第3話 用心棒
茂みから飛び出すとそこは見渡す限りの広い草原だった。
森から出た? 悲鳴を上げている女人はどこだ? だが草原を見渡しても、それらしい人影はどこにもいない。
振り返ると、鬱蒼とした森が不気味さを増し、佇んでいた。
もう一度、森に足を踏み入れれば命はない。恐れから足が進まなくなっていた。
そもそもここは人が立ち入れる場所ではない。さっきの声だって人かどうかもわからない、某は体のこわばりを解き、大きく息を吐いた。冷静になって考えてみよう。
あの声は人間だったのだろうか、可能性は限りなく低い。この森は普通の森ではない。森を前にしただけでこの圧迫感。只人が不用意に足を踏み入れるだろうか? 答えは否だ。
森の大きさはさほどではない。なのに某はたいぶ走った。それも一直線に……つまり森の中の空間は捻じれ、適当に進んだのでは出られない仕組みなのではないか?
それでも某が森から脱出できたのは、あの声がした方向に進んだからだ。
つまりあの声は、某を森の外へと導くための物だった。そう考えるのが妥当だ。よって再び森に足を踏み入れれば、森の外に某を導いた森の主の怒りを買い、今度は敵と認識される可能性がある。神か仏か、正体はわからないが偉大な存在に違いない、そんな相手に喧嘩を吹っ掛けるのは利巧とは言えない。
二度と森から出してもらえないだろう。
ごくっと喉を鳴らしながら小袖に付いた木の葉を払い、気を取り直して遠くを見渡した。どこまでも緑の絨毯が広がっている。人の気配はまったくなく整備された道もない、確かにこんな不気味な森がある近くに村や町があるわけがないか。人里から遠く離れた場所なのだろう。
とりあえず公道が見つかるまで歩こうと思い、歩き始めようとして、なにやら忙しない音に視線を向けた。
前方から土煙が近づいてくる。すごい速さだ。
「馬か?」
しかしよく見るとそれは馬ではなく、二匹の巨大なトカゲだった。いや、トカゲと形容したが近しい生き物がトカゲしか思いつかなかっただけで、大きさも形もトカゲとは似ても似つかない。まず大きさは馬二頭分。これだけでも十分おかしいのに、外皮は深い緑色の鱗で覆われており、日の光を浴びてギラギラと輝いていた。
そして速さが馬とは比べ物にならないほど速い。
トカゲの首には棘の付いた首輪が嵌っており、後ろの荷台と鎖で繋がっていた。
二匹が凄まじい勢いで近づいてくる。
するとトカゲたちが急に進む方角を変え、微調整し始めた。某がちょうど立っている所へ一直線に突っ込んでくる。
ぎょっとして腰の刀に手を伸ばした。
どうすればいいのかわからなかったがとりあえず刀を抜いた。かつて騎馬武者を馬ごと一刀両断に切り伏せた経験はあるが今度の相手は巨大過ぎる。
二匹のトカゲはまるで獲物を見つけたとばかりに一心不乱に近づいてくる。
まさか某を食う気か?
全身から汗が噴き出した。
トカゲの速さがさらに増す。
よっぽど飢えているのか多少の攻撃では怯みそうにない。あれをどうやって止めたらいいのだ。
あの硬そうな外皮は、刀で斬り付けても何の効果もなさそうだ。
刀を手にしながら考えがまとまらない。
某が想定しているのはあくまで人間相手だ。あんな化け物と対峙するなんて思ってもいない。生物として規格外の体格差だ。
トカゲの脇をすり抜けて居合斬りを……なんて考えるが自分でもよい考えではないのは自身の呼吸の荒さからして自覚していた。
ぐしゃっと押しつぶされて終わりだ。それは奇しくも某にしてみれば数刻前、岩石の波に飲まれて味わった、あの苦しみを想起させるのに十分な苦い経験だった。あんな苦しい思いは二度とごめんだ。
やるしかないと腰を落とす。だがトカゲたちの速さが若干落ちた。
トカゲたちは某の目と鼻の先で両手の爪を地面に突き立て、ザザザと地面を掻いて止まる。
砂埃がぶわっと舞い上がり、頭上から降ってきた。
頭から砂をかぶり、こほこほと咳をしながら視界が晴れるのを待つ。次第に砂ぼこりの向こうに荒い呼吸を繰り返す二匹のトカゲの姿が浮かび上がった。
ブフォ、ブフォと、大型獣の息遣いが聞こえてくる。
やはり獰猛な生き物なのかとよく見れば、二匹とも円らな瞳をしていた。それに当初、感じた体格の大きさよりも、草食動物を思わせる大人しい雰囲気の方が強かった。
身体が大きい割に肝っ玉の小さい気弱な性格を思わせた。最初は厳つそうに見えた首輪も、見れば華やかな色合いで愛らしい雰囲気だ。
桃色と青色……もしかしたら雄と雌なのかもしれない。
それに育ちの良さとでもいえばいいのだろうか。二匹は人に飼われているようで。大人しく某の前で伏せをすると地面に顎を付けたまま目だけをこちらに向けている。まるで戦うつもりはない、自分たちは危険な生き物じゃないと訴えかけているようだ。
すっかり戦う気も失せて某は向けていた刀をおろした。
トカゲたちも某を目で追ってくる。だが気が変わって襲ってくる雰囲気はない。
トカゲたちが引っ張っていた後ろの箱に目をやる。ずいぶんと豪華な造りのようで精巧な車輪が付いている。トカゲたちが引っ張るのを想定して作ってあるのか、比較的大きな部品が多く頑丈そうだ。
なんにしても関わると碌な事にはならないだろうから箱の中身を改めようとは思わないが……。
一定の距離を保って箱の周囲をぐるっと見回ってみた。
箱の至る所に警告紋か、印がある。
箱の中身に手を出す者を呪い殺すための呪印かなにかか?
見ればトカゲたちも息を整えたか最初の頃よりはずいぶんと落ち着いていた。
それにしてもトカゲたちはどうしてあんなにも急いでいたのか……。今にして思えば不可解だ。なにかから逃げていたようだが。
トカゲたちは忠犬さながらに従順だった。不思議と可愛いく思えてくる。さすがにこの見た目と大きさなので、近づいて触ってみようとは思わないが……。
じゃれつかれただけで押しつぶされてしまう。そこまで警戒を解くつもりはない。
『なにをしているの! アルテイシア! フレデリック! なんで停まるの? 早く走りなさい! 追いつかれてしまうじゃないの!』
箱の中から声がした。箱の中に誰かいるのか?
その声は相当、興奮しているのか焦っているのか、きつい声音を伴っている。
二匹のトカゲの主人らしい。
トカゲたちは複雑な表情でこちらをみあげると、どうにかしてくれと言わんばかりだ。いや、某にどうしろと?
関わり合いになりたくないので早々にお暇しようとしていた足が進む機会を失ってしまった。
不意に、それまで大人しかった二匹のトカゲが何かを感じ取ったのか顔をあげる。その方角に視線を向けるとトカゲたちが悲しげな声をあげ始めた。
トカゲたちが来た方角から土煙が近づいてくる――今度は複数だ。
一匹が馬ほどのトカゲの群れ。二足歩行で頭にトサカが付いており、地を蹴る二本足は太く、前足は退化してしまっているのか小さく前に垂れ下がっている。
生物的特徴を見ると、鳥類なのか爬虫類なのかも定かではない。近くにいる二匹と比べると眼球が縦に伸びており、爬虫類らしい生き物に見えた。その背に人が乗っている。
今度の生き物には可愛げがまったくない、獰猛な生き物のようだ。
トカゲの背に乗っている者たちは皆、茶色い革のごつごつとした無骨な鎧に身に包んでいる。外見で判断するなら山賊のようだった。
あまりよい人相をしておらず、できるなら関わり合いたくない手合いだ。
ただ敵と決まったわけでもないので敵対心を抱かれないよう抜身の刀身は鞘に戻しておいた。あんななりをしていても、どこかの藩に所属する武家の人間である可能性もある。
山賊風の男たちは某からある程度離れた位置でいったん停止すると、そこから徐々に近づいてきた。まるで水場に危険な生き物がいないかを確かめて近づいてくる鹿の慎重さを思わせる動きだ。
男たちが近づいてくるごとにトカゲたちの悲し気な声が大きくなる。彼らを警戒しているのか。もしかしてトカゲたちが逃げていた原因は彼らなのでは? それで某に助けを求めたのだとしたら……。
なにぶん言葉を話せないトカゲの心情を勝手に解釈しての予想なので確実性はない。だがそう考えると不思議と腑に落ちる。
単なる予想に過ぎない。だがもしそうだとしたら無碍にもできないか……。
たとえ相手が話の分からぬ生き物とはいえ、助けを求められれば助けるのが道理。
今はそういう腹積もりでいよう。某は男たちが近づいてくるのを静かに待った。
「クワア……」
トカゲたちは某が意を組んだのを理解したのか安心した声をあげた。
弱弱しい声に違いはない。だが落ち着きを取り戻してはいた。
ただ山賊風の男たちが騎乗しているトカゲの鞍には武器が吊り下がっている。幸い飛び道具らしき物は見当たらないので逃げたとしても後ろから攻撃されはしないだろうが人数が多い。刀一本で立ちまわるには少々、分が悪い相手だ。
「あんた……冒険者か? 」
「ボウケンシャ?」
某をじろじろ見ていた先頭の男が近づいてくるなりそう言った。
ボウケンシャとはいったいなんだ? なにかの略語か? それとも、この辺りでは侍をボウケンシャとでもいうのか。
そもそも彼らの言葉を理解できている点に驚いた。この場所の生態系やら気候から、まるで日本とは違うのに言葉は通じている。もしかしたら日本に所縁のある場所なのかもしれない。
ただ彼らの髪色は黒ではなく、赤や茶色と色とりどりで明らかに人種は違うようだが……。
「あんた、どっから来たんだ? この辺りのもんじゃないだろ?」
「……」
正直、人相の悪い相手にこちらの事情を正確に伝えるのは憚られた。なにが弱みになるかわからない。もしかしたらそれが原因で金銭を要求される可能性だってあるし、相手が善人かどうかもわからないうちは信用しない方がいい。なによりトカゲたちは、この男たちに怯えて某の所まで逃げてきた可能性もあるのだ。
付け入る隙を作るわけにはいかない。
彼らが悪人でないと判明するまでは慎重な受け応えに徹するべきだ。
男たちは絶えず探る目を向けてきた。明らかに怪しい。某が何者か気になる様子だ。某の着ている小袖を重点的に見てきた。最初は着物に記された家紋でも探しているのかと思ったが某の着ている小袖は日本では一般的に販売している物で紋付きではない。しかも着古したボロだ。
むしろ不思議なのは彼らの身に着けている甲冑だ。茶色く、ごわごわしていて変わった素材で出来ている。
皮だとしたら何の皮だ? 刀で斬れる材質だろうか。素材も定かでない鎧を斬るのは刀への負担にもなるので避けたい。
ただ戦闘になれば、そうも言っていられない。直接触れる機会はないだろうがどうにか強度の目安を付けられないか。
「それにしても薄手だな……」
某の服装を見て副官らしき男が言った。某の後ろに目をやる。鬱蒼と茂る魔の森を。
「あれ、魔の森ですよね」
「ああ、ときおりB級以上の魔物が出てくるって森だ。こいつ、よくこんな軽装でこの辺りをうろうろとしてやがったな」
二人の会話は囁かれるほど小さくはなかったので内容は筒抜けだった。
『狩りにしたって無防備』だとか『人が忽然と消える魔の森だぞ』なんて話し合っている。某があまりにも口数が少ないので言葉が通じないと思ったらしい。
彼らの言う薄手とは某が鎧を着ていないため呟かれた言葉だったようだ。
男が左手で顎を摩りながら某を眺めた。
「なんにせよ、こんな場所を軽装で歩き回れるんだ、冒険者ってのは間違いないんだろうが」
男は不快な笑みを浮かべる。
「あんたもそう心配しなさんな、なにもやり合おうってわけじゃない。この人数相手に戦ったって碌な事にならない。
あんたが静観を決め込んでくれりゃあ、そうだな……。分け前もやるし、ここはひとつ持ちつ持たれつといこうや」
嘘っぽい薄ら笑いだった。
分け前をくれるとは、如何わしい心根があるから出た言葉だ。
やはり悪人か。侍の魂は金では買えん。そんな汚い交渉に応じてたまるか。
某が刀の柄に手をやると一同に少しだけ緊張が走った。
前の二人はまだ余裕そうだったが……。
「おいおい冗談はよせよ、あんたこの人数相手にやり合おうってのか?」
相手が何人だろうと関係ない。意に沿わぬ相手に与する気はない。
相手が何人だろうと戦では引かぬ。悪人ならばなおさらだ。
人数が多いと某を脅しておきながら……やり方が汚い。
その手の顔は見慣れていた。なにかを誤魔化そうとする目、仕草、仲間同士の目配せ……。男たちは一向に武器を構えず、顔を見合わせて笑いだした。
「まじかこいつ、やる気だぜ」
「冒険者ってのはみんなこうだ。だから早死にするんだぜ、無謀と気骨をはき違えてやがる」
「ぼこぼこにされて泣きを見るなよ?」
頭の男は部下たちの嘲笑には同調せず、ううむと唸った。片手をあげて制止する。
「お前らはさっさと仕事を始めてろ、こっちの話は俺たちがつける」
「「「へーい」」」
頭の男と副官の二人を残し、男たちが鞍から工具を取り出し箱に近づいていく。するとトカゲたちが急に暴れだし、某がびっくりするほどの攻撃的な奇声を上げる。
「グエ!!グエ!!ギエエエエ!!」
「くそ! そっちを押さえつけろ!」
「こいつ、大人しくしねえか!」
いかん。トカゲたちが。
「なにをしておる、よさぬか! 」
堪らず声をあげるが誰も某の言葉に耳を傾けなかった。
「止さぬかじゃねえ、お前、やっぱり言葉がわかるんじゃねえか、だったらそんなもんさっさとしまえ、手遅れになっちまうぞ? 俺の仲間は気が短けえんだ」
「おぬしらこそ、そのトカゲたちに手を出すな、不埒者らめ」
「ふらち者お?」
男はへらへらと笑い、頭を掻いた。
「なんだ、そうかい、あんた馬車の中身がなんなのか知ってるのか。だったら忠告だ。欲はかかねえほうが身のためだぜ」
「うるさい、いますぐ止めぬなら実力行使に出るまでよ」
刀を上段に構える。基本、初めて戦う相手には、防御にも攻撃にも転じやすい正眼の構えを選択するが今回ばかりは相手への威嚇を優先させた。
すると、その気迫が伝わったのか、ようやく男たちの顔から余裕が消え始めた。引かない意思と気合いが伝わったようだ。
「話にならねえ……なんなんだこいつ……」
「サイラス家の絡んだ仕事ですからね、こういう手合いはでてきますよ。俺たちの出す口止め料なんてはした金だ。皇帝にだって口添えできる天下の魔導貴族サイラス家ですよ。ここで恩でも売っておけば冒険者としての将来は安泰……もしかしたらもっと大きな地位だって狙えるかも……」
「心も痛まなくて済むし一石二鳥ってか……俺たちを利用して立身出世かよ、とんだ冒険者がいたもんだ」
何を言っているのかわからないが退く気はない。騒ぎを聞きつけた男たちが『なにかあったんですか?』と声を上げながらぞろぞろ集まりかける。頭の男は『なんでもねえよ、お前たちは自分の仕事を続けてろ』と一蹴した。
続けて『おいリカルド、お前だけこっちに来い、こいつの相手をしてやれ』と一人だけ呼ぶ。
『へーい』と声をあげたリカルドと呼ばれた男は、上半身裸の筋骨隆々、肩幅の広い男だった。トカゲの鞍に大工道具をしまうと、今度は斧を持ち出し、こっちに歩いてくる。
「交渉は決裂ですかい、やっちまっていいんですよね?」
「ああ、どうやらサイラス家に取り入る気らしい。そんな奴にはお仕置きが必要だろ?」
「なるほど、身の程知らずですか、そいつは生かしちゃおけませんね、大人しくしてりゃ楽に死ねたのによ……」
町まで送ると言っておきながら目撃者は始末するつもりだったらしい。
典型的な悪人だ。そういう理屈なら手加減はいらない。
リカルドと呼ばれた男が目の前に来た。黒光りする斧を向けてくる。某をじろじろと見回し、その目が一点で止まった。見ているのは某が構えている武器、そして腰に下げた鞘だ。
「にしても変わったもんを持ってやがるな。頭、一つ質問なんですがね、こいつが持っている武器は、ぶっころした後に俺が貰っちまっても構わないんですよね?」
「ああ好きにしろ」
「へへ、こいつは俄然やる気が出たぜ」
リカルドが舌なめずりをする。死者を弔うでもなく、死んだ者の魂を冒涜するとは見下げ果てた奴らだ、許せん。
「手加減はできぬぞ……来るならば覚悟してまいれ……」
相手はたった一人だ。まだ気負う必要はない。
まず目の前の敵を倒し、倒した後の事は後になってから考えればいい。
刀を強く握り込む。リカルドは黒光りする焼けた肌を揺らし、余裕な表情で肩をトントンと斧の柄で叩きながら近づいてきた。
不用意に近づきすぎだ。それともなにか策でもあるのか? そんな風には見えないが。
リカルドは何も警戒していない様子で某の間合いへと入ってくる。
どういうつもりだ。斬ってくれと言わんばかりに――。この距離ならば斬れる……斬れるが誘いか? いや、だとしても相手の武器は斧だ。斧は刀よりも素早くは振れない、ならば先手必勝、その命あきらめてもらうぞ――。
「っ!?」
飛び出すとリカルドの顔が驚愕に歪んだ。某の速さを見誤っている。そもそも某が持つ武器の特性を理解していない時点で勝負にならない。平たく設えた刀は斧よりも空気抵抗が少ない。よって使い手がすぐ傍まで迫ってくると、ようやくその武器を早く使われては困ると恐怖心が働く。動きは鈍くなり反応できない。
斧が振るわれる前にリカルドの懐へ。間合いは一足飛びに飛び込める距離だ、まだ大丈夫と思っていては次の瞬間には首がない。
敵が鎧を着ている場合は股下から斬り上げる技もあるがリカルドの胴を一閃した。刀が軽く、狙い通りにいかなかった。狙いを定めずに振るわれた刀は――何の手ごたえもなかった。それほど一瞬の出来事。
その場から素早く後方に跳躍した、だがわけがわからない。
手ごたえがまったくなかったのだ。
斬れなかったのかと思い刀を見ると確かに血の一滴も付着していない。だが斬れなかったのならどうして斬れなかった手応えがない。弾かれなかったぞ。
いったいどういう――。
なにもない空間を斬ったと錯覚するほどの手ごたえに困惑した。
そのときズリ、ズリリ……と、身の毛のよだつ音が響く。見るとリカルドと呼ばれた男の上半身が斜めにずり落ちていく。
いったいこれは……。そうか、斬れていたのか。それにしても凄まじい斬れ味だ。
肉を断ち、骨を断ち、鎧すら断ってなお手応えがない。
斬り口から盛大な血飛沫をあげた男が耳を劈く悲鳴をあげる。
『ひぎイええあああああああああ!!!!」
男の悲鳴を聞いてもまったく何も感じなかった。それだけ自分も混乱していた。使った当人にも理解できない斬れ味なんて想像を絶する。
それを見ていた男たちも同じだったらしく、目の前の光景を疑って見ている。二人とも信じられない様子で口元を震わせていた。
某の腕が上がったわけではない、刀の性能だけでこれだけの現象を起こしたのだ。
皮肉だがこうも容易く人を斬ってしまっては命の重みを感じている暇すらない。
この刀は危険だ。あまりの斬れ味に侍の心を堕落させる。
妖刀と呼ばれる武具は、時に人の心を惑わせるらしいがまさしく逸話通りだ。
目の前で儚く散る命……命を哀れむ
男達は目の前で仲間が輪切りにされた光景に放心していたがやがて正常な思考を取り戻した。表情を引きつらせながら声をあげる。
「や、やりやがった!?」
「鎧ごと斬るなんてなにやったんだ!? 」
「おい、てめえら! 全員でかかってこいつを始末しろ! ちんたらするな、早くしろおっ――!」
数刻前の余裕ぶりはどこにいってしまったのか。鬼気迫る表情の二人の元へ『なんなんすか』と軽い調子で部下たちが集まってきた。
「なにふざけてやがる!! 武器だよ! 武器を持ってこい! 」
未だ大工道具を手にしている男たちに頭の男が鼓膜を破りかねない怒声を浴びせた。『へ、へい……』と部下たちはいまだに状況を呑み込めていない。
それでも必死さは伝わったのか、部下たちは各々が鞍にかけていた武器を持ちより再び集まってきた。まだ顔にはひとしく困惑が張り付いている。
部下の一人が戸惑いながら『リカルドの奴は?』と言ってキョロキョロしながら消えた仲間を探している。
某の刀を持つ手は震えていた。
今しがた人間を両断した、それは初めての経験だった。どんなに調子がよく技が冴えわたる日でも、こうも容易く人は斬れない。
侍とは元来、生と死のはざまに生きている。今日は生き残っても明日は死んでいるかもしれない。
そんな修羅の道に人を効率的に斬り殺せる刀が現れる皮肉。
妖刀は某の心を見透かし輝いている。
誤魔化なんて効かない。バレている。ずっと闘争に関わってきたのだ。その誘惑には抗いがたいと。
これまで鍛錬に多くの時間に割いてきた。そんな人生が終わりを迎えるのか? そんな道具頼りの生き方など想定していない。甘美な誘惑に抗わなければ。
刀の切れ味、その<力>に取り込まれてはいけない。
自身を見失えば、次に待っているのは滅びだけだ。命を尊ぶ者として刀を振るう、それが単なる思い込みでも決して簒奪者にはなるな。人斬りになってたまるか。
『殿……どうぞ心の赴くままに……あちきも血に飢えております』
心の中に語り掛けてくる。うるさいと気合を発し、背筋をゾクっとさせる声に抗った。幻聴は無視してしまえばいい。人の生き血をすする邪悪な妖刀め。
某は腕の震えを抑え込んだ。
必死に自制心を立ち昇らせ、ここから立ち去れと気迫を込めて武器を持つ男たちを睨みつけた。
だが誰一人、某の威嚇を正しく受け取った者はいなかった。頭の命令を聞き男たちが武器を持って近づいてくる。
某がその気になればここにいる人間を一太刀で殺せるだろう――。横に一閃、刀を振り抜けば終わりだ。
『美味しそう……ジュルリ――』
「くっ」
「武器を構えろ!! 油断するなよ、なにをしてくるかわからねえぞ!!」
やるしかないのか。某とて命を差し出すわけにはいかない。抵抗があるのは命を奪う行為を楽しみ始めている自分自身への戸惑いだ。
妖刀の感情が流れ込んでいる気がして恐ろしかったが手は刀を強く握り込んで離れない。
「おい、見ろよあれ」
「なんだ……武器の色が変わった」
武器を持って近づいてきていた男たちが怯え始めた。
睨みつけても平気で近づいてきたのにどういう心境の変化だと思って見ていると、男たちは立ち止まってしまった。
何を怖がっているかはわからないがもう一押ししたら逃げるかもしれない。
某は、わざと刀の握りを変え、カチャリを音を立ててみた。
そして足を一歩踏み込み、男たちをけん制する。
これでなにがしかの反応があればよいが……。
男たちは怯えた様子で某が踏み込んだのと同じ距離を後退った。いけるか?
「なんだこいつ、やばくねえか」
案の定、男たちは某の強気な様子に不気味さを感じ始めたようだ。徐々に混乱して後退を始めた。
たった一人の敵が十数人の敵を前に臆さず堂々と迫ってくる。普通に考えればおかしな行動だ。なにかあると思うだろう。もしかしたら獲物は自分たちなのではないかと。男たちは先頭を譲り合いながら後退していく、よしこのまま――。
「もしかしてこいつ――」
だが逃走の引き金は某が意図していなかった別の所から、そしてあっけなく訪れた。一人の男が発した、たった一つの言葉。その疑問符混じりの呟きが男たちの間を伝染した。
「サイラス家の用心棒なんじゃ」
その言葉に誰もが反論もなく黙り込む。一人がガタガタと歯を震わせたかと思うと『ま、間違いねえ』と追従する者が現れ。無精ひげを蓄えた強面の男たちの気概が明らかに折れかけているのが分かった。彼らは全員が全員、恐怖に顔を引きつらせている。それ以降は某が圧力をかける必要もなく、彼らは血の気の失せた顔で後ろを向き、一目散に逃げ出した。
『こ、殺される、さ、サイラス家の用心棒だああああ!!』
全員の悲鳴が怒涛の如く大地を震わせた。途中でコケた仲間を踏みつけ、泥だらけになりながら男たちは一斉に逃走する、トカゲに飛び乗り、しがみ付く。手綱を握る余裕もない。
頭が制止の声をあげても止まらない。命あっての物種だとばかりに無視して走り去っていく。その光景を頭の男は切なげに見つめ、ギロッと某を振り返る。
「よくも俺の仕事を邪魔しやがったな、てめえの顔は忘れねえぞ……」
忌々し気に吐き捨てると男はトカゲの横腹を蹴り走り去っていった。某への恨みはあれど、さすがに一人で立ち向かってくる勇気はなかったようだ。
刀を鞘に戻して息を整えた。この刀の切れ味は異様だ。懐から手ぬぐいを取り出し裂いてコヨリ状にした。コヨリを鍔に通して鞘に縛り付ける、これで刀を抜こうとしても簡単には抜けない。
小袖はじんわりと汗で滲んでいた。精神的にどっと疲れた、風呂にでも入りたい気分だった。
トカゲたちは安心した声を上げている。
某の役目も終わったと溜め息をつき、トカゲたちに背を向ける。
「これでよいな、某は役目を果たした、もう行くでござるぞ……」
「クア~、クウ~」
トカゲたちが名残惜し気な声をあげているがもはや立ち止まる気はない。
と、その前にと――。
近場をうろつき、武器になりそうな木を拾う。
刀を封じたから代わりになる武器だ。
今は持ち手を加工をしている時間はないが当面はこれでしのげるだろう。あいつらが引き返してきたらたいへんだからな。
今度こそ行こうとすると、背後から、ぎい……となんとも不気味な音が響いた。
背中がぞくっとした。おそるおそる背後を振り返る。
さっきまで閉まっていたはずの箱の扉がわずかに開いていた。
どうしてだか足が動かない。早く立ち去りたいと思っているのに足が動いてくれない。金縛りだ。全身が強張っている。
再びギイ……と音がして、扉が少しづつ開いていく。
扉が半分開き、扉の縁を人間の手が掴んだ。
拾ったばかりの木を構え、息を飲んで見守っていると、扉から銀の髪を靡かせて人間の少女が顔の半分だけを覗かせた。
「あいつらは完全に行ったようね」
少女はキョロキョロと辺りを見回しながら美しい声を響かせ、天の岩戸と化した箱から一歩ぶんだけ外に出てくる。箱に手をかけたまま風になびく髪をかきあげ遠い目をする。
安全を確認すると、どこからともなく取り出した水晶球に目を落とした。
一枚の絵に残したくなるほど幻想的な光景だ。
見惚れている場合かと正気に戻り、もう行こうとすると、少女が制止の声をあげた。
「待って、あなた、どこに行く気よ、まだお礼が――。いえ、用事があるの、行っていいって言ってないでしょ、ここにいなさい、命令よ」
少女が挑発的に言う。どちらが助けたのか錯覚する言い方だが横柄なのは癖らしい。
「あなた名前は?」
「し、芝原源之助でござる……」
「ござる?」
少女は『ふふ』と小さく笑った。変な名前ねと言い『私の名前はノヴァよ、サイラス・ノヴァ』と自己紹介する。
自信と威厳に満ち溢れた声だった。威圧されてしまう。
普段からそうだとわかる、その身に備わった高貴な血。彼女が纏わせる空気に触れるだけで某は委縮し動けなくなってしまう。
「なるほど、そういう……」
「?」
「気にしなくていいわ、私たちは出会うべくして出会ったってだけ……うちに来なさい、面倒みてあげる」
彼女は手招きをすると、さっさと箱の中に身を隠した。
箱に乗れと言っているのか? 巨大な二匹のトカゲも主が認めた人間ならばと反抗の意志を見せない。
いったいどこへ連れていかれるのかわからなかったがどっちみち行く当てなんてない。ついて行ってみるか。
『別にとって食べないわよ』
安心より不安になる言葉を聞いて逆に足が竦んだがどうにでもなれと箱に入った。
いざ入ってみると箱の中は高級感あふれる場所で赤で統一されている。少女は座っており対面の席を勧めた。
座ると同時に勝手に扉が閉まり、がくんと一回だけ何かに乗り上げ、箱はゆっくりと動き出した。
少女は両手で顔を支え、ぐいっと身を出して某の顔を見つめる。
「それにしてもあなた何者? 私がすべてを見通せない人なんて、貴方が初めて」
ごくっと喉が鳴った。至近距離で見つめられ緊張した。彼女の顔はあまりにも整い過ぎている。真面に視線を合わせるのがつらい。
「こ、これからどこへ?」
「私の住んでる屋敷よ」
彼女は屋敷に住んでいるのか、拒否できる雰囲気ではなかった。
「あなた魔女を見たの?」
唐突にそう聞かれ困ってしまった。意味が分からなかったのだ。<まじょ>とはなんだ? 初耳だ。
「なるほど、彼女の
彼女にはその後、質問責めにされ。某もそれなりに情報を仕入れた。会話が弾んだとは言えないが有意義だったと思う。
彼女の言っている話の半分も理解できず、知らない地名ばかりを口にされたため、頭が少々混乱してしまったが……。
ちなみに箱を引っ張っている二匹のトカゲは陸竜の
馬車はガタゴトと音を立てながら、サイラス家の屋敷へと向かう。
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