った。いつしか士朗そのものが、暴走族を壊滅させているサイレントキラーのように思われる誤解が広まっていった。


「ちっくしょ!」

 士朗はダテ眼鏡とカラーコンタクトをはずした。

 金色の目をしたおそらくは若い頃のマグレそっくりの男がそこに現れた。汗でぼさぼさになった髪に手ぐしを通し、サイドを両耳の上へかけ後ろへ流した。額にかかった前髪を両指でかき立て、リーゼントを整えなおすと自分の胸をガン! と叩いてまた立ち上がった。そして再び走りにくいネットを踏み、空きブランコを追いかけ登りつかんだ。

 リフレインする幻想弦楽四重奏『エクリプス』。

 バイオリンが急き立てるように何度も何度も同じフレーズを追いかけ演奏する。


(どこだ?)

 中学生の頃より増えた体重を上乗せした力加減で高く飛びすぎていた。腕のリーチも伸びているから、届きそうなものと思ったが、聖午から届くバーが弱い。宙位置をもう少し低めにすれば手を伸ばして届くか? バック宙で後方へ飛んで足を天井へ突き出す時に、タイミングが合わなければつかめない。


「飛べ! シロウ!!」

 マグレの激が飛ぶ。 

(ここだ!)

 今度こそは! 

 何度かの試みで、もうこのタイミングと高さ、バーを送る力加減もすべて、ここしかない、そう選択した士朗だった。

 しかし…

(見えない!)

 届くはずのバーが見えなかった。

 つかむハズのバーが、どこにも見えなかった。

 また、落ちる。


 落下する中、金色の士朗の目に後方の聖午(舜)も落ちるのが見えた。動かなくなったマネキンのように、硬直し落ちてゆく。

 月夜美(麻衣)も、一夜(京市)も、星二(真司)も、あたかも時間切れを迎えたかのように、動作の途中で動くのをやめ落下していた。


 ぼっ! ネットに5体(9人)が落ちた瞬間、受け止めたネットも時間の限界のように青い鬼火が走り燃え出し、地面に空いた穴の周りに黒い粉塵が散らばった。

 5体(9人)は閉じ始めた地上の穴に向かって、まっ逆さまに落ちていった。

「ダメ!!」

 偲が落下してきた麻衣=月夜美へ両手を伸ばして抱きとめ、穴のふちへ転がった。

「こんちくしょ!」

 十児が士朗の襟首をつかんで引き寄せた。

「!!!」

 沙羅先生も穴の縁で真司=星二を抱きとめ、京市=一夜はマグレが杖に引っ掛けて引き寄せた。

 しかし、手が足らなかった。

「くっ!」

 急いで起き上がった士朗が穴のフチへ這い寄った。

 舜をつかまえる手がなかった。

 舜=聖午が穴に呑まれた。 

「(聖午!)柚葉っっっ!!」

 士朗が舜の名を呼び、塞がりゆく穴へ手をつっこんだ。

 十児と偲も、同時に手を突っ込んでいた。しかし届くはずがない。


 日蝕が終わる。太陽が戻って来る。

 暗い穴は、だんだんとふさがり閉じようとしていた。


「ウニャッ!!」

 その時、穴のまわりをあわただしく走り廻って、前のめりに中をのぞき込んだり、腰が引けて後ずさったりを繰り返していたマオルが、意を決したように穴の中へ飛び込んでいった。

 ドン! 同時に、人魚も舜を目がけて、暗い穴の中へ飛び込んだ。


 士朗が燃え残りのネットをつかみ、穴の中へ放った。目に少年たちを包んでいた兄姉たちの姿が灰燼に戻ってゆく様子が見えた。

 ぐっ! ぐっ! と走りながらネットを引っぱり、片方は蜘蛛の足みたいな柱につなげ、ほどけないか確認する間に兄姉たちがぼろぼろと燃え尽きた白い灰のようにくずれ落ちてゆくのが目に映った。中から囚われていた少年少女たちが再び姿を現すのも見えた。

(くそっ! 月姉…)

 つい先刻(さっき)まで、振り返ってくれたら微笑みまで見えそうだった姉の顔を思い浮かべ、士朗は焼けつく胸をかきむしり兄姉たちの姿だった灰が落ちてゆく地面を蹴りつけた。

(星兄!! カズ兄ぃ!!)

 もう少しで見えそうだった兄たちの顔も、白い灰になって皆落ちた。

「ちっくっしょおおおっっっ!!!」

 叫びながら、放り投げたネットにぶら下がるように、士朗も穴へ飛び込んでいった。


 おぉおおおあぁああああああああーーーーーーーーんんん!!!


 なだれ落ちた黒い粉塵たちから呻くような声が湧き起こり、黒い怨霊たちが立ち上がった。黄泉のゲートをつないでいたエネルギーの根源は、こうした死者の怨霊たちであり、アストラル=霊の磁気を利用し増幅させたものだった。


「きゃああ! やだよ!! やよ! もぉう!! また来たよ!!!」

 偲が叫び声を上げて麻衣を揺さぶった。しかし揺り起こされなくても、みな起きていた。

 実は灰燼に囚われている間も意識はあって、まるで体感型のアトラクションをしているかのような視界と感覚で、空中ブランコをリアルタイムに体感していたのだ。

 まるで、本当に自分で飛んでいる(実際そうなのだけれど)ような体験だった。


「くっそ!」

 京市が奪われていた運動感覚を取り戻しながら、自転車に立てかけてあった竹刀をふらつきつつ手にとった。

 真司も相手のしようがわからなかったけれど、よろめきながらも半身に身構えた。

 麻衣は、大きく深呼吸をして、落ち着こうと正座し周囲を見直していた。

 偲と十児は再び跨がったバイクのアクセルを回し、沙羅は子どもらの真ん中で凍りついていた。


 舜も起きていた。落下してゆく穴の中で、目は開いている。

 囚われていた灰燼が舜からはがれ、白い灰になって穴の外へ吹き上がっていった。


(もう、いいや……)

 舜は、暗い穴の中に包み込まれ落ちてゆく事が、なんだか心地良い気にさえなっていた。 

(トクベツって、思っていたのはぼくだけだったんだ)

 なんだかもう、色んな事から離れてしまいたくなっていた。

(おばあちゃんとリキのとこへいくんだ) 

 舜は亡くなった祖母のチェンバロの音色と、ひなたのデッキフロアでわさわさとなでていたコリー犬の長い毛並の手触りを思い出していた。

       †


 立ち上がった黒い怨念たちは、士朗の兄姉弟たちの灰燼とは違い、

密度が粗くすかすかで脆そうにも見えた。

「なんか弱そう」

 強気な真司はそう見たけれど、

「さわったら、さっきみたいに捕り込まれちまうかも知れんぞ」

 竹刀を構えた京市は、素手の真司に注意した。


 ブロロロォオーーーーン!!!

 バオッ!

 バォオオーーーーーン!!!


 蹴散らす準備に偲と十児がそれぞれバイクに跨がり、エンジンをかけた時、


 ドドドォオン!! ドッドド!! ドドン!! ドォオン!!!

 と、MGRV8の4000㏄のエンジンも火を噴き轟いた。


「あれ? 士朗ちゃん?」

 穴に飛び込んだはずの士朗の愛車が吠え出したのに驚いて、みんなが運転席をのぞき込んだ。しかし、

「えーーーーーーっっっ!!!」

「沙羅先生!!!」

「運転できるん?!!」

 なんとエンジンをかけていたのは、さっきまで凍りついたように動けなかった沙羅だった。

「生徒は、わけわかんないものに触るんじゃありません!!」

 ハンドルを握りそう言うと、ハンドブレーキを下ろした。

「うわっっ!! ハンドル重っ!」

 しかし今時のパワーステアリングのハンドルではないMGRV8は、タイヤの路面摩擦、車体の重量がそのままハンドルの負荷になり、沙羅の細い腕ではハンドルを回すだけでも腕が骨折しそうだった。

「士朗さん、よくこんなもの運転できるわね」

 勇躍の期待された沙羅だったが、細い手首でほとんどハンドルは切れず、

 ゴッッ! ドドッ!!!!

「きゃあああああーーーーーーっっっ!!」

 ローファーの爪先でちょこんとアクセルを踏んだだけなのに、270㎞まで速度計に表示があるモンスターはものすごい加速を発揮し、運転席の沙羅は勢いとGにびっくりして、クラッチも切れなかった。

 ドドォオン…… ドン… スコッ… スコココ… ゴン

 あっという間にテントの柱に衝突し、エンストして豪快なモンスターは沈黙した。

「・・・・・」

 チーーーン

 リンという仏具の音が聞こえた気がする。

 エンストした車内で赤くなり落ち込んだ沙羅が、ハンドルに横向きにもたれ込んでいた。

 十児と偲が、またさっきの繰り返しなのか? と、後輪をスライディングさせながらターンし、突入準備の体勢に入ったところへ、意外な声が待ったをかけた。


「みんな待って! 動かないで!!」


 麻衣だ。


 透き通った声がみなの動きを止めた。

 部活に着替えた姿のまま偲に引っ張られて来たので、レオタード姿にジャージの上着をはおった格好で正座をしていた。そして、

「みんな下がって!」

 凛とした声でそう告げ、土に手をあて、なにやら唱えはじめた。


       †


 朝から学校へゆく足を曲げ、水晶の公園へ来た舜は、今、暗闇に落ちている。なんでこの公園に来てしまったのか? 


(マナナと子どもの頃から、おばあちゃんに連れられてよくここへ来ていた)

 転校だけでなく、この街からもいなくなるっていうのに……

(どうして? ぼくになんの一言もないんだよ?)

 舜はこんな疑問を、本当は心に浮かべる事さえ拒んでいた。


 だってその疑問を思う事はつまり、まず本当にそういう事が起こった現実を、舜が受け入れなければならないという事だった。


 引っ越しや転校そのものというよりも、真魚が舜に話さなかったという事が、どうして? と受け入れられないし、想像できない事だったのだ。今日もしも学校へ行って、


「どうしてシュンちゃんに言わなきゃならないの?」


 なんて言われたら、どう対応したらいいのか? とてもじゃないが、自分の気持ちが保てるか自信がなかった。そんな事を言われた日には、舜にとっては、天動説がコペルニクスの地動説に変わっ

てしまうほどの立ち位置の崩壊を喫す一言になっただろう。


(ぼくは、そんな事を知らせるほどの「間柄」じゃなかった、て事?)


(そんなハズないよ)


 実際には聞いていないのだから理由ははっきりとはしていない。

 けれど舜の中では、真魚は舜には話さない。それでいいと思っている。その2点の現実ばかりが大きく、破裂しそうなほどにふくらみ、胸の中を圧迫していた。


(だから見えていたはずなのに、昨日雨の中追っかけてったぼくを無視して行ってしまったんだ……)

 舜はそう思い込んでいた。


 ザリッ!

「痛った!」

 その時、何か小さなものが、舜の胸にぶつかって来た。

「ミャアオッ!」

 マオルだ! カサブタになっていた胸の引っかき傷がまた開いた。

「マオル! 生きてたの! 良かった!!」

 舜は思わず、しがみついて来たマオルが落下中に離れないよう抱き直した。

「ニャア〜ゥ、フォオ! ニャニャッ!」

 マオルは舜の胸にしがみつき、なにか抗議しているかのように鳴いて、爪をひっこめた前足の肉球で、何度か舜の胸や顔へ猫パンチを繰り返した。

「でもなんで? なんで、おまえまで落ちて来てんだよ」

 舜に正気が戻って来た。自分のことはあきらめても、マオルだけは外へ戻してやりたい。そう思えて、気力が戻って来た。

 しかしどうやって?

 手段を探そうと暗闇を見渡すと、足もとの方でうっすらと、士朗が放り込んだ蜘蛛のネットが光って見えた。

(……カンダタ?)

 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』がふとよぎった。

 しかしそのぼやっと光る蜘蛛のネットは遠く、手も足も引っ掛けられる距離になく落ちてゆく舜からはどんどん遠ざかった。

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