第五章 不穏…

「こういちろう…遅いね」

 サラは不満を口にする。けれど、それは誰かに向けたものではなかった。

 もし、誰に向けてかと聞かれれば、迷いなく義父の名前を出すであろう。

 ひまわりはそんな幼い主人の頭頂部を見下ろしながら、予定の時刻より到着が遅れている浩一郎へと連絡を試みる。

 何度も電子音が頭の中で反響する。応答はない。けれど、端末の電源が切られていたり、破壊されているわけではないようだ。

 ただ、彼の手許に端末がない。それだけのことなのだろう。

 彼が何かの作業に没頭している間、外部からの連絡に気がつかないことがある。

 それはここまでの道すがら、サラから散々愚痴を聞かされていた。

「……ええ、遅いですね」

 ひまわりの声は、ひどく平坦だった。まるで何事も心配や不満などないと言ったように。

 サラはそんな彼女?を見上げ、小首を傾げる。

「……どうしました、サラ?」

「んーん、何でもないよ」

 サラはにこっと笑んで、視線を前に戻す。

 別段、ドレスコードがあるような特別に高価なレストランを予約している、というわけではない。一見すると居酒屋かファーストフード店か、といった趣の店構えだ。

 けれど、実際には個人でほそほそと営まれている店らしい。店主の趣味で、日本風の食事を提供しているのだとか。

 浩一郎に言わせれば、あくまで日本〝風〟であるところがみそらしい。よくわからないとサラは嘆いていた。彼女は日本に実際に行ったことはないのだろう。

 いつか日本に連れて行くとも言っていたという。まだ実現はしていない。

「はあ……もうどのくらい待ってるかな?」

「ええと……大体二時間くらいでしょうか」

「そんなに! 何してるんだろう、こういちろう」

 サラはぶうっと唇を尖らせる。

 確かに、遅い。遅すぎる。

 話を聞く限り、浩一郎は時間にルーズな性格なのだろう。これはほぼ間違いないと言っていい。

 しかしそれにしても、二時間ちかく娘を待たせるのはどういうことなのか。本当にただ時間にいい加減なだけなのならまだいいが……もしかすると。

 と、ひまわりの回路の中を、一つの不安因子が駆け巡る。それを、まさか、と思って首を振った。

 しかし、けれども。何度も頭の中を横切るそれを鎮めようと、判断材料を次々に列挙する。けれど、拭えない。どうしても…おかしい。

 何が……とは具体的には言えない。ただの漠然とした予感めいたもの。

 アンドロイドがそんなものを抱くのかどうかはわからなかったが、この時のひまわりは確実にそう感じていた。

 得体の知れない不安が彼女の全身を総毛立たせているような……。

 しかし、根拠もない、実際のところは何もわからない。

 だからこのことをサラに言うべきか否か、判断が付かなかった。

 ちらりとサラを見下ろす。この小さなご主人様はじっと正面だけを見詰めていた。

 おそらく、義理の父親が姿を現すのを見逃すまいとしているのだろう。

 それから更に一時間が過ぎた。これで三時間、この場で待ちぼうけを喰らっていることになる。

 ここまでくれば、さすがにサラも不審に思えてきたのか、段々と表情が曇ってきた。

 眉間に皺を寄せ、不安げな眼差しをひまわりへと向ける。

「……おそいね、こういちろう」

「ええ……これは、いくらなんでも待たせすぎなような気がします」

「どうしたんだろう? お仕事が忙しいのかな?」

「でしたら、わたしの方に連絡が入っているはず。でも、わたしは何も聞いてませんよ」

「うん……」

 サラは頷き、それからまた、正面へと視線を投げた。

 行き交う人の群れ。けれど、その中で誰もサラを、この小さな女の子に気を止める人物はいなかった。

「……ちょっと待ってください、サラ。今、浩一郎に連絡を取ってみます」

「……ありがと」

 繋いでいた手を離し、サラと少しだけ距離を取る。それから、ひまわりはまぶたを閉じた。

 通話機能を呼び出し、浩一郎の端末へと着信を告げる。

 けれども、いつまで経っても彼が電話に出ることはなかった。どうしたと言うのだろう?

 ひまわりは自身の中にある疑念が更に大きくなるのを感じながら、通話を断った。

 いつまでもここで立ちっぱなしでいるわけにはいかない。そろそろ帰らなくては。

 ひまわりは文面を残しておくことにした。いつまでも姿を見せないので、帰宅するという旨の文章を浩一郎の端末に送る。

 これで、まあ一先ずはいいだろう。

 ひまわりはまぶたを開け、サラの方へと戻った。

「浩一郎と連絡が取れませんでした。……今日のところは帰りましょう」

「……だね。何だか眠くなってきちゃったし」

 ふわ……とサラが大きなあくびをする。小さな口を開け、目尻に滴を溜めているその様子はとても可愛らしかった。

 けれども、ひまわりはサラの様子を見ながら、首を傾げる。

 サラはどこか、不安げな様子だったから。それが伝わってきた、ということもないだろうが、ひまわりまで自分の創造主の身に何か起こったのでは?と思えてくる。

 おそらく……大丈夫だろう。ただ自らに言い聞かせるためだけに、ひまわりはそう考えることにした。



               〇〇

 

 

 白衣から伸びるすらりとした足をもみほぐしながら、リンダはじっと虚空を見詰めていた。

 何をしているのだろうか、と自分に問う。 

 浩一郎に愛の告白めいたことを下のはいいのだけれど、それ以降は何の反応も得られていない。

 それどころか、彼の顔を見ると体中の体温が上がって落ち着かなくなる。

 果たして、自分はこんな子供のような恋心を抱く人間だっただろうか?

「……おちついて、私。私は科学の徒。恋愛だってクールにこなせるわ」

 リンダはふーっと吐息して、ふくらはぎを揉んでいた手を休める。

 それから、再びPCへと向き直った。

 今、彼女が手掛けているのは介護ロボットのバージョンアップだった。現行のままでは、不都合が生じ始めたのだ。

 有り体に言って、利用者の不満が出始めた、とも言える。人の欲求とはかくも底知れぬものなのか、とこの手の注文を受ける度にリンダは驚く思いだった。

 さて、とはいえ仕事は仕事。研究開発を円滑に進めるためには資金がいる。

 資金の調達には様々な方法があるが、やはり一番は仕事を通して信頼を得ることだ。融資やら何やらは信用あってのものなのだから。

「……割とうちの信用度って高いのよね。平均九十七パーセント」

 優秀な他所の研究施設でも八十パーセントがいいところだ。

 それを考えると、リンダが統括する研究所は優秀な部類と言えよう。

「それもこれも、浩一郎のお陰ね」

 初対面の時はこの青年で本当にいいのかと思ったものだけれど。ずいぶんと型破りというか、なんというか…。

「……これも、愛の力という奴なのかしら?」

 リンダはキーボードに走らせていた手を止めて、独り言ちる。

 願わくば、その愛の対象が自分であったなら、どれだけよかっただろう。ここ数ヶ月、そう考えない日はなかった。

 こう言っては何だけれど、死人にいつまでも固執しているのはよくない。

 ――私なら、きっとあなたとともに生きていける。

 そう思っているのだが、直接的な表現はやはり憚られる。

 端的に言って恥ずかしいのだ。

 だというのに、先日はあんな醜態を晒してしまった。なぜあんなことをしたのか、自分で自分がわからなかった。

「馬鹿みたい……何やってるのよ、私」

 呟く……と、内線で電話が鳴った。……これは?

「非常用通信? どうして……」

 かかってきたのは、非常時用に設定している番号からだった。

 自信、事故……その他のあらゆるトラブル、不慮の事態に遭遇した際にかける番号。

 他の回線とは遮断されており、機密や秘密の保持、プライバシーなどに配慮された回線だ。

「ここにかかってきた……ということは?」

 誰かが危険な目に遭っているのか?

 事故ではない。それなら、同時に警察やレスキューなどからも連絡が来るはずだ。

 だとしたら、そういうの以外での緊急事態?

「……まさか!」

 事件に巻き込まれたのか? 誰が?

 リンダはすぐさま、現在開いているウィンドウを閉じ、通信回線を繋げた。

 何かをすりつぶすような音が、断続的に聞こえてくる。

「これは……車? 車に乗っているの?」

 この装置が破壊されていないということは、少なくとも気づかれてはいないということだ。

 なら、きっと連れ去られた誰かは無事だ。問題は一体誰が事件に巻き込まれ、どこへ連れて行かれているのか、ということだが。

 何か……何か手がかりになるようなものはないのだろうか?

 リンダはそれまでより一層注意して、PCから流れてくる音声に耳を傾けた。

 話し声が聞こえる。男の声だ。

 何だろう……? 何と言っているの課までは聞き取れなかった。

 ただ、不穏な雰囲気は察するに余りあった。はやく見つけ出さないといけない。

「……ん?」

 今一瞬、名前のようなものを口走った気がする。何と言ったのだろう?

「サラ……ええと、食事?」

 リンダは辛うじて聞こえてきたそれらの単語を反芻する。

 頭の中でつなぎ合わせる。

 日付は今日。サラと食事……そしてこの非常通信。

「まさか、事件に巻き込まれているのは……!」

 リンダは思わず息を飲んだ。

 なぜ、彼が? どうしてこんなことに?

 脳裏に浩一郎の困ったような笑顔が過ぎった。

「今日、サラと食事に行く約束だった? そこへ巻き込まれた?」

 リンダは自分の中の推測を言葉に変換する。

 自信を持って当たっているとは言えない。でも、そう大きく間違ってもいないだろう。

 もしそうだとするなら、何て不幸なことだ。

 今頃、サラはどうしているだろうか? 想像するだけで悲しい気持ちになる。

「どうしてこんなことに……」

 しかし果たして、どうしたら……おそらく浩一郎の端末は使えない状態のはずだ。

「どうにかして、サラと連絡が取れないかしら」

 サラと浩一郎が一緒にいた場合、二人とも危険だ。

 けれど、離れているのなら、手の打ちようもある。まずはそれを確かめたい。

「いやいや、まずは警察に連絡を……」

 リンダはふるふると頭を振った。どうにも冷静さを欠いていたようだ。

 常識的に考えて、ここは警察に通報するのが一番だろう。そうすれば、すぐに見付ける。

 そのはずだ。

 リンダはすぐさま通話アプリを立ち上げる。こんな時のためにインストールしておいた警察の番号を呼び出し、コールボタンへと手を伸ばした。

 しかし、彼女の手はボタンを押すことなく、ピタッと止まった。

「待って……もし、この行為が犯人に知れたら?」 

 可能性としては相当低い。もしこれが実験やデバックなら、無視していい程度の誤差でしかない。

 どんな深淵な考えがあろうと、最終的には警察に届けなくてはならないのだから。

 それに、現在の警察は十年前とは違う。ものの数時間で犯人を特定してくれるだろう。

 単数、グループに関わらず、だ。なら、警察に連絡するべきであり、迷う理由はない。

 リンダは自らにそう言い聞かせる。が、ボタンが押されることはなかった。

 なぜだろう? 自分でもわからないが、押さない方がいい気がする。主に自分のために。

 しかし、そんなことを言っている場合ではないのは子供でも承知するだろう。

「…………」

 悩んだ末、リンダはアプリを閉じた。

 どうにかサラと連絡が取れないかと思案した。……が、パッと思いつくはずもない。

 そうやって頭を抱えて、何分が経過しただろうか。五分? 十分?

 もしかしたら一時間以上かもしれない。

 そうやって考えていると、リンダは記憶の断片が流れていくのを感じた。

 そう……あれはコンビニでのできごとだ。

 誰もいない、無機質な機械だけの店内。そこにいたサラ。

 そして、その傍らにはもう一人いたはずだ。あれは確か、サラの母親……にそっくりな。

 そこまで考えて、リンダはすぐさま通話アプリを立ち上げる。警察に連絡するためではない。

 今度は、浩一郎の自宅にかけてみるつもりだ。最初からそうしろと言われるとつらいが、思いつかなかったのものは仕方がない。

 何度かの呼び出し音。そして、通話が繋がったことを知らせる電子音。

 しかし、声は聞こえてこなかった。沈黙だけが、その場を支配する。

「……ええと、私は浩一郎の同僚でリンダと言います。あなたは……サラ?」

 なるべく心臓を落ち着けて、ゆっくりと話す。相手からの返事はなく、吐息すら聞こえてこない。

 なんで何も言わないんだろう?

「サラ……?」

『わたしは、サラではありません』

 ようやく返ってきたのは、無機質とも取れる、感情の欠落したような声。

 それでも、女性だとわかるくらいに高い。本人も言ってる通り、サラではないのだろう。

 浩一郎を浚った犯人の仲間だろうか、と一瞬身構えた。

 が、声の主は逡巡するように黙りこくった後で、言った。

『サラは現在、疲れて眠ってしました。要件ならわたしがお伝えしておきます』

「あなたは……浩一郎の何?」

 この声、どこかで聞いたことがあると思った。あのコンビニの人物だ。

 あまり自信はないが、状況的に見てそうだろう。

 リンダが問うと、電話の向こうの人物は困ったように言葉を詰まらせた。

 何と言っていいのかわからないほど複雑な関係性、ということなのだろうか?

 リンダはそう想像する。してしまった。

 こんな状況だというのに、嫉妬心めいたものを抱いてしまうなんて。

 それにしても、一体彼女は何者なのだろうか? これについては後で浩一郎を問い詰める必要がありそうだ。

 しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。

「ごめんなさい。今のは忘れて。それより、あなたは浩一郎のお知り合いだと思うのだけれど……」

『その認識で結構です。それで……あなたは?』

「私はリンダ。さっきも言ったけれど、浩一郎の同僚よ」

『そうですか。それで、リンダは一体なぜこんな時間に電話を?』

「緊急で知らせなければならないことがあるから」

『緊急……浩一郎の身に何かあったのですか?』

 呼び捨て……それもファーストネーム。

 電話の向こうから発せられた意外な攻撃だった。

 割と重めのジャブをあごに喰らった気分だ。いや、そんなことはいい。

「今、自宅?」

『ええ。そうです。浩一郎はサラとディナーの約束をしていたのですが、三時間待っても現れなかったので帰宅しました』

「それは……」

 お気の毒様。さぞサラはがっかりしたことだろう。

 リンダは悲しみの中で眠るサラの姿を想像して、ぎゅっと胸が痛んだ。

 大丈夫。浩一郎は必ず取り戻す。そしてあなたの下へ帰すわ、サラ。

 誰にでもなく、自分自身にそう宣言する。

 とはいえ、半ば彼女の予想は当たっていた。今話をしている人物は想定外だけれど。

「ええと、あなたの名前を聞かせてもらっていいかしら?」

『わたしはひまわりと申します』

「ひまわり? ……それって日本の花の名前よね? あなた、日本人なの?」

 それにしてはずいぶんと流暢に話すものだ。いや、日本人がみな第二言語を話せないなどとは思っていない。

 ただ、これほどしっかりと会話をするとは。まるで生まれてずっと英語圏にいるかのようだ。……いや、今はそれどころではない。

「大変よ。今、浩一郎が誘拐されたことを確認したわ!」

 ピクッと画面の向こうでひまわりが体を震わせたのがわかった。

 動揺……しているのだろうか。それにしては、呼吸しているかすら定かではないほど吐息は聞こえてこない。

 もし、ひまわりが彼の新しい伴侶なら、この悲報に動揺しているはずだ。

 それにも関わらず、これほど冷静でいられるなんて。おそらく私には真似できないことだ。

 リンダはそう思い、すうっと息を吸った。

「それで、彼からの連絡は?」

『……いえ、今のところは何も。もしその話が本当なら、連絡なんてしていられる状況ではないでしょう』

 実に冷静な物言いだ。そして、言っていることも正しい。

 その点に関しては、リンダも同意見だ。だからこれは、万が一の場合も考えての質問であり、最初から吉報を期待していたわけではない。

『……なるほど。だからディナーの時間に現れなかったのですね』

「ディナー……」

 リンダは彼女の言葉を繰り返し、呟いた。

『ええ。サラと一緒に夕食を食べるはずでした』

「そうなの……」

 それは本当に残念なことだ。できるなら、この予想は外れていて欲しかった。

 しかし、起こってしまったものは仕方がない。

 リンダはほうっと息を吐いて、続ける。

「今、私の方でわかっていることを説明するわ」

『了解しました』

 了解しました、か。ずいぶんと機械的な言い方だ。

 そしてそれも、今言及するようなことではなかった。

 今はただ、一刻もはやく彼の――浩一郎の居場所を見つけなくてはならない。それだけに集中しなくては。

 リンダは現在、自分が知り得る情報をすべてひまわりに伝えた。

 

 

 

                 〇〇

 

 

 

 


 車を乗り捨てさせられ、どこかへと向かっている。

 しかし、浩一郎は目隠しをされ、視界を奪われている状態のため、今時分がどこにいるのかまったく把握できなかった。

 誘拐の常套手段だと思った。しかも、大昔の。

 かなりアナクロな方法だ。もっとスマートなやり方はいくらでもあるだろうに。

 なんて考えていると、車が止まった。つられて、頭が軽く前のシートに当たった。

「……降りろ」

 野太い声。屈強な男の姿を想起させる、そんな声だ。

 これまで格闘技はおろか、ろくに体を動かすこともしてこなかったので、は向かっても無駄なことは軽々と理解できた。

 だから、大人しく従う。サラは大丈夫だろうか?

 ひまわりがついているのだから大丈夫だ。今は自分のことだけを考えよう。

 車を降り、どこかへと手を引かれていく。

 時々段差などに気をつけるよう、声をかけられた。

 そうしてようやく、男たちの足が止まる。

 半ば剥ぎ取られるようにして目隠しを外され、煌々とした明るさに目を細める。

「……どこだ、ここは?」

 問うても、答えは返ってこなかった。当然か。

 しばらくして、ようやく目が明るさに慣れてくると、きょろきょろとあたりを見回す。

 しかし、今自分がどこにいるのかなんてわからなかった。

 わかったのはそこが、ずいぶん昔に廃れた場所だろうということだけだった。

「……廃工場? 缶詰工場みたいだが」

「その通りです。ここはかつて、缶詰工場でした」

 突如として、頭の上から声が降りかかる。

 浩一郎はバッと頭上を見上げ、閉口した。

「おっと、そんなに怖い顔をしないでください。僕はただ、あなたとお話したいだけだ」

 こんなことをしていおいて、ぬけぬけとよく言えたものだ。

 浩一郎はカンカンと音を響かせ、階段を降りてくるその男を睨みつけた。

 果たして、浩一郎の眼光にどれほどの効果があったのか。

 男は態度を崩さず、笑みを絶やさず。ゆっくりと階段を降りてくる。

 年の頃は……三十代後半といったところだろう。灰色がかった銀髪に丸い眼鏡。

 痩身痩躯でスーツという姿は、いかにもやり手のビジネスマンといった風貌だ。

「ああ、今時こんな格好、時代遅れだと仰りたいのでしょう?」

 男は自分のスーツを示し、苦笑した。

「しかしこれは僕の立派な戦闘服なのですよ。こう見えてビジネスマンなのでね」

 ジョークのつもりだろうか。まったく面白味に欠けている。

 何か別の仕事を探した方がいいのではないだろうか。そう思ってしまうくらい、この男のトークはつまらない。

 いや、それは今の浩一郎が囚われの身だからそう思うだけかもしれない。

「それで……僕に一体何の用なんだ?」

 正直に言って、怖かった。こんな状況だ。仕方がないだろう。

 浩一郎は小さく震える左手を右手で強く掴んだ。ちょっとでも震えが和らぐように。

「まあそう怯えないでくれたまえ。何も取って喰おうというわけではないんだ」

「だったら……」

「君の非凡な才能を買いたいと思っているのだよ」

「……何だって?」

 浩一郎は思わずまゆを潜めていた。

 非凡な……才能? 誰の? 僕の?

 目の前の男の言うことが、いまいち飲み込めなかった。

 才能を買いたい、とはどういうことなのだろうか。

「くく……ずいぶんと不思議そうな顔をしているね。君は自分の才能を理解していないのかい?」

「理解……何を……」

「高度な人工知能。精緻なボディ。あのアンドロイドは素晴らしい!」

 バッと両手を広げ、高々と喘ぐようにそういう男。

 彼が何を言いたいのか、何となく察しがついた。

 この男はひまわりのことを知っている。知られてしまっている。

 浩一郎は警戒を強めた。自然、両足に力が入る。

「あのアインドロイドを私に譲ってはくれないか?」

「何を……言っているかわからない。アンドロイドの製作は法律で厳しく制限されている」

「ああ、知っているとも」

 だからこそだよ、と男は歌うように続ける。

「だからこそ、彼らの需要は図り知れない。どれだけ規制しようと制限を設けようと人の良くにふたはできないし、マーケットは閉じない」

「……ひまわりを金儲けの道具にしようって?」

「ああ、当然だよ。だってそのために私はこの話をしているのだから」

 ずいぶんと下卑た笑みだ、と浩一郎は思った。

 さて、どんな市場を想定しているのか、ただの技術者である浩一郎はわからない。

 ただ、ぼんやりとひまわりの市場価値というものを想像してみる。

 現在の技術なら、ひまわり程度のアンドロイドであれば簡単に作れるだろう。

 けれど、量産に至るには様々な壁があった。

 一つに、失業者の増加だ。

 今でも単純労働に限って言えば、失業率は九十パーセントを上回る。

 同じことを繰り返すだけなら、ロボットの方が効率の面でもコストの面でも優れているからだ。

 しかし、今だに複雑な作業をこなすことはできないでいた。

 その最たる例が医療現場だ。

 医療には様々なトラブルが付き物。予想外な事態にも素早く対応できなければ、最悪の場合患者死亡してしまう。

 だから、今現在にあっても医者は人間の仕事であり、そして数少ない人間の仕事でもある。

 そしてもう一つ。これが一番のネックになっている部分だろう。

「法律は古い。人の雇用を守るためと謳いながら、政治家が自らの職を失わないようにしているに過ぎないんだよ」

 男はそのことを嘆くようにはあと溜息を吐いた。

「現状でも、あらゆる産業における失業率は六十パーセントを超えた」

 彼はゆっくりと首を振る。

「いくら法律で規制しようと、じわじわと機械が人間にとって代わっている」

「……それが、一体何だと言うんだ?」

「わからないかい? 結局は遅いか早いかの違いでしかないんだよ」

「……だから、お前が世の中を変えようって?」

「まさか」

 ぷっと男は吹き出した。別段面白いジョークを放ったつもりはない。

 ただ、思ったことをそのまま伝えただけだ。

「僕にそんな高尚な理想はありません。最初に伝えたでしょう?」

「ふん……ただの金儲けにしか興味がないということか?」

「ええ、ええ。当然でしょう? マネーはこの世で最も大切な物です」

 男は我が意を得たり、とばかりににやりと笑んだ。

「金がこの世で最も大切……ねえ」

「おやおや、あなたは別な意見を持っておいでのようだ」

「当然だ。この世の中には金以外に大切な物がたくさんある」

 浩一郎はサラの笑顔を思い浮かべた。

 あどけない、天使のような笑顔。そこに、彼女の母親の暖かな微笑みがあったらと何度夢に見たかわからない。

「……なるほど」

 浩一郎の言葉を受け、男はすっと笑みを消した。

 底冷えするような視線で、浩一郎を見下ろしている。

「……僕とあなたはだいぶ意見が合わないようです」

 男はすうっと手を差し出した。まるで、何かを催促するかのように。

「話はここまでだ。あのアンドロイドを僕にください」

 人間はここまで感情の伴わない声出せるものだろうか。

 浩一郎は背筋にぞくりとしたものを感じた。これか恐怖か、それとも別の……?

 だからと言って、彼の言葉に従うつもりもなかった。

 ゆっくりと首を振る。はっきりと言葉にする。

「……だめだ。お前のような奴にひまわりは渡せない」

「……そうですか。わかりました。できれば穏便に済ませたかったのですが」

 男は差し出していた手を下ろした。踵を返し、足音を響かせて奥へと去って行く。

「待て! どこへ行く気だ!」

 浩一郎は叫んだ。けれど、男は振り返ることなく、当然返答もない。

 だめだ、このままあの男を行かせては……!

 己の中に雷鳴のように駆け抜けたその声に従い、浩一郎は彼の後を追うべく駆け出した。

 が、側に控えていた彼の部下? だろうか。屈強なその腕に取り押さえられる。

 コンクリートの床に、強かにあごを打ち据えられる。

 ざっと、視界にノイズが走ったような気がした。が、意識を失うことなく、けれど身動きを封じられ。

 ただ、男が去って行く足音を聞いているしかなかった。

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