第六章 例え命に代えても。

第六章 例え命に代えても



リンダから聞いたこの訃報を、果たしてサラに伝えるべきなのだろうか。

ひまわりは一人、逡巡していた。

ただの機械に逡巡という言葉が似つかわしくないのは、ひまわり自身わかっていた。

だからこれは、ただ単に知っている言葉を並べただけの無意味なものだ。

本来なら、計算や演算、シュミレーションなどと呼ばれるのだろうけれど。

ひまわりは何だか、それらの言葉に対して違和感を覚えていた。

違和感……忌避と言い換えてもいいかもしれない。とにかく、それらの言葉で表すことを意識的に避けていた。

 とはいえ、いつまでも隠し通せるものでもないだろう。

 どうしたものだろうか、とひまわりは懊悩する。

「さて、一体どうしたものかしらね」

 隣にリンダがいた。彼女もひまわりと同じように眉間に皺を寄せ、溜息を吐く。

 すらり伸びた足を組み、苦悩からか顔色が悪い。

 普段ならきっと、素敵な人なのだろう。それこそ、男性を魅了するくらいに。

 しかし今のリンダは、年老いた老婆と言っても差し支えないほどに思い悩んでいた。

 理由ははっきりしている。ひまわりの創造主、浩一郎の件だ。

「……申し訳ありません。あなたにまでこんなことをお願いして」

「いいのよ。彼は優秀なうちのスタッフだから。無事に帰って来てもらわないと私が困るの。だからこれは当然のことよ」

 リンダは手許のティーカップに口を付ける。中身はひまわりが入れたインスタントの珈琲だ。苦みを強くするために、多めに粉末を入れている。

「さて、おそらく彼は誘拐されたのだと思うわ」

「誘拐……誰が、一体何のためにでしょう?」

 などと言ったが、おおよその見当はつく。

 おそらく……ひまわりを作ったからだ。そのせいで、浩一郎は狙われた。

 現在、アンドロイドは法律で規制されている。ロボットだって、特定の条件下でのみ導入、稼働を許されているような世の中だ。アンドロイドなんて代物が出回れば、確実に世間に対して混乱を招く。

 しかし、それでも世の中は様々なロボットやAIを活用している。

 もはや、それなしでは生活が不可能なほど、世の中に入り込んでしまっていると言っていい。

 アンドロイドの需要は計り知れない

 つまり、どこからかひまわりの存在が漏れてしまったということだ。

 けれど、ひまわりは浩一郎が一人で製作したアンドロイドだ。漏れる道理がない。

 一体……どこからその存在が漏れたというのだろうか?

「わざわざお越しいただき、申し訳ありません」

「お互い、彼を取り戻さないといけないしね。それはいいのだけれど、本当に警察に連絡しなくていいの?」

「はい。きっと彼――浩一郎もそれを望みませんから」

「……なるほど」

 浩一郎、という呼び方に思わず肩が震える。

 リンダはそれを悟られまいと、PCの画面へと視線を戻した。

「おそらく、彼が今いるのはここよ」

 言いながら、リンダが地図上の一ヶ所を指差す。

 そこは、使われなくなって久しい廃工場だった。あらゆる工業製品の生産にそれほど大規模な土地が必要とされなくなってから、こういう場所が増えた。

 技術の発展は時としてそれまであたり前のようにあったものを過去の遺物へと変えてしまう。そのいい例だった。

「ここに浩一郎が? それは確かなのですか?」

「ええ。彼に持たせていた発信機があるのだけれど」

 さらりととんでもないことを言ってのけるリンダ。

 ここは驚いたふりでもした方がいいのだろうか。ひまわりが苦悩していると、リンダはそんな彼女に訝しげな視線を向ける。

「我が研究所に在籍しているスタッフには全て持たせているわ。こいつはちょっとした優れものよ。何せ、異常事態に陥ると特殊な電波を飛ばして端末をリモートで操作できるようにしてくれるわ」

「……それはいわゆる、ウイルスというものでは?」

「そうとも言うわね」

 リンダはひまわりの指摘をあっさりと認め、さらに説明を続ける。

「そして極小のナノマシンを放出。持ち主の持ち物、端末、衣服、皮膚。とにかく彼の近くにいてくれるわ。そして私たちにその位置を教えてくれるの」

「……なるほど。すごく便利なのですね」

「ええ、その通りよ」

 果たしてそれは犯罪なのでは? とひまわりは法律関係のデータベースを閲覧しなが螺考えていたが、それを口にすることはなかった。

 とにかく、今は浩一郎の救出が先だ。

 そして警察の手は借りられない。もしひまわりのことが知られたりしたら、サラの側から引き離されるだけでなく、浩一郎もロボット製造法違反で捕まってしまう。

 だからこそ、ひまわりとリンダの二人だけで彼を救い出さなくては。

 けれど、果たして本当に二人だけで救出は叶うのだろうか。

 ひまわりは己に問うた。何度も、何度も。

「……でも、あまり勝算が高いとは言えないと思うわよ」

「ええ……それは十分に承知しています。だからこそ……」

 だからこそ、いざとなればひわまりの命を犠牲にしてでも、と思っている。

 果たして、アンドロイドである自身に命があるのかという問題は差し置いて。

「警察に連絡しない以上、私たちだけでは部の悪い賭けになってしまうわ」

「承知しております。だからこそ」

「ええ。綿密な計算と計画、それに準備が必要よね」

 

 

                      ◇

 

 

 どくんどくんと心臓が早鐘のように鳴り響く。

 サラはパジャマの裾を思い切り握り締め、空いている方の手で声が漏れないように口許を抑えた。

 肩で息をする。

 ――今の話は……本当?

 サラは無意識に動揺を抑えようと、何度も深く息を吐く。

 段々と呼吸が荒くなっていく。このままではすぐに二人に見つかってしまうだろう。

 幸いと言うべきか、ひまわりもリンダも目の前の問題への対処で手一杯の様子だった。

 眠ってい留はずのサラにまで気が回らないのだろう。幼い女の子に聞かれているなんて、おそらく夢にも思っていないに違いない。

 どうしよう……とサラは思った。夜中にトイレに行きたくなって、起き出して来たらこれだ。

 浩一郎が誘拐された……? サラの脳内にその事実がねばっこくこびりつく。

「……少し休憩しましょう。珈琲でもいかがですか?」

「ありがとう……じゃあいただくわ」

 ひまわりが踵を返し、こちらに向かってくる。

 サラは考えるより先に、体を動かした。

 なぜか、見つかってはいけないような気がしただから、足音を極力立てないように気をつけながら、廊下を小走りに走った。

 ひまわりが部屋から出る。と、何やら足音のような音が聞こえた。

 何だろう? ねずみ……なはずはない。

 サラは今頃、寝ているはずだ。

 確かめようかとも思ったが、寝室に行って起こしてしまっては面倒が増える。

 大したことはないだろう。ひまわりは更に身を反転させ、キッチンへと向かった。

「……はあ」

 暗闇の中で、遠ざかっていく後ろ姿を眺めながらサラは息を吐いた。

 まだ、部屋の中にはリンダがいる。油断はできない。

 サラはちらりと先ほどまでひまわりがいた部屋の方を見た。

 続いて、リンダが姿を現す様子はない。そっと部屋の前を通り、自室へと向かう。

 階段を昇り、音を立てないように扉から中に体を滑り込ませる。

 そうしてまた扉を閉める。扉に背を預けるようにして、座り込んだ。

 全身から力が抜ける。今頃になって、体が震える。

 まるで、先ほど耳にしたことを怖がるかのように。幼い子供のように。

 事実、サラはまだほんの子供に過ぎない。父親が誘拐されたと聞かされて、不安にならないわけがなかった。

「……こう、いちろう……」

 ぎゅっと自分の方を抱く。パジャマに皺が寄る。

 それでも、破けるのではと思ってしまうくらい強く、己の全身を掻き抱く。

 震えが止まらなかった。カチカチカチと小さく奥歯が鳴り続く。

 それを抑えようおと、必死に頭の中を巡らせる。

 浩一郎は誘拐された。何の目的かまではわからない。

 でも、きっと無事だ。なぜなら、ひまわりとリンダがあれほど必死になっているのだから。きっと、サラの愛した父親は無事だ。

 明日……もしかしたら明後日かもしれない。いずれにしても、そう何日もしない内に帰って来るだろう。

 だから、サラ……今すべきことは一刻もはやくベッドで眠ること。

 誘拐のことなんて、事件のことなんて知らない振りをすること。浩一郎に心配をかけたと思わせないこと。

 後ろめたさを感じさせないこと。

 ただでさえ、浩一郎は、サラの父親は自分がサラの本当の父親ではないことを残念に思っているのだから。

 そんなことはないと、サラは言いたかった。

 サラは確かに幼い女の子だ。まだ十歳と少ししか年を取っていない。

 それでも、何もわからない赤ん坊ではないのだ。だからこそ、自分にできることはそんなことしかないとわかっている。

 だからこそ、できることをしなければと思っている。

 しかし……おそらく今夜は眠れそうになかった。

 膝が震える足に力を込め、なんとかベッドまで這うようにして戻る。

 ベッドに潜り込み、布団を被った。けれど、案の定眠れそうになかった。

 浩一郎……口の中で義父の名を呼ぶ。しかし、答えてくれる声はない。

 いつもなら、浩一郎がいなくても眠れた。今頃研究所で頑張っているのだと思うと、安心できた。

「……どうして」

 しかし、今は不安で一杯だった。

 オイルで汚れた浩一郎の顔を思い浮かべ、ぎゅっと目を閉じる。

 けれども、睡魔は幼い少女を夢の中へは連れて行ってくれなかった。

 どうしたらいいのだろう? このままでは眠れそうにない。

 サラはもう一度ベッドから抜け出し、そっと部屋の扉を開ける。

 周囲を確認した。誰もいない。リンダもひまわりも、まだ今後の話し合いをしているのだろうか。

 サラは廊下に出て、先ほどまでいた部屋の前に行く。

 そうっと足音を忍ばせ、中の様子に耳を傾ける。

「……間違いないのですか?」

「ええ。さっき言った通りよ。浩一郎がいるのは今は稼働していない工場」

 部屋の中を覗き込む。ひまわりたちに見つかったら縛り付けられるかもしれない。

 サラはなるべく気配を殺して、できる限り視界を動かした。

 そうしていると、リンダのすらりとした足が目に入る。視線をずっと上に昇らせて、彼女の前にあるモニタを視界の真ん中でとらえた。

 そこに映し出されていた光景にハッとする。

 それは、どこかの監視カメラの映像なのだろうか。それとも、巡回ドローンが撮影したものなのだろうか。

 いずれにせよ、サラにはどうでもよかった。重要なのは、浩一郎の安否と居場所だ。

「……あそこに、こういちろうがいる」

 我知らず、声が漏れていた。それに気づき、慌てて口許を抑える。

 幸いにして、ひまわりとリンダには聞かれていなかったようだ。一先ずホッとする。

 しかし……と再び視線をモニタへと向ける。

 映像の中の廃工場は、その呼び名に相応しく寂れていた。

 人の気配の全くない、使われなくなった廃工場。

 どこだろう? 一体どこへ行けば、浩一郎を見つけられるのだろう?

 サラは賢明に、何か手がかりがないかと視線を彷徨わせる。さすがに、あの映像だけでは浩一郎の居場所を割り出すことはできない。

 とはいえ、モニタには他にもたくさんの情報が溢れていた。が、そのどれもがサラにとって優しくない言葉や数値や暗号だらけだった。

 無論、それではサラには何もわからなかった。浩一郎の救出は諦める他ないのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを思う。元々子供であるサラには、浩一郎の救出は不可能だというのは十分にわかっている。

 自分がいかに無力か。それは母親の死の際によくわかったつもりだった。

「……さてと、善は急げという日本のことわざがあるわ」

 リンダは椅子から立ち上がり、PCの電源を落とした。それから踵を返す。

 こちらに向かってくる。サラはそう直感して、慌てて廊下を小走りに駆けた。

 トントンッと軽い足音が響く。どくんと心臓が高鳴ったが、けれどもどうしようもなかた。

「……どうかされましたか?」

「いえ……何でもないわ。それより、行きましょう」

 リンダはサラのいる方を見ていたが、やがてひまわりに促されるようにして廊下を行く。

 遠ざかっていく二人の後ろ姿。果たして、あの廃工場の場所が掴めたのだろうか?

 サラの脳内に、そんな疑問が広がる。もし掴めたのなら、これを逃す手はなかった。

 二人の後をこっそりと追うサラ。暗い廊下は歩きにくいことこの上なかったが、暗闇の中で過ごしていたサラの目はすっかり慣れていた。

 眠っていると思っているサラを起こさないよう気を使っているのだろう。リンダとひまわりは明かりをつけようとしない。

 もしサラが起きて来たら、面倒なことになると考えているに違いない。そしてその予想は大きく外れていなかった。

 車に乗り込む二人。が、リンダが家の中に何か忘れ物をしたようだ。

 それを二人して取りに戻っている間に、サラは車の中に乗り込んだ。

 後部座席の足下に蹲り、ぎゅっと目を閉じる。

 もし見つかれば、確実につまみ出されてしまうだろう。それが当然というものだ。

 だから、見つかりませんようにと祈る気持ちだった。

 結果として、ひまわりとリンダがサラを見つけることはなかった。

 後部座席の足下に蹲ったまま、エンジンがかかるの気配に身を固くする。

 リンダの車は今時では珍しい、オートパイロットではないマニュアル車だった。

 何だかよくわからないレバーを何度も操作して、ようやく発進する。

「さて、よく掴まっててね」

 それはひまわりに言ってるのだろう。おそらく。

 けれど、その言葉の意味をサラはすぐに理解した。

 リンダの運転は荒々しく、かなり小さな少女の体には大きな負担を強いるものだった。

 サラの位置からではひまわりの表情はうかがい知れない。

 それでも、きっと悲鳴を上げないどころか顔色一つ変えないであろうことは容易に想像できた。

 サラが必死に叫び声を上げそうになるのを我慢するのとはちょうど正反対に。

 そうして、どれくらいのドライブだっただろう。一時間はゆうに超えていたと思う。

 サラが半分死人のような心境になりつつ、リンダのワイルドな運転に耐えていると、急に車が止まった。ブレーキを踏んだようだ。

「さて、ついたわ」

 リンダは言いながら、車から降りた。ひまわりもそれに続いて、扉を開ける。

 二人の目の前には、件の廃工場があった。実際にここに浩一郎がいるのかは定かではなかったが、今は手がかりがないのだから仕方がない。

 ひまわりの計算では、ここに犯人がいるとは考えづらかった。いつまでも同じ場所に留まっているような犯罪者がいるとは思えない。

 それはリンダも同じなようで、彼女の瞳に期待の色は全く見て取れなかった。

「……とりあえず入ってみましょう。何か手がかりがあるかもしれないわ」

「ええ……そうですね」

 車の鍵をかけ、二人が灰工場へと入って行く。

 武装しなくていいのだろうか、とサラは今更ながらぼんやりと思った。

 何せ相手は浩一郎を誘拐せしめた連中だ。なら、当然暴力的な展開になると考えるべきだろう。なのに二人とも何も武器らしい武器を持っていない。

 リンダに荒事が可能とは思えないし、ひまわりにしたって警備ロボの類いではない。

 戦闘能力という点において、不安の残る二人だった。

 二人を心配しつつ、サラは車窓から外をそろりと覗き見た。

 人の気配はない。時間的にも場所的にも出歩いている人影はないように思われた。

 これなら、幼い少女が一人で出歩いても見咎められることはないだろう。

 サラは車の中から鍵を開け、そっと外へと出た。

 実際にはそれほどでもないが、何だか長い時間じっとしていたような感覚がして、ぐっと背伸びをする。

 それから、目の前にそびえる大きな建物を見やった。

 およそ十年前までは、またあちこちにたくさんあったはずの、今は稼働していないその建物を。

 

 

                     ◇

 

 

 

 建物の中は、ちょっとしたお化け屋敷のようだった。

 とはいえ、ひまわりにお化け屋敷に入った経験などあろうはずもなく、これもネットから拾ってきた画像や映像と比較しての感想だった。

「……もっと不気味なのかなと思ってたけど、それほどでもないわね」

 隣を歩くリンダが強がりなのか判断に困る呟きを漏らす。

 はあと吐息を吐く様子から、おそらくは強がりなのだろう。

 この状況下で並の精神の持ち主なら、恐怖しない方がどうかしている。

 その点、リンダはまともな精神性を持っていると言えるだろう。

「……あなた、ずいぶんと落ち着いているわね」

 気を紛らわせるためか、それとも別の理由からか、リンダがそんなことを言ってくる。

 並の人間なら、この状況に恐怖する。そう、その通りだ。

 けれど、ひまわりは並の……どころか人間ですらない。故に恐怖を感じることもない。

 それをリンダは不思議に思ったのだろう。どこか畏怖の籠った視線を向けてくる。

「そんなことはないと思います。それに、変に取り乱してもどうにもなりませんから」

「むっ……それはそうね。私が間違っていたわ」

「いえ、そんなことは……」

 社交辞令のように、ひまわりは応じた。

 その後、二人の会話が途切れる。カツンカツンッと足音だけが空しく反響していた。

「……それにしても、何か手がかりが得られるかしら?」

「それはわかりません。しかし、少なくともここにいたという痕跡は残っているはずです」

 リンダもこの状況でいつまでも犯人がこの廃工場に残っているとは考えていないのだろう。どことなく、不満そうな声音だった。

 ひまわりの計算では、件の複数か単数かはわからないが、件の誘拐犯がこの場所に残っている可能性は五パーセントに満たない。

 誘拐犯の心理として、すぐにでも拠点を移したいと考えるはずだ。

「何かあるといいんだけれど……」

「絶対にあります」

 ひまわりが断言する。その声音、声質に変化はないように思われた。

 しかしリンダは、ひまわりがそうした断定的なことを言うとは思ってもみなかった。

 もっと、慎重な人物(実際は違うが)だと思っていたのだ。

 あらゆる可能性を考慮するタイプだと。

 そこに、リンダは自分の中にあるもう一人の自分を刺激された。

「それは……どうして?」

「相手が人間である以上、痕跡を完璧に除去することは不可能だからです」

「人間ではない……という可能性もあるのではないかしら?」

「それはありえません。いくら技術が進歩したからといって、ロボットにこんな芸当はできません。あなたもよく知っているはずです」

 ひまわりは視線をリンダへと向ける。

 何を言いたいのか、また何か言いたいことがあるのか。

 ひまわりの瞳はどこまでも真っ直ぐで曇りがなく……そして無機質に感じられた。

 人ではない何かを想起させる。それこそ、ロボットのようだと思えた。

「……あなたは、もしかしてアンドロイドだったりする?」

「まさか。アンドロイドの製造は法律により禁じられています」

「……よね。ごめんなさい。ちょっとした思い付きだったのよ」

 リンダは肩をすくめて、謝罪する。ひまわりとしては、別段気にするようなことではなかった。

 だから、小さく首を振るだけに留めておく。それに付いては何も言わなかった。

 ――と、突然ひまわりがリンダを制止する。

 バッと、唐突に自分の目の前に出されたひまわりの右腕に目を見開きながら、リンダは立ち止まった。

 何を……と訊ねようとして、ひまわりの視線を追う。

 すると、その先にあったのは足跡だった。長い間使われていないにしてはやけに新しいものだ。

「これ、足跡……? けれど、どうして?」

「簡単なことです。ここを誰かが通った。そしてそれは……」

 ひまわりの視線が足跡を捉える。瞳の中の高機能カメラが足跡の形状、大きさを解析する。

 その情報はすぐさま集積回路を通って、彼女の頭脳とも呼ぶべき演算領域へと到達した。

 足跡の大きさは三十センチ。浩一郎のものと比べるとずいぶん大きい。

 これは浩一郎のものではない。だったら誰の足跡なのか。答えは一つだ。

「……こちらの通路を通って犯人はここを去ったようですね」

 ひまわりが見つめる先は、真っ暗な闇。その向こう側に、浩一郎を連れ去った連中がいると言うのだろうか。

 リンダは闇の向こう側を透かして見ようと目を細めた。けれど、当然見えるはずもなかった。

 いずれにせよ、この先へ行かなくてはならないだろう。浩一郎を助けるために。

「……どうしますか? おそらく相手は武装していると予想されます。引き返しますか?」

「まさか。だったら最初からこんなところには来ないわ」

 リンダは肩をすくめ、嘆息する。強がりだろうか、つり上げた彼女の口の端がぴくぴくと痙攣していた。

「無理はしなくてもいいですよ。あなたに何かあったら、浩一郎が悲しみます」

「……そんなことはないわよ」

「いいえ。彼はそういう人物です」

 ひまわりのまたの断定ぶりに、リンダは僅かばかりまゆを潜めた。

 不快感が胸の内に汚泥のように溜まる。

 浩一郎、とファーストネームで呼んでいるのも気に入らなかったが、それによりも何よりも彼の人柄を断言するような言い方が気に障る。

 これは嫉妬なのだろう。いい年をしてみっともないとは思うが、どうにもならなかった。

「……では、行きましょう」

「ええ、わかっているわ」

 ひまわりが闇の奥へと向けて歩き出す。リンダもそれに続くように、歩を踏み出した。

 その時、だった。

 カランッと金属製の何かが転がるような音がした。音の軽さからして、それほど重い物ではないだろう。

 おおよそ、ジュースの空き缶のような空洞かつ軽量な物だ。

 リンダは咄嗟にそう思った。まだ、誰かいるのだろうかと周囲を警戒する。

「……誰かいるの?」

 問うが、返答は帰ってこない。それはそうだと思いながら、暗闇の中へと視線を向ける。

 目が慣れてきたとはいえ、廃工場の中は物が多い。

 身を隠されたら、見付けるのは至難の業だろう。そう思った。

「……ねずみのようですね」

 ねずみの鳴き声が聞こえ、続いて鳴き声の主だろう一匹のねずみが姿を現した。

 食べ物が豊富なのだろう。でっぷりと太った小汚いねずみだった。

「……あいつが何か倒したのかしら?」

「おそらくは。どちらにせよ、危害を加えてくることはないでしょう」

「なぜ? もし犯人の仲間が隠れていたら……」

「その場合、ここに来るまでに既にわたしたちは殺されてしまっていたでしょう」

「うっ……まあその通りね」

 ひまわりに言われて、リンダは言いかけた言葉を飲み込んだ。

 反論はあった。けれど、今は議論を交わしている時ではない。

 それに、ひまわりの言い分には一理ある。もし犯人がいたなら、二人はとっくに蜂の巣になってしまっていただろう。

 リンダはひまわりに続いて、暗闇の中へと向かっていくのだった。

 

 

 

                 ◇

 

 

 危なかった。危うく見付かるところだった。

 手許にあった何かよくわからない物を落としてしまったサラは、咄嗟に隠れた物陰に座り込んでいた。

 両手で口を押さえ、肩で息をする。

 落としたのは、ジュースの空き缶のような何かだった。本当に空き缶だったかもしれない。

 思いの他、大きな音が響いた。誰もいない廃工場という場所がなおさら、音を反響させたのかもしれない。

 いずれにせよ、助かったと息を吐く。ひまわりたちは行ってしまったのだから。

 ねずみだと思ったらしい。偶然なのか、サラが踏み入ったことによって驚いたのか、ねずみが微かな鳴き声を上げながら、走り回っていた。

 それがよかったのだと思った。助かった……と。

「……二人に見付かったらなんて言われるか」

 リンダはまだいいだろう。赤の他人であり人間である彼女は、きっとそれほどサラを糾弾はしない。

 問題はひまわりの方だ。彼女の場合、感情を切り離した論理的な言葉で延々とサラを責め立てるだろう。簡単に想像が付く。

 そうなったらサラの人格が木っ端微塵に壊されてしまうかもしれない。

 サラはぶるりと体を震わせた。そうはなりたくなかった。

 なら、必要なことは一つだ。ひまわりたちより先に浩一郎を見付ける。

 そして助け出し、二人に見付かるより先に車に戻って隠れている。

「……言葉にするのは簡単だけど」

 実際にそんなことができるのか。サラには全く自信がなかった。

 不可能なことのように思える。いや、思えるどころか実際問題として不可能だろう。

 やはり、大人しく車の中で待っていた方がいいのだろうか。

「いやいやいや、ここまで来たんだもん」

 助け出すことはできなくとも何か役に立てるはずだ。

 サラはパンッと自分の頬を張った。おう、と小声で気合を入れ、物陰からそっと顔を出す。

 ひまわりたちに見付かってはまずい。それはまず大前提。

 そしてそれ以上に、浩一郎を浚ったという犯人と鉢合わせするのも避けなければならない。

 犯人がいつまでもこんなほこりっぽい場所にいるのかはわからなかった。

 が、サラにできることはそう多くない。だから、例え可能性が低くても、やるしかなかった。

 一番避けるべき展開はサラ自身が捕まってしまうこと。これが最悪のパターンだ。

 そうなったら、誰も犯人には逆らえないだろう。リンダもひまわりも。

 そして、もちろん浩一郎も。

 浩一郎はサラを愛している。そのことは、これまでの生活で十分にわかっていた。

 母親を亡くした血の繋がらない娘を愛し育てる。これは生半可なものではない。

 何となく、ぼんやりとだけれど、サラにもわかる。

「だからこそ、あたしも……」

 きっと浩一郎はサラを失うことを恐れるだろう。その結果、どんな行動に出るか。

 サラにはわからなかった。けれど、それはおそらく誰も望まないことだ。

 だから、見付かってはいけない。危害を加えられてもいけない。

 みんなのお荷物になることだけは避けなければならない。

 サラはぐっと拳を握る。それを胸の前に持ってきて、深呼吸をする。

 二度、三度。あるいは五度。何度目かの深呼吸を終え、サラは物陰から体を出した。

 暗い、真っ暗闇。この中を進み、果たして本当に浩一郎を見つけ出せるのか。

「……こわい」

 はやくも、先ほどの決意が揺らぎそうだった。

 なぜこんなところに来てしまったのだろう。どうして、自分のような子供が。

 気を抜くと、弱気な言葉が次から次に胸の奥から溢れ出してくる。

 もしかすると、あの影から犯人が飛び出してくるかもしれない。ねずみがいるかも。

 いや、ねずみだけならまだしも、猛毒を持った虫やなんかがいたら。

 サラの心の中を、不安とおどろおどろしいイメージが占領していく。

 けれど、リンダの車に引き返す、という選択肢はなかった。

「……いかなきゃ」

 サラは震える手足に力を込め、一歩を踏み出す。

 そうして、また一歩。微かに物音がする度に、悲鳴を上げそうになる。

 その悲鳴を堪え、先へと進んでいく。

 ひまわりとリンダが通った道は選ばなかった。万が一鉢合わせしたら面倒だからだ。

 サラは止まったままのコンベアに飛び乗った。一体何の工場だったのかはわからない。

 その小さな体躯を生かして、通路とも呼べない細い穴に身を滑り込ませる。

 人が通ることを想定されていないそこは、かなり通りにくく、狭かった。

 同年代と比べ、やや小柄なサラでさえ、身をかがめなければ進めないくらいだ。

「……なんなの、ここ」

 思わず不満が漏れる。それからしまった、と思ったが、仮に見付かったとしても追ってはこられないだろう。

 こんなところ、大の大人が入れるはずがなかった。

「……とにかく、前へ……ッ!」

 サラは一瞬だけ背後を振り返った。が、すぐに前を向く。

 身をかがめた姿勢のまま、通路ではない通路をゆっくりと行く。

 果たしてどこへ出るのか。本当にこの先にサラが望んでいる人がいるのか。

 幼い、けれど勇敢な少女にはわからなかった。ただ、信じるだけだ。

 自分の行動の末に、それまでのあの日常が取り戻せると。

 

 

 

                  ◇

 

 

 

 頭痛とめまい、それから吐き気に襲われる。

 手足を拘束された状態で、浩一郎は小さく、長く息を吐いた。

 あの後、場所を移動したようだ。何度も殴られ、蹴られて意識が朦朧としている内に目隠しをされ、どこかへと連れて行かれた。

 どこへ行くのだろうか。呆然とする意識の中で、浩一郎は考えた。

 車に乗せられたようだ、というのはわかった。バタンとドアを閉める音がしたし、どこかを走っている様子だ。

 浩一郎を誘拐した連中。彼らの立場に立ってみれば、いつまでも同じ場所に留まっているのは危険だろう。

 だからこその移動なのかもしれない。

 そして、浩一郎を襲った暴行も移動先を知られないようにするための策の一環なのかもしれない。

 だとしたらとんだ蛮族だ。暴力に訴えるだなんて。

「……俺たちは戦争の時代に生きているわけじゃないんだぞ」

「何か言いましたか?」

 浩一郎の呟きを聞き咎めたというわけでもないだろうが、聞き覚えのある声に背筋を固くする。

 どことなく、底冷えするような声。先ほど、廃工場にいた男だろうか。

「まああなたの立場からすれば、これは不当な扱いに思えるでしょう」

 彼の声は実に平坦で、それでいて冷静だった。

 けれども、その言葉の端々にはどこか剣呑とした雰囲気が感じ取れる。

「事実、我々の行いは非人道的なものです。それは認めましょう」

「……だ、だったら今すぐこんなことは止めるんだ」

「いいえ、そういうわけにはいきません」

 男は声色を変えることなく、そう言う。

 目隠しをされているので、どんな表情をしているのかはわからなかった。

 それでも、きっと笑っているわけではないだろうことは容易に想像が付く。

 彼は言った。ひまわりのようなアンドロイドが大量生産できれば、金持ちになれると。

 けれど、と浩一郎の中で疑念が湧き上がっていた。

 本当に、ただそれだけのためにこんなことをしているのだろうか? それが彼らの……ひいては彼の願いなのだろうか。

「……君は、一体何が目的でこんなことをしているんだ?」

「おやおや、僕の話を聞いていなかったのですか?」

「聞いていたさ。でも、俺にはどうしても君には金儲け以外の理由がある気がしてならないんだ」

「何を仰っているのかわかりませんね」

「君は……もっと他の目的があり、その目的のために金が必要なんだ」

「はは、それは面白い仮説です」

 男は乾いた笑いを漏らした。まるで、浩一郎を嘲笑するかのように。

「何が言いたいのかわかりませんが、お聞きしましょう。目的地まではまだたっぷりありますからね」

「……どこからひまわりの情報が漏れたのか。それはわからない。俺は誰にもひまわりのことは伝えていない」

「ひまわりというのはあのアンドロイドのことですか?」

「ああ、そうだ」

「アンドロイドに名前とは、変わった趣味をお持ちですね」

「……そのことはいい」

 男がどれだけ浩一郎に付いて調べているのかわからない以上、下手なことは言えなかった。もし言ってしまって、弱みを教えることになったら最悪だ。

 一番最悪なのは、サラを人質に取られてしまうこと。そうなれば、こいつの言い分に従うしかなくなってしまうだろう。

 浩一郎は全く利かない視界の中で、そんなことを考える。

「……それで、あんたたちの本当の目的は何なんだ?」

 普段、浩一郎はこんな言葉使いなんてしない。それどころか、他人との接触を断って来た人間だ。

 だから、というわけでもないが、心臓の高鳴りが凄かった。

 一歩間違えば、先ほどのように危害を加えられるかもしれない。

 そんな恐怖と戦いながら、男の言葉を待つ。

「目的……ですか。そんな大層なものはないんですがねえ」

 男は困った、というように、頬を掻く。声の調子が、どうにも好きになれなかった。

 だからだろうか。珍しく浩一郎がこんな態度を取れるのは。

「なにぶん、今の世の中はひどく退屈ですからね。混乱を起こしたいというのが一つ」

 男が人差し指を立てる。が、その様子は当然浩一郎には見えなかった。

「あなたは、世界がどんな形で存在しているのか、理解していますか?」

「何を……言っているんだ?」

「ふむ……わからない?」

 浩一郎の困惑具合に、男は首を傾げた。

 実際、彼の言っていることは浩一郎には不明瞭だった。

 世界の形? 何を言っているのだろうか、この男は。

 浩一郎の背筋に一筋の汗が流れる。ツーッと伝っていくそれを感じながら、同時に戦慄を覚えた。

 目隠しされているからわからないけれど、今実際に男と目を合わせれば、きっと理由のない恐怖が浩一郎を襲っただろう。

 そう予測できるくらい、彼の言葉は、そして声は、その奥にある心は。

 技術者の理解を超えたものだった。

「まあそうでしょうとも。世の中の誰一人として、今の世界の在り方を知っている人はいません。しかしそれは、あなたたちの罪ではないので、安心してください」

 声が、柔らかいものに変わる。きっと、今の彼の表情は笑顔なのだろう。

 浩一郎は自分がなぜか安堵してしまったことに驚いた。

 何か、触れてはいけない部分に触れてしまったのだと、そう思ったから。

「世界の形とは、厚くて真っ黒なベールに包まれた状態なのです」

 男はくるくると立てた人差し指を回しながら、話を続ける。

「過去に起こった様々な出来事。戦争、飢饉、厄災、事故、人災」

 男の口調が楽しげなそれから、途端に平坦なものへと変化する。

 まるで、感情を押し殺しているかのような、自分の中にある怒気をこの場にいる誰にも知られまいとするかのような……少なくとも浩一郎にはそう感じられた。

「先人たちの苦しみと悲しみ、そして何千……いえ、何百億年と続いてきた地球の歴史。それらの歴史の上に、僕たちは今生活をしています」

「あ、ああ……それが一体何だと?」

「けれども今日、世界はその姿を分厚いベールに包み込んでしまった。一部の特権階級のみが、それまで先人たちが作り上げてきたものを独占している」

 必死に抑え込んでいる様子。けれど、彼の声音には明らかな怒気が混じり始めていた。

 伴い、車内に重苦しい空気が満ち始める。

「富、名声、栄誉、好意。世界の一部の既得権益者たちが、この世の利を貪り、残りの九十九パーセントの人々はそれを知らず、偽りの幸福の中で暮らしている」

「偽りの……幸福?」

「ええ、ええ。そうですとも。あなたたちの信じている日常など偽りです!」

 やがて興奮を抑えきれなくなった様子で、男は声の端を荒げた。

 怒りと、憐憫の情を交えたその咆哮に、浩一郎は言葉を失う。

「そこであなたのアンドロイド、ひまわりが必要になってきます」

「何を……言っているんだ? なぜひまわりを?」

「今、世界を覆いつくしているベールを剥ぐためですよ」

「ベールを……剥ぐ? それとひまわりが一体何の関係があるというんだ」

「……この国の法をあなたは知っていますか? アンドロイドに関する条文を」

「あ、ああ……さわりくらいなら」

 とはいえ、それほど詳しくは知らない。今まで、知らなくてもさしたる問題はないだろうと思ってきたからだ。

 知ろうとしなかったのだ。

「曰く、アンドロイドは風紀を乱す。予想される混乱を防ぐため、この所有と製造を禁止する」

 男が条文の一部をそらんじる。それから、ほうっと息を吐いた。

「この一文。これがいけないのです」

 男は自らがそらんじたその一条が目の前にあるかのように、苦悩の表情を作る。

「この法は人の進化の可能性を摘む、悪しき一文に他なりません」

「人の……進化の可能性?」

「ええ、そうですとも」

 浩一郎の呟きに、男は二度、三度と頷いた。

 進化の可能性……この期に及んで、人に一体どんな可能性があるのだろうか。

 人は古来より利便性の追求に心血を注いできた。

 朝から晩まで、死ぬような思いをしてまで働かなくていい環境を目指し、技術を向上させ、社会システムを築き上げてきた。

 そして今、まさに人類が夢にまで観た光景が迫っている。

 なら、今よりわずかに前進することはあっても、進化と呼べるほどの何かが起こるとは浩一郎には思えなかった。

「そして進化の可能性を握るのがあなたが作り上げたあの作品です!」

「作品? ……それはひまわりのことを言っているのか?」

「ええ、ええ。僕の探し求めていたものこそ、あのアンドロイド」

 男は若干以上に興奮した様子だった。

 ずいっと近付けられた顔。鼻先が触れるほどの距離にあるその憎らしい顔面を前にして、浩一郎はかなりの嫌悪感とわずかな同情を覚えた。

 つまり、こいつは病気なんだ。今の社会になじめず、居場所のない病人。

 そうと思うと、途端に目の前の得体の知れない男が哀れに思えてくる。

 何か、自分の内と外にあるものを探している。それは他者からの賛辞かもれないし、また自らの中にある劣等感かもしれない。

 どちらにしても、浩一郎にとっては迷惑な話だ。

「……まあ話は大体わかった。しかしわからないことがある」

「ほう? この期に及んでわからないことですか。何ですか?」

「それでなぜ俺を浚ったりしたんだ? ひまわりが必要なら、力付くで奪えばよかっただろう」

 浩一郎を浚ったあの手腕。そして組織力があれば、不可能ではないだろう。

 けれども、目の前の男はそれをしなかった。それはなぜか。

 男はじっと浩一郎を見詰めたまま、くすりと笑んだ。

「……僕はあまり争いというものを好みません。交渉も不得手です」

「だったら……」

 なおのこと、そうしてくれた方がよかった。

 そう言おうとした浩一郎だった。が、その口が言葉を紡ぐ寸前で閉じられる。

 そう、まさに目の前の男の一言によって。

「どんな安全装置を取り付けられているかわかりませんからね。それを完全に取り外しておきたかった」

「何を……言っているんだ、お前は……?」

 背筋に悪寒が走るのを感じた。車内は快適な温度に保たれているはずだ。

 それにも関わらず、首筋をじっとりとした汗が伝う。

 手の平が小さく震える。まるで、何かを恐れているかのようだ。

「わかりませんか? 僕は……おっと、次の場所に到着したようです」

 車が止まったのがわかった。バタッとドアを開け、男が降りる。

 優しく、細い手が浩一郎の肩に置かれた。目隠しをされているためか、びくっと全身が震える。

「そう怯えなくてもいいですよ」

「……お前たちが俺にしたことを忘れたとは言わせないぞ」

 浩一郎はつい数十分前の(正確な時間はわからなくなっていたが)を思い出しながら、鋭い声を出す。けれど、男も運転手もそれに取り合おうとはしなかった。

「降りてください。次のアジトに到着しました」

 抵抗することなく車から降りる浩一郎。ここで反抗の意思を伴った行動を起こしても、すぐに取り押さえられてしまうことは明白だった。

 だから、今は大人しくしていようと思った。ただそれだけのことだ。

 そうして、細いしなやかな手に導かれ、浩一郎は新しいアジトとやらに足を踏み入れた。

 ここで、ようやく目隠しが外される。

 煌々とした明かりが、ずっと暗闇の中にいた浩一郎の目を焼いた。

 しばらく呆然と目を細めて立ち尽くす浩一郎。

 やがて目が慣れてくると、段々と周囲の状況がわかるようになってくる。

「ここは……」

 つい数刻前までいた、使われなくなった廃工場ではなかった。

 そこは明らかな屋内だった。豪邸……というと大げさだが、紛れもない人家。

「ここは僕の居室の一つです。ここの他にも、いくつかアジトがあるのですが、それを今お教えすることはできません」

 当然だろうと浩一郎は思った。もし逆の立場だったら、こんな場所に連れて来ていたかどうか怪しいものだ。

 浩一郎はぐるりと屋内を見回した。

 高い天井。ここから先はオートメーション化されているのだろう。どことなく人の気配の乏しい印象だった。

 調度品などもあまりなく、普段使いしている家ではなく、別荘の類いなのだろうか。

 ぼんやりと、そんなことを思う浩一郎の手を引いて、男は階段へと向かった。

「ここがしばらくの間、あなたの住処となります。お部屋にご案内します」

 丁寧な言葉使いとは裏腹に、有無を言わなぬ強引な案内だった。

 きっと女性にはあまり相手にされないタイプなのだろう。

 頭の片隅でそんなことを考えつつ、引かれるまま、階段を昇る。

 案内されたのは、一つの扉の前だった。竜の飾りが施された扉の部屋だ。

「ここが今日からあなたの部屋です。中のものは自由にしてもらって構いません」

 男が扉を開ける。背後から押し込められたりすることなく、客人の入室を待っていた。

「……俺が何をしたのか、知っているはずだ。なのに自由にしていいとは」

「ご心配痛み入ります。けれど、大丈夫です。僕にぬかりはない」

 浩一郎は男から顔を逸らし、部屋の中を見回した。

 確かに、彼の自信は真っ当なもののようだ。

 部屋の中には、電子機器など一切見当たらなかった。

 代わりとでも言うかのように、和室が設えられていた。

「……俺のためにわざわざ作ったのか?」

「違います。あの和室は以前にこの家に住んでいた老人が拵えていたものらしいですね」

「なるほど。そこまで親切ではないというわけか」

「これは気が回らなくてすみません」

 男が恭しく頭を下げる。その様子がわざとらしくて、馬鹿にされているようだった。

 一体、この男は何がしたいんだ?

 浩一郎の頭の中に疑問符が浮かび上がる。

 ここまでの道中、男の目的に付いては聞かされていた。けれど、それだけではないように思える。

 ただの気のせい……ということも十分に考えられるのだが。

 しかし、車の中で語ったことが全容とも思えなかった。

「一時間後に食事の準備が整いますので、下の階に来てください。……その席でゆっくりと語り合いましょう。これからのことを……」

 男の口許が不敵に歪む。不気味な、底意地の悪そうな笑みだった。

 

 

 

                        ◇

 

 

 

 少女の足でどこまで行けるのか。

 サラは散々に酷使した両足を抱え、暗闇の中で蹲っていた。

 子供一人がやっと通れる通路? を見付け、そこへ入ったのはいい。

 しかし、その先に待っていたのもやはり闇だった。その闇の中を更に歩き、けれども浩一郎が見付かる気配は一向にない。

 それどころか、人影も見当たらなかった。ここは廃工場で、今は使われていないのだから当然だが。

 そんなわかり切ったことを再確認したところで、サラの胸中に巨大は不安が去来するだけだった。

 ひまわりとリンダはどこへ行ったのだろう。浩一郎は……。

 サラの頭の中に三人の、とりわけ浩一郎とひまわりの顔が浮かぶ。

 不安だった。このまま義父は見付からないのでないか。

 それどころか、サラ自身がこのまま、この廃工場で生涯を終えることになるのでは?

 そんな不安が、小さな胸を締め付ける。ぎゅっと、両手を握り締めた。

 もしかしたら、もう二度と浩一郎に会うことは叶わないかもしれない。

 後ろ向きな不安が次いから次にあふれ出てくる。どうせなら、もっと楽しいことを考えればいいのに。

 サラは小さく吐息して、頭を振る。

 今、浩一郎はサラ以上に不安なはずだ。

 ――なら、わたしがここで怖がってちゃだめだ。

 サラは顔を上げ、目の前の闇を見据える。

 ここに来てからずっと同じような光彩で過ごしてきた。もう、目は慣れている。

 薄っすらと見えるその場所を見回す。

 何かの廃棄施設のようだ。おそらくは工業廃棄物を処理するための場所だろう。

 サラはぼんやりとそんな予想を立て、前に進む。

「……浩一郎、待っててね」

 母親がいなくなってから、たった一人のサラの家族。

 実の子供でもない自分に不器用な愛情を注いでくれた、義理の父親。

 大好きなその父親のために、サラはたった一人、夜闇の中を行軍するのだった。

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