第5話 ◆ 猫儿(マオル)
◆ 猫儿(マオル)
ピリリリリリリリィーーーッ!
ホイッスルが鳴り響くと、砂煙を上げ駆け巡る猫たちは、いっせいに前足を突っ張らせ後足を前にすべらせて勢いにブレーキをかけはじめた。笛の音にふいをつかれた舜は思わずびくっ、と肩をすくめた。
猫たちが走るのをやめ、だんだん砂煙が薄れてくると、円形広場の中央に、周りの猫たちに比べるとひときわ大きな赤毛の山猫が後足で立っていた。大きく膨らませた尻尾を三脚のように使い、器用に後足だけで立っている。おでこの逆毛が青い稲妻のようだ。太い
前足を天頂へまっすぐ向け、口元に真鍮のホイッスルをあてがっている。
円形広場を走り回っていた猫たちは、赤毛の山猫を見つめ、次の
合図を待った。
舜にも、合図を待つ猫たちの緊張が伝染した。
山猫は、上げた前足にそんな緊張感を集め、頃合いを測るように辺りを見回している。そして、ヨシッ、と前足を振り下ろそうとしたその瞬間、ぽーん と、山猫のおでこを踏んづけ飛び越えていった猫がいた。
(あっ…)
舜の胸を、ザラリと舐めていったあの銀毛の仔猫だ。
フギャギャッ?!
せっかくの良いタイミングを奪われ、自慢の逆毛も踏んづけられて砂ぼこりのあしあとをつけられた山猫は、逆毛をはたくように忙(せわ)しく前足で顔を洗った。それを見て、もともと長い緊張に耐えられない猫たちも驚いてしまい、銀の仔猫を追うように、またさっきとは逆の方向へと、いっせいに走り始めた。
フギャーゥオウッ!
フギャーゥオウッ!
山猫は慌てて前足をバッテンに組んだり水平にしたりを繰り返し動揺の広がった猫たちの群れを静めようとしたけれど、再び走り出した猫たちは走る事に夢中になって、まったく山猫の指示など見なくなっていた。
今度は舜にも、あの翡翠色の瞳をした銀毛の仔猫が、どこを走っているか見つけられた。仔猫はいたずらが成功した子どもみたいに嬉しそうに駆けていた。
ピッ!
ピリリリリリリリィーーッ!
もう一度、青い逆毛を直した山猫の笛が吹き鳴らされた。
オッドアイのペルシャも、ゼブラ模様のアメショも、内心のドキドキを冷静に見せかけて再び急ブレーキをかけて停まったけれど、気を落ち着かせるためのグルーミングに忙(せわ)しなく、他の猫たちも前足や体を舐めて、リラックスするのに必死な様子になっていた。
そっと隠れようとした銀の仔猫が、警戒した山猫にいち早く見つかり、フニャ〜ァウオゥ、フニャニャ〜ァウオゥ… と、なにやら説教されている姿がおかしかった。
山猫はいたずらな仔猫から目をそらさないようにして、改めてまた、右前足をそろぉ〜、と慎重に持ち上げた。そして今度はもったいをつけず、邪魔されないうちに「ウニャッ!」と素早く振り下ろすと、グルーミングにせわしなかった猫たちは、今度は近くにいる猫同士でお互い体をこすりあわせ始めた。毛足の長いペルシャは両側から2匹にはさまれ、体を前後に伸ばしたり縮めたり小刻みに揺らしたりしている。ンナァ〜ゴ、ゴロゴロ…… ゴロゴロ〜ンと、猫たちはノドを鳴らした。
パチパチ… バチッ!
なにかはぜるような、弾けるような音が辺りから聞こえはじめた。
淡く浮かび上がる月の光のような白砂の上で、体を摩擦させあっていた猫たちの体に変化が起きている。毛足が長いモノも短いモノも、みな毛が逆立ち、毛先から体の表面全体にプラズマを帯び、青い光に包まれはじめたのだ。オッドアイのペルシャも長い毛をすべ
て逆立たせて、まるで針千本のような姿になっている。
フギャギャッ!
ピリリリリリリリィーーーッ!
帯電した猫たちを煽るように、山猫が腕を回し再びホイッスルを吹き鳴らした。
(うっわ…)
すると、青いプラズマを帯電させたまま、また猫たちがぐるんぐるん走り始めた。猫たちはぐんぐんスピードを上げ、舜の目にはもうほとんど青い閃光が駆け巡っているようにしか見えなくなった。さっきの銀毛の仔猫どころか、どの猫もみんな、光の中に飲みこまれ放電しか見えなくなっている。
白い子象やブランコを囲む円形広場の周りをものすごい電流が駆け巡り、舜はまるで電磁コイルの中にいるようで、舜の髪の毛までも逆立ってきていた。目の錯角か? ニセモノの夜空と白い砂地が、歪んだレンズでのぞいたように、溶けたガラスのように近づき合い、つながろうとしているように見えた。
そして、ふっ と、いきなり地面をとられ無重力に放り出されたような感覚に襲われ、舜はあわててすべり台の鉄柵にしがみついた。
落ちるでもなく上昇するでもない。電磁コイルの呼び込んだワームホールの宇宙で舜は身ひとつで浮遊しているような感覚をおぼえ子象の王冠からますます手がはなせなくなった。
旋回する青いプラズマから更にスピードを上げた閃光が仲間の背中を踏みジャンプする様子が目のはしに映った。金色の瞳をした黒猫だ。プラズマを帯びた黒猫が駆け昇って宙に躍り出ると、それはたちまちのうちにゴロゴロとのどを鳴らす真っ暗な黒雲へと変化(へんげ)した。
中央で仁王立ちになった山猫が、旋回する閃光から両前足をぶんぶん回してプラズマを巻き取っている。
ゴロゴローン!
そしてのどを鳴らす猫たちの放電もますます光が強くなり山猫が巻き取ったプラズマを、わっ! と宙へ放り上げたその時、
ドドーン!
バリバリバリッ!!
と、天から落ちたのか? 地から逆昇ったのか? プラズマはものすごい稲光りとなって、円形広場の中心に太い稲妻の柱が出現した。
†
「…どこか、落ちましたかね?」
ゴロゴロ… と雷雲(らいうん)の上で化け猫が鳴らす喉(のど)の音(ね)を気にしていた校長先生は、大きな雷鳴を耳にし誰ともなく話しかけた。
「…城址の方でしょうか?」
校長席の前に設置された応接スペースのソファに腰掛けた社会科の村田先生が声を返した。村田先生は真魚や舜、真司たちの昨年の担任だった。白髪まじりのグレーの髪に開いているのか閉じているのかわからないような細いたれ目で、校長先生よりまだ若いはずなのに、いつも元気のないなで肩を落とし深くソファに沈む姿はずっと年老いて見えた。
「…病院の、近くかも知れませんね」
村田先生の背中合わせの席で、授業から戻ってきた沙羅先生が会話に加わった。
「士朗さん、上手く伝えられたのでしょうかねぇ」
城址に近い病院へ様子を見に行っている甥の、朝の様子を思いやって校長先生はつぶやいた。
普段人前では「来栖(くるす)先生」と名字で呼ぶように心掛けている校長先生だったけれど、実は士朗の父の弟でもあるこの人の良い叔父さんは、こういう時になるとつい名前でぼやいてしまうクセがぬけなかった。
遠くから、何層ものレースのカーテンが重なり迫って来る。
住宅の屋根を濡らし、土手道の紫陽花を叩き、校門の鉄柵にはじかれ運動場の砂に穴を穿ち、激しい雨が職員室まで走って来た。
「あらあら!」
先生たちはいっせいに、開けていた窓を閉めに走った。
「生徒達は、柚葉君の事だと思っていたみたいですね」
「……」
唇を小さくとがらせて、少しとげのある言い方で沙羅先生が言うと、答えない村田先生に代わって、校長先生が口を開いた。
「病院のあと、柚葉君の家へ寄ってみると言っていましたよ。誰か家にいれば良いんですが…」
「村田先生の教室ではしゃべっていたんですか?」
沙羅先生が、2年生になってから全く話さなくなったという舜の事を村田先生に尋ねた。
新任の沙羅先生は国語を受け持っていて、テストではいつも満点なのに朗読などはまったくしてくれない舜を不思議に思っていた。そしてそれが、前任の村田先生のせいではないのか? と、疑っていた。
柔らかなウェーブがかった栗色の髪も、いつも笑っているか? 泣いているように見えてしまう下がり気味の目尻も、そんな時はみんな小さくとがらせた桜色の唇に負けて、彼女を勝ち気な印象へと変えてしまう。村田先生は雨を見つめ、困ったように黙っていた。
†
校舎の3階。廊下の突き当たりをL路に折れた用具室の扉前に、真司と4人の少年たちが向き合っていた。
「お前はなんだよ?」
真司が、呼び出した3人以外にいるもう1人に向かって言った。
「俺も昨日何があったか知りたいだけだ」
潮枯れしているハスキーな真司の声とは違う重々しい声で、1人腕組みをして壁にもたれた少年が答えた。
「お前、こいつらの助っ人かよ?」
色白だけれど太く引き締まった腕。重心は低いが、背は真司よりも大きい。その中学生にしてはドスの効いた声に警戒心を抱いた真司は、この少年との間合いを計りながらまた尋ねた。バタバタと降り始めた雨が窓を叩く。雨音に消されないよう少年たちは少し声のボリュームを上げた。
「さぁな。場合によっちゃ、俺がこいつらシメても良い」
(へぇ…)
真司は初めて話すこの少年に、悪くない印象を持った。
真っ黒な短かめの髪をサイドバックに流し、前髪は立ち上げて太い眉の下、冷静な目を3人に向けている。
都合2人の少年にはさまれた格好になっている3人の少年たちは、居心地が悪そうに真ん中でそわそわしていた。
「なぁ、別に俺ら柚葉の事いじめたりとかしてねーからな」
なにも聞かないうちに、緊張に耐えかねた1人が言いわけを始め
た。
「傘とったやつぁ、おまえか?」
真司が握ったままの拳から中指だけをとがらせて、口を開いた少年の胸をノックするようにコッコッ、と軽く突いた。
「傘持ってなかったのは、こいつだけだよ」
胸を小突かれた少年が肩をすくめ左側の少年を指差した。
「ぁ〜あ、取ったよ! 悪かったよ」
瞬間的に真司は指差された少年の胸元に右腕を伸ばし自分の方へ引きつけた。胸ぐらを引っ張られた少年のシャツのボタンがいくつか飛び、真司はゴツッ、と額と額をくっつけ
「お前の! どこに? 今! 悪かった! て、態度があったよコラ!」
と、シャツをつかんだ手はそのままで、左拳を鳩尾(みぞおち)に軽くあて相手を折りひざをつかせた。
「待ってくれよ橘! 俺ら雨ン中柚葉を追っかけたのは確かだけど、ほんっとあいつ足早えーし、やっと追いついて一緒に土手滑り落ちた時には、もう俺らだってくたくたで、ほんとどうでも良くなって、一発も殴ったり、別に蹴ったりもしてねぇんだって!」
最初に口を開いた真ん中の少年が、シャツをつかんだ真司の腕を巻き取るように両手で抑え、屈んだ少年を庇った。
正直少年たちにも、どうして昨日あんなにも舜を追っかけていったのかよくわからなかった。傘を持ち出そうとした学校の正面玄関で、どこから迷い込んだのか黒猫を見た気がした。妙な目で見つめられて、なんか? 変にカッときて……
真司の押さえられた腕を見て、黙っていた別の少年が、
「ナメんなよ、お前! ナニ様だ!!」
と真司の態度にキレて顔面を殴りつけた。
同時に屈まされた少年が真司の両足をつかんで引っ張り、とっさに後頭部は庇ったものの真司は仰向けに倒された。
「お前らがやった事はなぁ!」
しかし真司はすぐさま、鍛えられた腹筋で跳ねるように上半身を起こし、足をつかんだ少年の鼻っぱしらへ頭突きを見舞うと、すぐ中腰にひざを立て、殴られた右の少年の首へ右腕を巻き込んで跳ね腰で飛ばし自分の下に組みしいた。
「対等(フェア)じゃねーんだよ!!!」
1対3という数の事や、反撃されない相手と見込んで追い回した
のだろうという一方的な仕打ち、そういう卑劣な集団心理に真司は我慢ならなかった。興奮した真司の怒りは、自分だって鼻血が出ているのに、その痛みもまるで感じないくらいに高揚していた。
「はなせよ、おい!」と真ん中で2人を庇っていた少年が真司を踏
みつけようとしたその時、傍観していた少年が腕組みをほどき、その1人の後ろ襟をつかんで引っ張った。
そこへ、真司にとっては不幸な事に… 様子を心配した麻衣と偲がやって来て…
「シンくん! もう、やめて!」
と、麻衣がよく通る涼やかな声を響かせた。
(…うっ)
声音が半泣きになっているのがわかり、真司はひるんだ。
用具室の前で、お腹と鼻血を押さえて倒れている少年に、真司に首を抑えられ組みしかれている少年。真司も鼻血を出していたけれど、この瞬間だけを見ても真司が圧倒しているのがわかった。
麻衣と偲の後ろにも野次馬が集まりだして、真司は仕方なく首をキメていた腕をほどいた。しかしそれでも怒りのおさまらない真司は、下敷きにした相手の髪の毛をつかんで、
「あいつにゃ俺がいる、て事…… 忘れんなよ」
と言い残し立ち上がった。
鼻血をぬぐいながら人垣を分けた時、すれ違った麻衣の怯えた瞳が、真司の目と合った。
「なんで京市まで、ここにいるのよ?」
偲に声をかけられた少年も、つかんでいた後ろ襟から手を放し、真司の後について場を離れた。
雨が本降りになっていた。
†
ニセモノの夜の下。立ち昇った稲妻はみるみる太くなり、山猫も舜のしがみついたすべり台もブランコまでも広く包み込み、あっという間に円形広場いっぱいにまで膨らんだ。
舜は、こんなにまばゆい光の中にいるのに、それを眩しいと感じない自分に気づいていなかった。
ドドドドォーオン!
ゴゴゴオォーン… ゴゴォーン…
轟音が鳴った。
それが遠雷に変わり音が遠ざかってゆくのに従って光が薄れ、ニセモノの夜が支配する白砂の円形広場がまた目に戻ってきた。
自分たちで引き起こした稲妻に包まれた猫たちの姿が消えていた。そのかわり……
そこには色彩々(とりどり)のチャイナドレスを着た一団の男女が、片ひざをついた姿勢で現れていた。
(あれ、さっきの山猫かなぁ…)
中心に、首から真鍮のホイッスルをぶら下げ、赤い髭をたくわえた青い逆立て髪の小太りの男が立っている。緋色をした長袖のチャイナには光沢があり、裾が長く、逆さになった「福」の文字や、鈴や木天蓼(またたび)の模様などが刺繍されていた。下はシルクの黒いカンフーパンツを履いており、尻尾はもう見えなかった。
(あっ、あの子)
それから舜は、一団の中に1人だけ、子どもが混じっているのに気がついた。
5〜6才位に見える銀髪の少年が、仔猫の時と同じ翡翠(ひすい)色の瞳をぱちくりさせ、小太りの赤髭のそばに座ってきょろきょろしている。淡く光沢のある銀のノースリーブのチャイナを着た少年は、みんなが下を向き礼の姿勢をとって片ひざをついているのに、1匹、いや1人だけ、ぺたんと尻餅をついたかっこうできょとんとしていた。うっすらと銀の産毛の残るむき出しになった腕を不思議そうになで、指先でつまんでみたり、少し寒いのか? 肩をさすったりしている。
赤髭が、ホイッスルを短く吹いた。
ザッ! と一同が立ち上がった。
しかし小さな少年はまだ、着ているチャイナに刺繍された露草の模様を引っ掻いてみたり、お尻をさわって尻尾を探したりしている。
「…猫儿(マオル)ゥ」
マオル、と聞こえた気がした。
赤髭は山猫が人間の姿になったモノのようで、発音が上手くできないのか? のどをぐるるる… と猫のまま鳴らして、しゃがんだ少年に呼びかけた。
マオルと呼ばれた銀髪の少年はあごを浮かし赤髭を見上げ、それから振り返って、立っているみんなの姿を確認した。そこかしこでまだ多少帯電している猫人たちがいて、パチパチッ… と、体に小さなプラズマを走らせている。
みんなの姿を見て、小さなマオルも真似をして、そろぉと立ち上がってみた。
おっ、と… しかし慣れずに前足… ではなく両手を前に出してバランスをとり、なかなかひざを伸ばせない。そこへ黒いカンフー服の2人がくるくるっと棍(こん)を回し、少年マオルの両脇から「エイ!」と足元を薙ぎ払った。銀猫少年はとっさに、扇が舞うように側宙転でかわし、足音もさせずにふわりと見事に着地をキメた。
(おーっ!)
思わず拍手をした舜に、マオル自身も驚いた表情で、伸びたひざ
や、Y字に伸ばされた腕などに、マリオネットの糸を探す仕種を見せた。
もしかしたら? さっき姿を消した怪人? マグレ団長? あの老人かそれとも、にせものの夜に溶け込んだあの影男かが、等身大のマリオネットを操って見せているのかも? 舜は繰り広げられる不思議な光景に目を奪われながら、そうも思った。
でもそうした不思議よりも、実はずっと、昨日振り返ったのにそのまま行ってしまった少女の姿がどの場面にも重なり頭から離れていなかった。
ふり返ったのに……
もう、お別れはすませた気持ちだったのかな?
ぼくの事なんて……
いや、ダレかわからなくて、雨で見えなかったのかも?
いや……と、舜の中ではずっと、さっきまで駆け巡っていた猫たちのように、昨日追いかけた紫陽花の土手の時間からひとり脱け切らず、ぐるぐるとまだ回っている最中のような気持が続いていたのだった。
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