第18話 受験エリートは、死から逃れるために、宗教の勉強をする。

 普段は寝ている時間を約束のため早起きした。

 そして、満員電車に揺られてわざわざ出掛けたのに、またしても結果は予想通りだった。

 つまり、散々だった。

 

 仮に上手く言っていたとしても、気分は優れなかっただろうと思う。

 就職したら、こんなに規則正しく朝早く起きて、ギュウギュウ詰めの電車に乗らなければならないのだから。

 

 みな余裕なく、仏頂面を浮かべて、僅かな空間の確保のために、必死になっている。

 そんな中に入るだけ、精神的に疲れる。

 心だけでなく、実際にどうも体調が悪い。


 あんなに狭い空間に、あれだけの人間がいれば、当然中は、病源菌の宝庫だ。

 だから、調子が悪くなるのもある意味当然だ。

 そんな憂鬱な気分で、スマホをなんとなく見ながら、トボトボと帰路を歩いていると、不意にラインが来た。

 

 あの男からだった。

 やっぱり、こっちから送らなくてよかった。

 恵梨香は、この数日ヤキモキしていた。

 すぐに相手から返信が来ると思ったのに、こなかったのだ。


 何度、ラインを送ろうと思ったことか。

 だが、それは恵梨香のプライドが許さなかった。

 自分は求められることはあっても、こちらから求めるなんてありえない。


 ましてや、いくら医者とはいえ、あんなたいして冴えない男を。

 とはいえ、ラインの通知を見た時、心が浮き立ったことは確かだった。

 やっぱり、私はまだまだイケる。

 常に求められる存在なのだ。


 ここ数日会った中年の面接官どもは恵梨香の外見にみな鼻の下を伸ばしていた。

 それなのに、うまくいかないのは、何故なのか。

 簡単なことだ。外見は優れている。

 けれど、それ意外の能力について、恵梨香は他の候補者より劣っている。


 そういう人間を雇うほど、恵梨香が応募した企業は甘くないということだ。

 いや、恵梨香程度の経歴でも、書類選考を通過しているのだから、やはり外見の力は少なくないはずだ。


 それでも、契約社員ならまだしも、正社員としては無理ということか。

 以前、どこかで、客の男が言っていたことを、あやふやな記憶から引っ張り出す。


「正社員は絶対クビにできないから、最強だよ」


 恵梨香が漠然とイメージしていたサラリーマンは簡単にクビにされる存在だったから、そのギャップが妙に頭に残っていた。

 ドラマなどでは、「リストラされる悲哀のサラリーマン」がよく描かれているし、現実の事件などでもよく取り上げられていた気がする。


 「終身雇用の崩壊」「大企業のリストラ」そんなフレーズを流し見ていたテレビのワイドショーで聞いた記憶がある。

 そもそも、どういう場合を正社員というのかよくわからない。

 今の自分はどうだろうか。


 どういう立場なのか示されたこともないし、恵梨香もたいして興味はなかった。

 決められたルーチンをこなし、毎月決められた安い給料が渡されるだけ。

 ただ、営業職ではない恵梨香のような事務職の女性は、一定の年齢を超えたたり、妊娠したら、辞めていくかのが、慣例になっていた。


 社員50人も満たない中小零細の安月給の職だ。

 しがみついても、しょうがないから誰も慣例について文句は言わない。

 一応、恵梨香でも聞いたことがある大企業と取引があるらしいが。


 だから、アプリに記載したプロフィールは厳密には嘘ではない。

「大企業系列」の企業に勤めているのだから。

 今の職に未練は何もない。

 生活リズムを失わないためにやっている副業みたいなものだ。


 給料面でもこちらの職は微々たるものなのだし。

 とはいえ・・「世間体」と男をしばらく確保できなかった時の「保険」を考えると、安定しない「本業」に頼るのは心もとない。

 かといって、吹けば飛ぶ今の中小零細など、よりいっそう頼りない。

 

 だから、恵梨香はこの年になって、初めてマトモな職探しをしている。

 とはいえ、高卒の中小零細の事務職を転々とした職歴しかない女を雇うほど、今の企業は甘くない。


 もっとも、選ばなければ正社員の職は多くある。

 だが、そういう職は恵梨香には受け入れられないものばかりだ。

 介護や飲食などに勤めたくない。

 それこそ、恵梨香が見下す地元民と同じだ。

 男を選ぶ基準と同じで、妥協ができない水準がある。


(今度の土曜日空いてますか?)


 男からのラインはシンプルなものだった。

 恵梨香は、眉根を寄せる。

 もう少し、何かあってもいいのに。

 あれから、一週間くらいなんにも音沙汰がなくて、ようやく来たのがこれ?


 相手の気持ちが読み取れない。

 自分のことを取るに足りない女だと思っているのか。

 恵梨香の自尊心がくすぐられる。


 もう少し、焦らしてみよう。

 空いているけど、すぐに会うのはどうにも気に食わない。

 都合が良い女のように思われるのもシャクだ。

 

 もう一つ通知があった。

 こちらはメールだ。

 アプリを立ち上げるまでもなく、通知の題名だけで内容はわかった。

 応募をしていた企業の一つからだった。

 

 こちらはやはりなかなかうまくいかない。

 ならば、男の方に力を入れるべきか。

 スマホの画面に映る自分の暗い顔を見つめながら、恵梨香は、大きなため息をついた。


 家の近くの喫茶店で一人、コーヒーを啜る。

 平日の昼前だからか、いや曜日に関係なく、この店に客はいつもほとんどいない。

 チェーン店ではないから、値段は少し高めだが、いつも空いていて、落ち着けるところが気に入っていた。


 商売的にはどう考えても、回っていかないだろうが、自宅併用で、従業員も家族だけなら、最小限の売上でもなんとかなるのだろう。

 店主らしき人間は中年、いや老人に差し掛かる年齢だから、喫茶店は趣味で、他の収入やこれまでの蓄えで細々と生きているのだろう。


 四人掛けのテーブルに一人で腰掛けているから、広さはタップリあった。

 これだけ空いていれば、一人で占有していても、怪訝な顔もされないだろう。

 テーブルの上には数冊の厚い本を置いている。

 「イスラムとは」「キリスト教の本質」「仏教の教えの基礎」など、全て宗教関係の本だ。


 傍目から見れば、今の城田は、レポートに追われている大学の学生といったところだろう。

 だが、現実は学生などよりはるかに切羽詰まっている。

 なにせ、短期間で、自身を救う信仰を見出さなければならないのだから。


 平日昼間にのんびりと喫茶店でコーヒーをすすっているのだから、当然会社は休んでいる。

 これだけ、頻繁に休んでいるのだから、城田は完全に、支店内で、「おかしな人」認定されているだろう。


 だが、そんな会社の評価など今は頭の片隅に一瞬浮かぶ程度だ。

 今はそんなことより、重要なことが、城田の頭の大半を占めていた。

 自分の「死」という問題についてだ。


 考えてみれば、「死」自体、さして珍しいことでは本来ないはずだ。

 死ぬことを前提にあらゆることが設計されている。

 城田がいつも売っているローン商品だって、死んだら保険でカバーされるようになっている。


 それほど、「死」とは身近なもののはずだ。

 だが、城田は、そのことについて考えたことがなかった。

 それを今こうして、急ピッチで学ぼうというのだ。


 まるで、急に上司から仕事の締め切りが来週だと言われた部下のように。

 こうなったのは、つまり、「死」について今の今まで向き合ってこなかったからなのだが、その原因は何なのだろう・・・

 

 要は自分のせい・・・なのだが、無理に何か外部的なものに原因を求めるとすれば、社会のせい、つまり日本社会のせいではないか・・・

 家族との会話でも、「死」について議論したことはない。

 祖父が亡くなった時でさえ、したことはない。


 これは、城田の家庭が特別という訳ではないように思う。

「死」という概念はどんな媒体でも取り上げられているほど、身近だけれど、そういう「死」は、自分に振りかかるのを避けるべきもの、として扱われている。


 でも、「死」は誰もが避けられない。

 だから、「死」に直面した場合にどうするかということも本来考えておかなければならない。

 だが、日本ではそうしたことは語られていない。


 宗教が、日本ではどうにも胡散臭いものとして忌避されているのも、大きい。

 知人、友人が宗教の話をしてきたら、それこそこないだのネズミ講に誘われた時と同じように嫌悪する。


 宗教の影響が極めて小さいのはいいところも数えきれないほどあるが、やはりデメリットもある。

 その最たるものが、「死」に対する心構えを育成することができないということだろう。


 そういう訳だから、城田は、当然のこととして、無宗教であり、「死」に対する防備がまるでできていないという訳だ。

 本当に無神論者かというと・・・どうなのだろう。

 そこまで確信を持って「神」という存在を否定したことはない。


 というより、「神」という存在を深く考えたことがない。

 しかし、「神」を意識していなくても、信じていたような気もする。

 これだけ死が身近に溢れているのに、死ぬ訳がないとたかをくくっていられたのは、自分が特別だと信じていたからだろう。


 そして、特別という思い込みはある意味自分が神に選ばれていると考えるのと同義だ。

 自分が特別であると無意識に信じているのだから、「神」を信じられる素地はあるように思える。

 しかし・・・

 

 城田は、ひと目をはばからず、「はああ」と聞こえるくらいの大きなため息を付く。

 どうにもイライラした時のいつもの癖が出た。

 これには、自分に対して半分、外に向けたアピール半分の意味がある。

 音を出すことで、外部からの目を自分に向けさせたいという含意がある。

 

 机に置いた分厚い宗教関係の本はまるで、頭に入ってこない。

 大学生時代に、読んだ法律の基本書のようだ。

「こいつがやったことは悪いことだから、裁く」ということを何故ここまで、わかりにくい言葉で説明するのかと、当時思った。

 

 どうやら、神の存在証明も同じくらいに、まわりくどいようだ。

 それでも、読めば読むほど、理解が進むのならまだ良い。

 だが・・・城田の脳裏には、先ほどからある言葉が、こだましている。


 ・・神などいる訳がないと・・・



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