第6話 ◆ 篠月真魚(しのつき まな)

◆ 篠月真魚


 お月さまなんやろか?

 うちは……


 お母ちゃんにくっついて

 知らんおっちゃんとこへ、いかなあかんのん?

 お母ちゃんからハナれて…


 お月さん、地球からハナれたら、どないなんのやったっけ?

 引力でつかまってんのやったら、引力あれへんかったら……

 

 好きなとこ、行けるん? 

 好きなとこ

 

 好きなとこ、て…

 どこ?

       †


 歌水町の総合病院の一室に、士朗は立っていた。

 朝、隠ヶ淵(こもりがぶち)の横を犬の散歩で通った人に発見された真魚は「河童のカタリ岩」を枕に、オフィーリアさながら胸から下を入水させた状態で見つかったという。


「河童のカタリ岩」というのは、半畳ほどの座布団みたいな平たい畳岩の事で、ここで河童と話す事ができたという言い伝えがあった。

 その岩の上、真魚が後頭部を預けたそばに制服がたたまれていた事や、プールで使ったバスタオルが岩に敷かれていた事などから第三者に拉致されたというよりは、本人自ら水に入った可能性が高いのでは? という見方が有力なようだった。もちろん偽装の可能性も消えないが、周囲の足跡も本人と発見者、犬の足跡だけのようで、第一発見者を疑うとしても、喜寿に差し掛かるお婆さんで、少女が抵抗すれば逃げられるはずの相手だし、考えられる動機も見られないし、そういう事件には該当しないだろうと思われた。


 真魚の家は父親がいない母子家庭で、看護婦をしている真魚の母親は、学校へ寄った後すぐにこの歌水の病院へ夜勤で勤めていたため、真魚が家へ帰らなかった事に気づけなかったのだった。それで自分が勤めている病院に娘が運ばれて来たショックで、今は立つ事

もできないほど憔悴し、真魚の横に座りこんでいた。


「…そんなに、この子が嫌がってたやなんて…」


 再婚を考えた相手のため、真魚の母親は元々育った関西の方へ引っ越すつもりだったのだけれど、まさか…… と、まるで沼に沈んだのはこの母親であったかのように、深く沈み、うなだれていた。


「河童さんがの…」


 発見し救急車を呼んでくれたお婆さんが、心配して病室まで付き添ってくれていて、こうつぶやいた。

 隠ヶ淵(こもりがぶち)は、別名「河童のこもりがふち」とも呼ばれている。

 河童が隠れていると言われたり「子守ヶ淵」とも記され、おぼれた子供を守ってくれるという言い伝えもあった。実際、水難事故、特に死亡事故などは地域史にも記載がないほど、不思議と警戒のいらない場所として、ここは昔から親しまれてきた場所だった。


「河童さんに、引きずり込まれるから隠ヶ淵では遊んじゃダメよ、との。近づいちゃいかんのよ、と河鬼が脅すお祭りも昔はあっての、こんな水難を避けるために、子供らに恐さを刷り込む風習があったものなのよ」


 話し好きなのか、場をなごませて元気づけようとしてくれているのか、お婆さんは鼻にかけた小さな眼鏡がずり落ちてくるのをちょこちょこ上げなおしては話し続けた。散歩に連れていたチワワは、

お婆さんの腕の中で大人しく寝息を立てている。

「でもね、ひどい事するのはいつも人間。河童さんはの、守ってくれるもんなの」

 士朗に向かって言いながら、お婆さんは真魚の母親に聞かせたいようだった。


「だからの、娘さんも大丈夫。きっと、きっと、目を覚ますよ」


 真魚が発見された時、いくら夏とはいえ、一晩中水の中にいたら体温が奪われてしまうはずなのに、不思議な事に体温は下がっておらず、案外朝方入水して、すぐに発見されたのか? とも思えるくらい、酸素マスクをあてているものの呼吸も正常だった。

 ただ、原因不明の昏睡状態に陥っており、今は白いシーツにくるまれ点滴を受け眠っていた。

「命に別条はないでしょう」と、医師もそう言っていた事だし、案外今日にも、目を覚ますのかも知れない、と医師から説明を受け、深刻な事態は脱したと考えて大丈夫かな、と士朗もやっと少し、ほっ、とできたところだった。


(河童ねぇ……)


 本当に守ってくれたのか? 士朗の地元でもある歌水町では、河童のような鬼のような格好に扮し、子どもたちを脅し抱きかかえるお祭りがあった。士朗も小さい頃、双子の兄弟と姉の3人でお祭りに行った思い出がある。その頃3人は、叔父である校長先生の家にいっしょに暮らしていた。士朗の父親と二人の兄は、サーカスの興行で旅に出ていていつも離れていた。


 隠ヶ淵には「河童の屁」とも呼ばれる天然ガスの噂もあり、周囲をうっそうとした草木に囲まれたここには、あまり近寄らないのが普通で、お婆さんの言うようにひどい人間が隠れて悪さをするかも知れない危険もあった。


(あとで、見てこよう)

「それでは、学校が終わったらまた伺いますので」


 真魚の顔色も悪くないし、士朗は沈んだ母親を残して、ひとまず学校へ戻る事にした。

 その時、病室に置かれた真魚の鞄に目がとまった。発見された時、荷物といっしょに運ばれてきたのだろう。上に、ちらしとステッカーが置かれていた。

 なんとなく気になった士朗は、それらを手にとった。


(魔暮幻想遊戯団…?)


 青いベタから黒く変わるグラデーションに「魔暮幻想遊戯団」と

白抜きされたビラだった。


 どうぞ どなたも

 ごらんください


 きっと なんでも

 ミツカリマス


 士朗の顔から血の気が引いた。

(生徒達が言っていたサーカス、て、まさか……これか?)

 ちらしにはハーブティーか? 小さな釣り出しタイプのティーバッグがホチキスで留められていた。

 それから、銀地のミラー紙に黒一色で「我獣路」という3文字が印刷されたステッカーを士朗は見つめた。狼と十字架のマークが入っていた。


(ガジュウジだと?)


 なにかのチーム名か? 士朗は眉間にシワを寄せて、ステッカーのはじにあるホチキス針をはずしたアトと見られる穴を睨んだ。

「あの、このちらしとこれちょっとお借りしますよ」

 母親に一声かけて、真魚の事だけではない、別の緊張が加わったような表情をして、ひとまず士朗は病室を後にした。


 スキ のあと

 なにを したら ええの?


 スキ やと

 どうしたら ええのん?


       †


 もどり梅雨のなだれ打つ豪雨。

 廊下につづく窓ガラスを向こうまで激しく雨が叩いている。

 水槽のように並ぶガラス窓から、水の世界にしか生きられないモノたちがこちら側をのぞく午後。真司は水底に沈んだ電車の中のような廊下を急いでいた。

 緑色のリノリウムの床を踏んでゆくと、ふいに足もとが沼に沈み、河童にでも引きずりこまれそうな気持ちになる。


 助けを求めても、もう水の中で、教室の喧噪に、大量に落ちる雨の音に、真司の足音も声もなにもかもかき消され、きっと誰にも届かない。


 足早に階段を降り、真司は昇降口の前を過ぎて、体育館へつなが

る渡り廊下へ出た。

 重い鉄扉を開けて、授業のない、まだ誰もいない体育館へひとり入るとバスケット用の白い線が引いてあるフローリングをまたいで、入って来たのと反対側の鉄扉を押し開けセメントで打たれた半畳ほどの屋外の上がりに出た。

 後ろ手に扉を閉め、そこで真司は、やっと、ふっ、と… お腹にため込んでいた力を抜く事ができ、ぺたんと冷えたコンクリートの上にしゃがみこんだ。


(…なんで、舜の事で俺があんな目されなきゃ、いけねんだっ!)


 怖がっていた。

 麻衣の怯えた目が真司に焼きついていた。


 しゃがんだまま左足を振り上げ、真司は一度、力いっぱいコンクリートを踏みつけた。

 ペタン! と、響かない音がして、かかとからひざへ衝撃だけが上がってきた。


(…っくしょう)


 上がりのはじっこに少しだけ雨がかかっている。でも、体育館の屋根と囲む木立ちで、小さな中学生がうずくまるくらいのスペースは濡れずに確保されていた。

 雨は体には触れないものの、少年の心をぐっしょり濡らし通り抜けているようで、あぐらをかいた足の間に放り投げた両拳の間へ、下を向いた少年からいくつもいくつも雫が落ち、コンクリートを濡らしつづけた。


「シンは、熱い子だから」

 教室では、座る麻衣の両肩へ背後から手をのせ、麻衣の側頭部へ頬をくっつけた偲が真司のフォローをしていた。

(宇宙はバランスでできている)


「でも、舜くんは…… あんな事されて喜ばないよ、きっと」


「運がワルいなぁ、シンは…」

 偲は苦笑した。


       †


 士朗からの電話を置いた校長先生は、ひとまずホッ、と胸をなで下ろした。

「…ふぅう、体温にも呼吸にも、今のところ問題はないそうですよ」

 緊張して耳を傾けていた職員室全体に、安堵の空気が流れた。

「あとは、いつ意識を取り戻してくれるかですねぇ…」

 ため息を洩らした校長先生の方を振り返って、沙羅先生が尋ねた。

「…柚葉君は? 家にいたんですか?」

「あぁ、それはこれから見て来ると言っていましたよ。午後の士朗さんの授業ですが、自習か…あたしがやりましょうかね?」

「また落語ですか?」

 心なし頬を紅潮させ、ちょっと嬉しそうに言った校長先生の言葉に、沙羅先生が笑った。

「…校長、それはせめて国語の授業かホームルームでやってください」

 聞き咎めた教頭にも釘を刺され、校長先生は首をすくめた。

 本名をひっくり返すと「志ん朝」という落語名人と同じ名になる事からハマり、とくに上方落語が好きな校長先生だった。


「来栖先生の受け持ちは理科でしょう?」

 教頭の小言に空を見上げ、


「この雨じゃ… 士朗さんが楽しみにしていた皆既日蝕の観測も期待できませんね」


 校長先生は、真っ暗な雨雲を見てつぶやいた。

 それから一冊のぶ厚いバインダーを棚から抜き出し、そこに綴られたわら半紙を何か探すようにぱらぱらとめくり始めた。


「…なにを、見ていらっしゃるんです?」

 村田先生もほっ、としながら、校長先生が手にしたファイルを気にして尋ねた。

「あぁ、これね。新入生の時にね、みんなに『どんな学校にしたいか?』ていうテーマで書いてもらった作文のファイルなんです。ちょっと、気になりましてね… お、あった、あった♪」


 一年A組、篠月真魚。と、聞いて、みんな思わず、耳を傾けた。


『 青い 青い 学校が いい


  ここには

  プールしかないけれど


  あたしは

  海が あったらいい


  青くて 深くて

  大きな 大きな

  たくさんの水がある 海

  深海に 沈んだ学校なんて 

  かっこいいな

  

  校庭には珊瑚礁があって

  教室の窓には

  ネオンテトラとか

  クマノミなんかも泳いでいて

  

  赤ペンを忘れたら

  窓から手を伸ばして

  アークレッドペンシルを

  つかまえるねん♪


  グッピーやベタや

  そういうのが

  プカプカ 浮いてて


  それで その水が

  しょっぱくないと

  いいな 』


 バインダーに留められたわら半紙を見つめ校長先生は目を細めた。

「……ご期待に添う事はできませんが、ちょっと詩みたいで、あたしゃ気に入っているんですよ。士朗さんなんか、これじゃ息ができない、なんて夢のない事を言っていましたがね」


「……案外、あの子にとってはこの学校、いえ……私のクラスは……息が、できないところだったのかも知れません」


 室内にいるのにぐっしょり濡れているように肩の落ちた村田先生が、ソファに沈み込んだままの姿勢で、ふ と、そうこぼした。

 3つの小学校から編入してくる1年生の教室では、真魚の使う関西弁が珍しく、テレビのお笑いのように面白い事を「言って」「やって」と、迫る生徒が多かった事に当時村田先生も気づいていた。

 真魚の事を喜ぶ生徒もいたけれど、中には言葉をからかい、逆にウケたりする真魚を妬んで意地悪をするグループもあった。舜と真司がいつも真魚を庇っているようだった。


「どうして、先生はなにもしないの?」


 舜に詰め寄られた事があった。それでも、生徒たちの中に介入できず、真魚と舜を庇い手を出した橘真司の方を村田先生は罰するかたちとなり、生徒たちから信頼を失った。

 舜はそれから、先生の誰とも話さなくなった。

 村田先生は、そんな生徒間の事になにもできなかった無力さを悔いて、今年担任を持つ事を辞退していたのだった。いや、本当は辞職するつもりだったのを校長先生が引き止め、社会科専任の教師として残したのだった。


 閉め切った窓という窓を濡らし、絶えまなく降りしきる雨の中にいると、ここは本当に水の中にいるかのようだった。室内の音はみんな雨に吸収されたように静かで、言葉も雨に奪われたようにみな口をつむっていた。


「…雨の音、て、どんな音ですか?」


 と、だんだん弱まってきた雨足のような優しさで、校長先生がふと、努めて明るい声になるように注意して、言葉を接(つな)いだ。


「雨って、音がするもんでしょうか?」


 そう問いかける校長先生を振り返り、沙羅先生が返した。


「ザアザアとか、ポツポツ、とかですか?」

 ソファに沈み込んだ村田先生も、校長先生を見上げた。

「…しとしとぴっちゃん、とかですかね?」


「…うん。それは実は、雨の音ではないんです」


 校長先生は後ろ手になり、職員室の窓から見える小さな庭園の築山へ目を向けながら続けた。

「ざあざあも、しとしとぴっちゃんも… 雨自体の音ではなく、実はそれは、屋根に落ちたり、窓に当ったり、地面にぶつかったりしてわかる音なんです」

「でも、ぶつかった屋根にあたった音は、雨と屋根のふたつの音という事にはならないんですか?」

 首をかしげて問いかける沙羅先生は、子どもっぽい顔に見える。

「非常に、いい質問ですねぇ♪」


 校長先生は、いい視点だ! と手のひらを打ち、今のは右手と左手、どっちの音でしょ? と嬉しそうに話し続けた。


「落ちてくる雨はみな同じなのに、表される音、表現はたくさんありますね。つまりそれは、当たったもの、ぶつかったものの鳴った音だから、様々な表現に表されるんです」

「じゃあ、結局雨自体の音はわからない、て事じゃないですか?」

「ぇえ、しかし、わかる事もあるんです」

 校長先生は釣りをしているような楽しさで、沙羅先生の問い返しに頬をほころばせて応えた。

「何にもぶつからなければ『音』も出ません。ぶつかっても、その音自体は違うのかも知れない。それでもですね」

「はい…」

「雨のぶつかる『強さ』はわかるんですよ」

(…あっ)

 沙羅先生は、雨と生徒を置き換えた話だったんだ、とやっとわかって、校長先生を見直していた。

「ちょっと、キザな事言っちゃいましたかね」

 校長先生は、照れて向こうへ行ってしまった。

 生徒の声が覚えられない、生徒の事がわからない、とよく悔いるようにこぼす村田先生への、校長先生なりの励ましだったのか? 沙羅先生はそんな風に受けとった。

 真魚の意識が回復してくれる事を心から祈りながら、みな止まない雨音に耳を預けていた。

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